仏教余話

その34
事情は一変した。ウイーン大学のフラウワルナーは、戦前すでにチベット語訳によってすぐれた法称研究を発表していたが、一九六○年代になると、彼の門下生たちが新出資料を用いて次々と本格的なダルマキールティ研究を発表していった。シュタインケルナーによる法称の『ヘートゥ・ビンドゥ』の校訂・翻訳研究(一九六八)がその好例である。フラウワルナー自身は、チベット語訳でのみ残されている陳那の主著『プラマーナ・サムッチャヤ(集量論)自注』とジネーンドラブッディの『複注』によって五世紀当時のインド論理学の状況を再構築しようとした。その最大の成果はDignaga,sein Werk und seine Entwicklung(1959)である。我が国では、若くしてムカジーの下で学んだ梶山雄一が、ラトナキールティの「刹那滅論」や「アポーハ論」など先鋭的な研究を発表するが、その成果はモークシャカラグプタの『タルカ・バーシャー』の英訳研究(一九六六)として結実する。戸崎宏正は『量評釈』第三章の翻訳研究を『仏教認識論の研究』(一九七九、一九八五)として公刊する。一方、北川秀則と服部正明は陳那の主著『集量論自注』の文献学的研究を遂行し、北川は論理学・討論述を扱う第二~四章と第六章にもとづく『インド古典論理学の研究』(一九六五)、服部は認識論を扱う第一章の研究Dignaga on Perception(1968)を公刊した。一九八○年代になって、パーソナル・コンピューターが学問のあらゆる分野に浸透すると、インド学仏教学の分野ではテキスト電子化の試みが世界各地で始まった。斯学においては、まず小野基が梵語原典の存在する法称の全著作を独力で入力し、インターネット上(http://www.logos.tsukuba.ac.jp/~nagasaki/
darmakirti/e-text/html)で公開したさらにそのKWIC(Key Words in Context)インデックスを出版した(一九九六)。小野の試みは、世界各地の研究者によって引き継がれ、今ではほとんどすべての仏教論理学のテキストが電子化されていると言っても過言ではない。一九九○年代になって、仏教論理学研究は再び新しい転機を迎える。トゥッチやサーンクリティヤーヤナによって撮影されなかった大量の梵語仏典写本がチベットの僧院に存在することが知られるようになったからである。これらの写本がチベットや中国以外の学者の研究対象となるために、重要な役割を果たしたのはシュタインケルナーである。彼は幾度となくラサや北京へ出かけて行き、粘り強く現地の学者や関係役人を説得し、ついに北京の蔵学研究中心と公式の学術協定を締結するに至った。その間の事情は、彼のA Tale of Leabes:On Sanskrit Manuscripts in Tibet,their Past and their Future(2004)に詳しい。その結果、これまでチベット語訳しかなかったジネーンドラブッディの『集量論複注』第一章の梵文校訂本が出版された(ニ○○五)。同時に彼は『集量論自注』第一章の還元梵語テキストをインターネット上に公開した。同書の残りの章についても同様の作業が進行中である。かくして、われわれは陳那の認識論と論理学をより正確に再構成できるようになった。引き続き、法称の『プラマーナ・ヴィニスチャヤ(量決着)』第一・二章の梵文校訂本も出版され(二○○七)今後も重要な仏教論理学書が出版されていくであろう。なお、シュタインケルナーは、仏教論理学の歴史を俯瞰できるSystematischer Uberblick uber die Literatur der erken tnistheoretisch-logiscen Schule des Buddismus(SUEBS)(1995)を刊行したが、最新情報を含む改訂版がインターネット上で公開されている。かくして、仏教論理学研究者の直面する第一の課題は、これら新出写本の批判的校訂と翻訳研究の完成である。次に、陳那や法称など主要な論理学者ん存在論・認識論・論理学・言語哲学が体系的に再構築され、インド仏教史上に位置づけられなければならない。その際、彼らの存在論や認識論がアビダルマや唯識派の教理を前提としていることを忘れてはならない。一方、近年ドレフェスやティルマンズが明らかにしたように、仏教論理学がチベットでどのようにさらなる発展を見せたかも究明する必要がある。さらに、中村元が先鞭をつけた西洋論理学との比較研究、シャイエルやマティラルが試みた現代論理学の記法の適用、そして、分析哲学や認知科学とのコラボレーションもまた、今後の重要な課題であるだろう。最後に、過去三十余年間、常に世界の仏教論理学研究の中心にいて、斯学の発展をリードしてきたのはシュタインケルナーである。一九八二年に彼を京都大学の客員教授として迎えた梶山雄一は、彼と戸崎宏正を中心に数人の若手研究者を招いて「国際法称学会」を開催した。それを受けて彼は、一九八九年に「第二回国際法称学会」をウイーンで開催し、報告書を公刊する。その後一九九七年に広島で、二○○五年には再びウイーンで第三・第四回学会が開催された。今後もこの伝統は引き継がれていくことであろう。一九八二年、初めて広島を訪れたシュタインケルナーは、広島大学のインド哲学専攻の学生たちを集めて一人一人何を勉強しているかを聞いていった。その中の一人が『量決着』第二章を読んで卒論を準備していると言うと、おもむろに手帳を取り出して、彼の名前を記録した。件の学生は後に法称研究者として大成するが、その背後にはあの日の出来事があったのではないかと思う。仏教論理学研究が今後も健やかに発展していくためには、このような人と人との繋がりが何よりも大切なのである。(桂紹隆「コラム④ 仏教論理学研究の未来」『新アジア仏教史03インドIII 仏典からみた仏教世界』所収,pp.212-214)


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