Tips of Buddhism

No.4
The question of the dates of the Buddha and his contemporaries is no less important for historians.It remains a matter of crucial importance for Indian and indeed world historiography.Therefore various attempts have been made to reach a workable consensus,but the majority of South Asian and Western scholars on the one hand and that of Japanese scholars on the other remain divided over the issue.
( H.Bechert;The Dating of the Historical Buddha,pt.1,1991,p.1)

(訳)
ブッダやその同時代人の年代論は、歴史家にとって、大事でないわけはない。インドの、そしてはっきり言えば、世界の歴史図には、相変わらず、必須の重要課題なのである。それ故、有効な意見の一致に辿りつかんとして、様々な試みがなされてきた。しかし、片や、東南アジアと西欧の学者の大部分、片や、日本人学者の大部分は、この問題で分かれたままなのである。
(解説)
著名な学者、ベッヒェルトの著書から、引用した。梶山雄一博士によれば、仏滅年代論は、以下のようなものである。
一般にインド史における諸年代はきわめて不正確なものであるが、例外的に、マウリア王朝のアショーカ王の在位年代は、世紀前二六八―二三二と、ほぼ異論なく認められている。幸いに、王は多くの碑文(ひぶん)を残し、その中には年代の明らかなものも少なくない。またアレクサンドロス大王の東征(とうせい)、セレウコス朝シリア王国、バクトリア王国などのギリシャ人とインド人との交渉(こうしょう)の結果として、ギリシャ史における諸年代がインド史の諸年代の決定に寄与(きよ)することが多いからである。このアショーカ王の年代を基準として、ゴータマ・ブッダ(釈迦牟(しゃかむ)尼(に))の年代をはじめ、古代仏教史の年代が定められるが、こちらの方は残念ながら、一つの定説は得られていない。ブッダの逝去(せいきょ)の年代は日本において有力な意見に従えば、世紀前三八三年であり、欧米・インド・スリランカなどの学者の計算によれば、前四八六年である。ブッダの生涯は八十年であったと一般に認められているから、その生年は前四六三年、あるいは、前五六六年ということになる。このようにブッダの年代に相違があり、しかも、きわだった考古学的発見でもないかぎり、将来においてもその相違が調整されそうもない。ということは、日本の学者と外国の学者とが年代計算に用いる基本資料が異なっているからである。北インドから中央アジアを経て中国に伝わった伝承(北伝(ほくでん))によれば、アショーカ王の即位(そくい)はブッダの滅(めつ)後(ご)一一六年と考えることができる。北伝の諸書には多くの異なった年代が見られるが、いずれも、一〇〇年ないし一六〇年の間に収まり、そのうち最も信頼しうるものが、『部執(べしゅう)異論(いろん)』『十八部論』などのいう一一六年説である。かくて、アショーカ王の即位年代二六八年に一一五年を加えたもの、前三八三年がブッダの没年として計算される。他方、スリランカの史書の伝承(南伝(なんでん))によれば、アショーカ王の出現はブッダの滅後二一八年と記されている。したがってブッダの没年は、単純に加算すれば、前四八六年となる。(梶山雄一『仏教における存在と知識』1983,pp.i-ii、ルビ私)
このように、仏教の開祖たる釈迦の生没年さえ定かではない。様々な部派が現われたが、その様子も杳(よう)として知られない。その多様性と統一性について、律を通じて解釈した意見がある。「破僧定義の変更によって「異なる意見を持つ者であっても、集団行事を一緒に行う限り、全員を仏教出家者として認定する」という新たな見解が生まれたことが判明したのである」(佐々木閑『インド仏教変移論 なぜ仏教は多様化したのか』2000,p.25)


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