「倶舎論」をめぐって

LXXXXII
さて、我々としては、第1・2章「界」「根」品の櫻部博士の解説を離れ、次の第3章「世間品」の訳注研究をなした山口益・船橋一哉両博士の業績を見てみよう。本訳注研究が、刊行されたのは、昭和30年である。爾来、この書は、古書となり、一連の訳注研究の中で、これだけが再版されていない。それ故、値段も高価である。5万円ほどするので、個人所有は、なかなか難しい。本書の緒言において、山口益博士は、縷々、出版までの経緯を語っている。ここでも、簡単に、その消息には触れたが、山口博士の詳細な説明を伺ってみよう。大分長いものである。しかし、臨場感に溢れる記述となっている。事は、『倶舎論』を巡る国際的プロジェクトと、本書出版までの紆余曲折である。
 世親の阿毘達磨倶舎論は、阿毘達磨の良き綱要書として、聡明論の名の下に、特にわれわれの伝統にあっては玄奘訳の倶舎論を原典として、永く仏教基礎学の教科書の役目を果たして来た。しかし近代の仏教学の分野に於て、始めて倶舎論をとりあげたのは、フランス仏教学の鼻祖であるユージェヌ・ビュルヌフ(Eugene Burnouf)に於てであった。ビュルヌフは、その著「インド仏教史序論」(L’introduction de l’histoire du Bouddhisme indien,1844)の中で、アビダルマ(abhidharma)の語義、世尊(bhagavad)の語義などに関説するにあたって、巴里アジア協会の写本によって、称友〔=ヤショーミトラ〕の倶舎釈論の梵本を参見している。その他「インド仏教史序説」が参照する跡より見て、その称友の倶舎釈論の梵本写本は、ビュルヌフのその労作のために重要な資料となっていたことが知られるのである。しかし、称友の梵文倶舎註釈が倶舎論の原典研究の立場からまさしくとりあげられたのは、明治の初期に南条文雄師とともにイギリスに留学した大谷派の学僧笠原研寿師によってであった。はじめは南条文雄師がビュルヌフの依用した巴里アジア協会の写本の謄写にとりかかられたのではあったが(明治十四年、1881)、同年十一月笠原師がこれに代わり、透明紙を原本の上に布いて影写を始め、三四ヶ月にして、五三五葉からなるその写本の全巻の謄写を卒へたものであった。しかしその業の過労のために、笠原師は病を得、帰朝の後、明治十六年(1883)遂に病没せられた。この笠原師が筆写せられた謄写本は、現在大谷大学図書館に蔵せられ、大正十二年(1923)には、故泉芳ケイ教授の配慮によって、その謄写本より青写真の映本を作製して、同学の研究者に分与せられたこともあった。…それは且らく別として、その後ヨーロッパの学界では、一九一二年に先立つ年時に於て、アウレル・スタイン(Aurel Stein)卿がシナ・トルキスタンで発見したウイグル諸文書の中に倶舎論のウイグル訳のあることが明瞭になり、そのウイグル訳倶舎論が巴里のシルヴァン・レヴィ(Sylvain Levi)教授に譲り渡されることになり、そこで一九一二年、シルヴァン・レヴィ教授は、当時ウイグル文書に関心を傾注していたデニソン・ロッス(Denison Ross)博士等と共に、そのウイグル本の出版を敢行する計画と同時に、倶舎論そのものの出版の計画を提案した。そしてその提案のなされた頃、ヨーロッパの学者の間にはすでに倶舎論研究の気運のようようさかんなるものがあり、その提案に従って、次のような出版計画が建てられた。
(1)  チェルバツキー(Th.Stcherbatsky)教授によって、倶舎論本頌と釈論との第一部及び第二部のチベット訳本の校訂出版。ド・ラ・ヴァレー・プーサン(de La Valle Poussin)教授によって、その同じチベット訳の残余の部分の校訂出版。
(2)  シルヴァン・レヴィ教授によって、称友倶舎釈梵本の第一部の出版。荻原雲来師によって、その第二部及び続く諸部の出版。
(3)  デニソン・ロッス博士によって、ウイグル訳の出版。
(4)  荻原師によって、真諦訳倶舎論及び玄奘訳倶舎論の出版。
(5)  ド・ラ・ヴァレー・プーサン教授によって、本頌と釈論とのフランス訳。
(6)  チェルバツキー教授とローゼンベルグ(O Rosenberg)講師とによって、本頌及び釈論のロシア訳。
(7)  シルヴァン・レヴィ教授によって、称友倶舎論註釈の第一部、ド・ラ・ヴァレー・プーサン教授によって、その残余の部のフランス訳。
(8)  ローゼンベルグ講師によって、世親の論書に表れたる哲学の体系的論述。
(9)  チェルバツキー教授とローゼンベルグ講師とによる本頌及び釈論の英訳。..
