「倶舎論」をめぐって

第6回 ローゼンベルクの周辺
 前に、ローゼンベルグの自筆文を紹介したことがあります。その中に、当時の『倶舎論』学者を非難する冊子(さっし)を作ったという内容が書いてありました。ここで、ローゼンベルグのいう冊子と思われるものを引用してみましょう。りっぱな論文で、題名を「倶舎論研究に附して日本学界に望む」といいます。また、現代文に直します。
 私〔ローゼンベルグ〕の知人の仏教家にして、私が倶舎論研究に来たと聞き、不思議に思う人も少なくない。私の見るところでは日本は大乗仏教国なので、小乗仏教の著作物に対し幾分(いくぶん)軽視(けいし)しがちである。もちろん、小乗仏教は宗教としては、あるいは価値を認められないかもしれないが、その豊かな著作物は、相応(そうおう)に価値を認められて至極(しごく)当然だと思われる。すでに、玄奘(げんじょう)が、これの翻訳(ほんやく)に励(はげ)んだ事実も小乗仏教としての価値を認めた証拠でなかろうか。しかしながら、日本では小乗を見る時、観察点を異にするかもしれない。昨年村上博士は仏教講演の席にて(仏教史学第三巻十号)「倶舎論は、今日にいたっても盛んである。妙なことであります。維新(いしん)の時代、私共青年の時代は、クシャ、クシャで倶舎という、もうこんなものは廃(すた)ってしまうだろうと思っていたが、最近ロシア人で、日本に来て、盛んに倶舎を研究しているものがある。廃ったと見られた倶舎をロシアから留学生を日本に送って倶舎倶舎やっている」といわれる。これは、私のことである。けれども、事実は村上博士を少なからず驚かすに十分だろう。すなわち目下欧州(おうしゅう)ではロシアでもまた他の国でも、梵語(ぼんご)学者〔サンスクリット語学者〕であって、倶舎の研究に従事するものは、決して少なくない。…欧州の研究家は、多くチベット訳文によっているが、私は漢訳に頼ろうと思った。それ故私は欧州で、漢文の原作や注釈書を読んだのち日本に来た。現代の日本人の手になる倶舎研究の著作は、一通り通読した。けれども遺憾(いかん)ながらその結果は私の期待とは、一致しない。はなはだ残念であると感じている。(ローゼンベルグ「倶舎論研究に附して日本学界に望む」渡辺楳雄訳『宗教研究』第三年 第十二号、1920(大正9年)、pp.83-85、ルビ・〔 〕内私の補足)
ここで、槍玉(やりだま)に挙(あ)げられている「村上」という人物は、フルネーム村上専(むらかみせん)精(しょう)(1851-1929)
で、長く東大で仏教を教えていました。ローゼンベルグ来日当時は、日本仏教界のお偉方(えらがた)だった人です。ローゼンベルグは、村上の「大乗優越論」を非難しています。ところが面白いことに、この村上は、「大乗非仏説論」つまり「大乗仏教は釈迦の教えではない」という意見を吐いて、自らの宗派から破門(はもん)された過去を持っています。その人が、年を
重ねて、「大乗優越論」に立つというのも皮肉(ひにく)です。ここで、村上自身の言い分も聞いみましょう。明治時代の読みにくい文章なので、また現代文に直してみます。
 全く世の中には、愚かな僧が多い。明かに〔私の主張を〕区別しない者が少なくない。そのせいで、私がかって『仏教統一論第一編大綱論』において、歴史的方面から大乗は仏説ではない理由を説いているのに、その詳しい論を見ないで、無暗(むやみ)に知識のない純真な人にこれを吹聴(ふいちょう)し、あたかも私を指して排(はい)仏教(ぶっきょう)論者(ろんしゃ)のように指摘する者がいる。だが、いまだ正々堂々の論陣を張り、大乗が真に仏説である理由を考察し、それによって私を論駁(ろんばく)する人士(じんし)がいないのは、私が、若干(じゃっかん)、残念に思うところである。私はどこまでも、大乗仏説論は歴史的問題であって、教理問題ではない、学術問題であって信仰問題ではないと確信する。(村上専精『大乗仏説論批判』、明治36年、pp.4-5)
村上によれば、「大乗非仏説論」は、歴史的問題であって、教理・信仰問題でないのです。村上のこの立場は、彼のオリジナルではありません。実は、江戸時代に、すでに同じようなことを言っている人物がいました。名を富永(とみなが)仲基(なかもと)(1715-1747)と言います。
彼が、どういう成り行きで、そんな説を唱えるようになったのか。それについては、機会があれば、触れましょう。実は、最近の概説書、渡辺章吾「大乗教団の謎」『新アジア仏教史02インドII仏教の形成と展開』所収、平成22年、pp.178-181では、もっと色々な情報が、まとまって解説されています。ご覧になると、江戸・明治に渡る状況が俯瞰(ふかん)出来ます。私としては、その書物にも、出ていないネタを紹介することにしましょう。前に、ローゼンベルグ来日の時、案内役として近(ちか)角(ずみ)常(じょう)観(かん)という僧に簡単に触れました。彼主催の「政教新聞」には、村上破門の顛末(てんまつ)記事が転載されています。短縮(たんしゅく)した形で、もちろん現代語訳で引用してみます。
 村上博士僧籍(そうせき)返還(へんかん)の顛末(てんまつ)
 村上博士僧籍返還の顛末と題し「日本」新聞記する所如左〔さのごとし〕
 大谷派(おおたには)本願寺(ほんがんじ)末寺(まつじ)たる、村上専精が、仏教統一論を公けにしたので、議論沸騰(ふっとう)し本山では一派に対して、宗義に異論を立て異議を説くものは一歩をも許さず、…いわゆる極刑(きょっけい)にしょせられた先例がある。村上の処置(しょち)速決(そっけつ)を本山に迫り、各地方の師より続々その処置を本山に迫るに至って、各宗派でも大谷派の処置に関して注目している。…首を切るも切らぬも、本山の自由なのだが、なにぶん村上氏は文学博士の称号を有し、学界の大団体に属ししているので、本山もし、…処分をするとたちまち学界より非難の声ごうごうとして抑えるのに力が足りない。村上氏一人のために本山は学界を合手(あいて)の戦いを開かざるを得ない。ここに至って、…秘かに議した結果、村上に自分から僧籍を返還させるならば、一挙(いっきょ)両得(りょうとく)であると、教学(きょうがく)録(ろく)事(じ)大田(おおた)祐慶(ゆうけい)を派遣して相談の幕を開き、新法(ほっ)主(す)の説諭(せつゆ)もあり無事にその運びとなって、本山は…指令して一段落を告げた。
  三河国宝飯郡御馬村
 入覚寺前住職 村上専精
 願いにより僧籍を除く
 明治三十四年十月二五日
 執綱權大僧正 大谷 勝 縁印
 (『政敎時報』67、明治34年、11月15日発行,pp.10-11,ルビ・〔 〕は私の補足)
破門というと仰々(ぎょうぎょう)しいですが、今でいう自主規制で、丸く収まったということのよう
です。

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