「倶舎論」をめぐって

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ともあれ、『成業論』をベースとして、特に、刹那滅に関心を抱く研究は、今も、当然ながら盛んである。日比佑香氏は、こう論を締めくくる。
 「滅」には二種類の解釈があった。滅因を立てる部派と立てない部派の解釈である。一つ目は、何らかの内外因によって滅するプロセスである。このうち、外因が優性になる滅と、内因が優性となる滅が挙げられるが、正量部は後者であった。すなわち「自身の無常性(相)」という因を必要不可欠な条件として掲げたものと捉えられる。四相がまた別の有為法であり、四相が働きかけることによって本法の壊滅が誘引されるとすれば、四相を実有とした有部は前者である。ただし、四相を相状として内因であると見る初期の有部や阿含に基づけば、正量部とおなじく内因優性となる。「滅」の二つ目の解釈として、壊滅を防ぐことのできない、内外のいずれの因にも関わらない、厳密な刹那滅というプログラムされた滅があった。すなわち生じたものは外因条件に一切関わらずに一定の法則により滅し、例外を伴わないものである。世親の解釈がこれに類似していた。すなわち、内外の因を容認せず、生じたものが滅するのは一環したサイクルである。このことによって淡々と流れる相続をあらわしたのである。(日比佑香「『成業論』における滅因論について」『印度学仏教学研究』62-1,平成25年、p.386)
「なぜ、内外の因を必要としないのか」が、世親流刹那滅論の最大のミステリーなのだが、それに答えているとは思われない。これでは、「相続」を保証するために、編み出されたような結論に見える。だだ、日比氏の論文は、テキストの所在確認をするには便利である。1つ付言しておく。犢子部と正量部という部派名が、並んで登場するような記述があった。部派には謎が多く、明確なことはいえないが、それでも、この2部派は、同じように見られることも多い。現に、ヤショーミトラは、「犢子部とは、聖正量部のことである」(vatsiputriya aryasammatiyah)と述べている。(並川孝儀『インド仏教教団 正量部の研究』2011,p.37)更に、刹那滅論の古典的名論文は、ウイーンのシュタインケルナー博士のDie Entwicklung des Ksanikatvanumana bai Dharmakirti,WZKSXII-XIII,1968-69であるが、幸いなことに、乗山悟「Dharmakirtiにおける刹那滅論証の発展」『龍谷大学仏教学研究室年報』7,1994,pp.1-17に和訳されているので、興味のある方はご覧頂きたい(ネットでも披見可能)。以上で、「刹那滅論」に関する研究動向を瞥見した。これは、文字通り、簡単に目を通しただけである。この分野の先行業績は膨大ではあるが、無視は許されない。

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