「倶舎論」をめぐって

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このうちの毘婆沙師の章で、アビダルマが論じられる。そこでも、中心になるのは『倶舎論』であるが、それを批判的に扱う場合には、中観等の論書を使用しているようである。(池田錬太郎「チベットにおけるアビダルマ仏教の特質」『東洋学術研究』21-2、特集・チベット仏教、1982、p.141の注(20)参照)。私の個人的経験をいえば、毘婆沙師章は、経量部それもダルマキールティ論理学との関わりを理解しなければ、十分な解明は出来ないと実感している。その例としてジャムヤンシェーパ(’Jams dbyangs bzhad pa,1647-1722)の学説綱要書の記述を挙げておこう。二諦に関する箇所である。まず、ジャムヤンシェーパは、「毘婆沙師」章では、次のように述べている。
  翻訳官シェルリン(sher rin)は、「〔毘婆沙師と経量部の〕2部による勝義の主張の仕方は全く同じである」というし、 ある者は「〔毘婆沙師と経量部の〕2部によって、二諦の主張の仕方は全く矛盾している」ということも、不適当である。なぜなら、ケードゥプ一切智者の『7部難所解』の如く、聖典〔に準じる〕経量部(lung gimdo sde pa)と毘婆沙師の2つは『倶舎論』のように主張するが、論理に準じる経量部(rigs pa’i rjes ‘brang gi mdo sde pa)のそのようではない〔主張の〕仕方を後に説明するからである。
  lo tsa ba sher rin gyis sde gnyis kyis don dam ‘dod tshul gcig kho na zer/la las sde gnyis gyis bden gnyis ‘dod tshul ‘gal ba kho na zer yang/mi ‘thad de mkhasgrub thams cad mkhyen pa’i sde bdun gyi dka’ ‘grel ltar/lung gi mdo sde pa dangbye smra gnyis mdzod ltar ‘dod la/rigs pa’i rjes ‘brang gi mdo sde pa de ltar min tshul ‘og tu ‘chad pas so//(f.317/3-5、チベット原典原文ローマ字転写)
この章では、二諦の設定に関して「説一切有部と経量部に違いがある」という者と「違いがない」という者がいたことを示し、その矛盾を経量部に2流派があるとして解消しようとしている。1つは「聖典追従経量部」もう1つは「論理追従経量部」と命名されている。前者は世親の『倶舎論』に追随する。そして、後者こそが経量部の正統派であると語られているように見える。

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