以上の中(1)につぃては、仏教文庫第二十巻(Bibliotheca Buddhica XX)として、一九一七年に界品の終わりまでが、そして、一九三○年には、根品の第四六偈、すなわち不相応行法の四相の場所までが刊行せられた。その刊行の仕方は、玄奘訳本に見られる如く、釈論の間に本頌をできる限り別に揚げて識別せしめたもので、真諦の如く、釈論中の本頌を、釈論の原型のままに表示したものではない。そしてこの出版は、根品第二の終わりまでまだ達していないので、従ってそれはチェルバツキー教授の担当の範囲内に属し、まだド・ラ・ヴレー・プーサン教授の担当の部分までは及んでいない。(2)の称友倶舎論註釈の梵文出版は、直前に一言関説した如く、仏教文庫の第二一巻として開始せられて、第一分冊は一九一八年に界品の終わりまでが、シルヴァン・レヴィ教授とチェルバツキー教授との共同労作で刊行せられ、第二分冊は、一九三一年の根品第二の衆同分の場所までが、荻原雲来師とチェルバツキー教授との共同労作で刊行せられた。チェルバツキー教授は、主として、チベット訳と梵語原文との比較を担当したのであつた。しかるにその第二分冊の刊行せられるに先立って、シルヴァン・レヴィ教授の提案による倶舎論関係諸刊行物の計画とは別な過程で、ド・ラ・ヴレー・プーサン教授は「世親と称友」(Vasubandhu et Tasomitra)なる題名の労作を刊行し(1914-1918)、そこには倶舎論世間品第三の称友の註釈の梵本校訂本が収蔵せられている。そのようなわけで、先の第二分冊の刊行せられた時には、称友註釈梵本の界品と根品の一部、並びに世間品が与えられてあったことになる。そこで、昭和七年から同十一年まで(1932-1936)の五ヵ年を費やして友松圓諦氏の配慮によって、梵文倶舎論疏刊行会(The Publishing Association of Abhidharmakosavyakya,Tokyo)が組織せられ、その刊行会から梵文倶舎註釈の全巻が、荻原雲来師の校訂出版によって刊行完成せられた。それは実に、仏教文庫からの二分冊本並びにプーサン教授による世間品に対する校訂本の補訂出版の業ともなり、そしてそれを継続完成したという事業ともなったのである。(3)のウイグル訳の出版が、どのように進捗したか われわれはそれを審かにしないのであるが、羽田亨博士の労作「回鶻本安慧の倶舎論実義疏」(白鳥博士還暦記念東洋史論叢、大正十四年)がそれに関連するものであることは言うまでもない。(5)は、ド・ラ・ヴレー・プーサン教授の生涯の労作の中の最も厖大な業績となった。プーサン教授は、先に(3)の皐で関説した「世親と称友」の中で、倶舎論本論の世間品をチベット訳からフランス訳したのであったが、今茲に計画せられた倶舎本論のフランス訳は、界品と根品とのそれを含めた第一分冊が先ず一九二三年に刊行せられ、逐次に巻を追うて五分冊でもって倶舎論全章に亙るフランス訳が完成し、一九三一年には、序論、本頌梵文の断片・索引・追加を含めた第六分冊の上梓を見て、茲に、倶舎論の本頌と釈論とのフランス訳に関するその事業が完了した。先に刊行された「世親と称友」におさめられている世間品の訳は、チベット訳のみを原本として行われたのであったが、いま完了した「世親の阿毘達磨倶舎」(L’Abhidharmakosa de Vasubandhu)に見られるフランス訳は、玄奘訳にも拠り、時あっては真諦訳をも参照し、先の「世親と称友」の中に掲げられた世間品のフランス訳には補訂が施され、脚注には関係文献による委細な註記が与えられてあって、倶舎論を解読する者にとって実に不可欠なテキストである。曾て、ルネ・グルッセは、「インド哲学仏教学の最も精妙な概念を、西洋哲学の学術後に訳するために、フランス学派の人は目ざましい努力をした」という言葉を残したのであったが、ルネ・グルッセのその賛辞は、今いうプーサンの倶舎論訳註などの上に主として注がれていると言ってよいのであろう。プーサン教授には、この倶舎論訳註に関連して、チベット訳施設足論の世間施設と因施設との分解(「世親と称友」の付録)、仏教道徳(Morale bouddhique,1927),「仏教の教義と展開」(Dogme,et philosophie de Bouddhisme,1930)等の著作、その他数々の諸労作があって、近代に於て倶舎論の最も偉大な貢献をした学者であると言ってよいのであろう。故荻原雲来師が称友倶舎釈梵本の出版に際して、プーサン教授をgreatest contributor〔最大の貢献者〕として、プーサン教授にdedicate〔献呈〕していられることの当然であることが知られる。(6)は、(5)のプーサン教授のそれと同様なものが、ロシア語訳として計画せられてあったのであろう。(7)もそれが刊行せられるに至らずして終わったようである。(8)には、〔ローゼンベルグの〕「仏教研究・名辞集」(1919,Tokyo)と、「仏教哲学の諸問題」(Die Probleme der buddhistischen Philosophie,1924,Heiderberg)との二巻が刊行せられた。この二書、殊に後者は、日本の学界へも影響を与えた注目すべき論述である。(9)の一部の業績としてチェルバツキーの倶舎論破我品の英訳(The Soul Theory of the Buddhist,1920.Bulltin de I’Academie des Sciences de Russie)が刊行せられている。また、チェルバツキーのThe Central Conception of Buddhism and the meaning of the word “dharma”(London,Royal Asiatic Society,1925)にも、その付録第一には、随眠品第五(玄奘訳でいえば第二十巻の初)に出される三世実有法体恒有の論議に関する個処の本文が英訳せられている。…(長い引用なので、分けて掲載する)

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