新インド仏教史ー自己流ー

その2
富永(とみなが)仲基(なかもと)(1715-1746)という人物が大乗仏教の由来を疑っていたのです。その有様を、水野(みずの)弘元(こうげん)氏の解説から見て見ましょう。
 中国仏教の影響のもとに発達した日本の仏教では、初めから大乗経典を仏の真説として認め、大乗が仏説ではないと見るものはなかったのであります。ところが徳川時代の中期以後になりますと、仏教者以外の方面から、大乗は仏説ではないという議論が起こるようになりました。その最初の主張者は富永仲基(1715-1746)という人であります。どうしてこの人が大乗非仏説を唱えるようになったかということから見ていきたいと思います。・・・仲基は幼い頃から「四書(ししょ)」「五経(ごきょう)」などの書を読み、十歳の時には、父が創設した懐(かい)徳堂(とくどう)という塾に入って、三宅(みやけ)石(せつ)庵(あん)という儒者(じゅしゃ)に陽明学(ようめいがく)を学びました。生まれつき博覧強記(はくらんきょうき)の俊(しゅん)童(どう)でありましたから、十五歳の頃には、儒教や諸子(しょし)百家(ひゃっか)に関する古来の学説はすべて誤っていることを指摘した『説蔽(せつぺい)』という書を著したといわれています。・・・二十歳のころには結婚したが家からの仕送りもなく、生活のために京都に出て、宇治(うじ)の万福寺(まんぷくじ)の「黄檗版(おうばくばん)大蔵(だいぞう)経(きょう)」の版木(はんぎ)刷(ず)りの仕事をして妻子を養ったようです。この黄檗版というのは、有名な鉄眼(てつげん)禅師(ぜんじ)が五十余年前に、中国の「万暦版(まんれきばん)大蔵(だいぞう)経(きょう)」によって苦心して作られたものであって、六万枚に及ぶ版木(はんぎ)から成る千六百余巻の木版の一切(いっさい)経(きょう)であります。これを一枚一枚墨を塗って紙に写すのが版木刷りであります。この仕事をやっているうちに、漢学の素養の豊かな仲基は一切の経典を読むことができました。それは単に読むだけでなく、そこに書かれている内容を理解し、またその中に出てくる一々の語句や事物などを丹念にメモにでも取っていたのではないかと思われます。そしてそれらの思想や語句や事物などを比較することによって、仏教の経典には前後発達の層があり、単純なものから次第に複雑なものへと発展して行ったという、いわゆる加上説(かじょうせつ)を発見し、これをまとめて『出(で)定後語(じょうごご)』(」)という本を著したのです。ここに『出定後語』とは、仲基自らが禅定に入って経典成立に関する実情を知り、禅定から出て後にこれを語るという意味だと受け取られます。本書は彼が三十二歳で世を去るその前年に出版されました。…それは今日の学問的立場から見ても、驚くべき精密さと正確さをもって論ぜられています。この大乗非仏説の論が出ても、当時の仏教者からは反対論も出なかったようです。…仏教側から反駁書(はんばくしょ)が現れるようになったのは、本書が出てかなり久しい後のことでありますが、それらも対等の反駁とはなり得なかったのであります。むしろ本書は仏教外の人に大きな衝撃を与え、服部天遊(はっとりてんゆう)という学者は『出定後語』を読んで感心し、自分でもさらに経典を研究したらしく、『赤裸々(せきらら)』という本を著して、『出定後語』の趣旨(しゅし)を簡潔に、しかも和文で分かりやすくしたのであります。…国文学者の本居宣(もとおりのり)長(なが)は『玉(たま)勝間(かつま)』の中に、仲基の『出定後語』のことを紹介していますが、平田(ひらた)篤(あつ)胤(たね)はこれを読んで、苦心の末、ようやく『出定後語』を手に入れ、これを見て大いに感激し、『出定笑(しゅつじょうしょう)語(ご)』という七巻から成る本を書きました。国学者であり神道家でもある平田篤胤は大の仏教嫌いでありましたから、『出定後語』は仏教を攻撃し、仏教の悪口を書くには、もっともよい参考書となったのであります。彼の『出定笑語』という題名自体が仏教を馬鹿にして罵倒(ばとう)したものであり、その内容も嘲笑(ちょうしょう)と憎悪に充ちたものであって、『出定後語』のように学問的なものではありません。明治維新後の日本各地における廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)(仏教排斥)の運動は、平田篤胤の門人たちによって起されたものであって、仏教嫌いの影響によるものであります。(水野弘元『経典はいかに伝わったか 成立と流伝の歴史』平成16年、pp.35-40、ルビ私)
明治以前の大乗非仏説とその後世への影響を垣間(かいま)見ました。こうして、富永仲基が大乗非仏説を打ち立て、やがて明治の廃仏毀釈を生み、その中で、村上専精が大乗非仏説を唱えた経緯がわかりました。村上も富永仲基の名は知っていたでしょうが、彼の説に全面的に依存したわけではないでしょう。村上は西洋流のパーリ語等を使った訓練を受けています。
しかし、歴史的観点から見ると、大乗非仏説であると主張している点は、同じように思えます。富永と村上が決定的に違うのは、前者が仏教徒ではないのに対し、後者は仏教徒であることです。村上は、自身の信仰を捨てませんでした。彼にとって信仰の面からは、大乗は仏説なのです。明治以降の仏教者達は、この難問に向き合っていきます。宇井(うい)伯(はく)寿(じゅ)(1882-1963)という有名な学者の批判を引用しておきましょう。
 明治時代に於(お)ては大乗非仏論すらも仏教専門家によって昌道(しょうどう)されたものであり、而(しか)も其(そ)の精神は一種護教的な精神を脱したものではなかった。つまりは、大乗を以て所謂(いわゆる)発展仏教とし、小乗即(すなわ)ち原始仏教と相対せしめて、両者を時間的順序に配列せんことを主眼なものとなして居(い)たらしく、それの最後はかくして全仏教を一貫する一大精神又(また)は原理を求め、之(これ)によって仏教全体を組織統一した一種の組織仏教学を構成するためであった。・・・依然(いぜん)として護教的精神に基づく組織仏教学構成の希望又は努力が、仏教専門学者の間にも継承され、現今(げんこん)に至っても増しこそすれ、決して減じてはいない。然(しか)し、組織仏教学なるのものは結局は仏教神学又は仏教弁護学になるべき運命のものであろうと考えられるし、自ら学とは称するもののそれは真の学的意味に於ける学とは認められず(渡辺章悟「大乗教団の謎」『新アジア仏教史02インドII 仏教の形成と展開』平成22年、p.181から孫引き、ルビ私)

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