仏教余話

その213
内容はかなり難しいので、理解困難な箇所も多いと思うが、要するに、前に述べたように、「法(ダルマ)とは、何か?」という仏教の根本問題に関する意見を開陳しているのである。引用文中で、和辻は、「ローゼンベルグはかかる発展の唯一つの段階に立って凡てを理解しようとしたがために」とか「この歴史的発展の段階を顧みずして法の概念を全仏教哲学に規定しようとするのは、畢竟徒労に終わらざるを得ぬ。」と述べて、ローゼンベルグの視野の狭さを指摘する。またローゼンベルグを評して「この年少にして気を負える著者」という。一言でいえば、「仏教全般の知識もないのに、強引な理解を示した青二才」ということであろう。確かに、ローゼンベルグには若書き、未成熟な面はある。全体を俯瞰してもいないだろう。事実、彼の著書の基となった博士論文に対しては、かなり批判的な意見もあったようである。ローゼンベルグの師、シチェルバツキーの伝えるところを、以下に聞こう。 
〔博士論文の〕仕事は、特に、アレクセーヴ教授によって、強く批判された。その意見では、成果はそれ自身としてはよいが、よい博士論文ではない。なぜなら、博士論文においては、まず、テキストの基本的かつ適切な考察があるべきである。しかるに、ローゼンベルグの博士論文には、興味深い普遍的な俯瞰や仏教解釈はあるのだが、文献学的手段に沿った原典の準備的取り扱いが不明瞭であるからである。ローゼンベルグは、この反論に抗するのに成功した。成果は他の側から大変讃えられ、学部は彼にマスターとドクターの2つの称号を授与した。」(K.Kollmar-Paulenz & J.S.Barlow ed.Otto Ottonovich Rosenberg and his Cotribution to Buddhology in Russia,Wien,1998,p.52)
とにかく基本的に和辻はローゼンベルグの仏教理解を評価していない。近年の佐々木博士や立川博士との評価とは、大違いである。しかし、ローゼンベルグの功績をまるで無視してはいない。和辻は、「説一切有部を単なる素朴実在論とするのは、日本の古き倶舎学であり、その伝統的理解を否定した功績はローゼンベルグにある」とする。ローゼンベルグは、伝統的『倶舎論』解釈に引かれ、日本に留学したのであるが、彼の功績が、その伝統を否定するものであった、というのは、何とも皮肉な結果である。

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