仏教余話

その121
さて、ここで、我々は、ようやく、話の発端であった漱石のいた明治に近づいた。原担山は、曹洞宗の傑物である。その事跡を見て、もう1度、明治仏教界の様子を伺ってみたい。木村清孝氏の詳しい論文があるので、以下、それを引用してみよう。原担山は、当初、仏教ではなく、儒学を学んでいたようである。それが、なぜ、仏教を講ずるまでになったのか。木村氏は、その辺りの経緯を、こう綴っている。
 四○年(一説に四四年)、この担山に大きな転機が訪れる。それは、一種のアルバイトとして駒込の栴檀寮(曹洞宗大学林)で儒教の経書の講義を行っていた折、学僧の大中京璨と儒仏の優劣をめぐって論争し、敗れたことである。これを契機として、担山は出家した。(木村清孝「原担山と「印度哲学」の誕生―近代日本仏教史の一断面」『印度学仏教学研究』49-2,平成13年、pp.533-534)
出家した担山の学問は、かなり認められていたらしい。その辺りのことは、次の記述で推測出来る。廃仏毀釈に対する仏教界の動きである。
 これに対して仏教界は、当然のことながら、深刻な危機感を抱いた。そこで翌六九年、仏教各宗の代表は、東京・増上寺で正式に諸宗同盟会を立ち上げ、さらに翌々年には諸宗が協力して総学(仏教専修学校)を設けた。担山はこのとき、同校の講師の一人となっている。(木村清孝「原担山と「印度哲学」の誕生―近代日本仏教史の一断面」『印度学仏教学研究』49-2,平成13年、p.534)
担山はしかし、「ささいなミスを根拠にまもなく曹洞宗当局の申請で罷免され、僧籍も奪われて一介の易者となった」(木村清孝「原担山と「印度哲学」の誕生―近代日本仏教史の一断面」『印度学仏教学研究』49-2,平成13年、p.535)のである。
どうやら、『大乗起信論』を講じたのは、この易者時代であったようだ。担山は、八八(明治二一)年、70歳まで、東大講師を続けたらしい。そして、九一年に没した。


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