仏教論理学序説

その17
そんな疑念が広がった。そこで、svabhavaのチベット語訳を試してみたくなったのである。ご存じない方に内容を紹介してみよう。
svabhavaは、『倶舎論』や『量評釈』において、1.rang bzhin ,2.ngo bo nyid,3.rang gi ngo boの3種に訳し分けられている。『倶舎論』での用例調査は、ほぼ終了した。その結果、1のrang bzhinは「素材」、2のngo bo nyidは「複数のものの共通な性質」、3のrang gi ngo boは「独自性」「単独性」という明確な使い分けがあることが推測された。これを『量評釈』にも適用してみようと思い立った。チベット人の智慧を借りて、ダルマキールティを解釈してみよう、というわけである。余計なことかもしれないが、主な唯識文献の状況も調べてみた。その結果、正当な唯識文献では一定の訳し方をするのに、唯一『唯識三十じゅ』が特殊な訳語を用いていた。一説にはこの作品は世親ではなく龍樹作とされ、意味不明な語が挿入されている。(3種の訳語については、拙稿「倶舎論におけるsvabhavaについて」『駒沢短期大学仏教論集』8,2002,pp.1-18,「中論におけるsvabhavaについて」『同』9,2003.pp.39-75,「ツォンカパの自相説について」『同』10,2004,pp.1-14,「唯識文献における三性と三相について」『同』11,2005,pp.1-126,「ツォンカパと祈り」日本仏教学会編『仏教における祈りの問題』2005,pp169-189参照。)さて、その試みの1つが、先ほどの拙訳である。少なくとも、現段階では、筆者は、先の訳に基ずく解釈が腑に落ちる。つまり、svabhava(rang bzhin)を「素材」と理解して、第40偈には、素材形成論とでも呼ぶべき内容が説かれている、と考えている。素材は、究極的には原子に至るのであろうが、それは「可視的」ではない。可視的つまりgsal ba(vyakti)になった状態を「集合体」(bhava,dngos bo)と筆者は考えたい。その「集合体」は、知覚の対象だが、概念化すれば、普遍(spyi,samanya)と称してもかまわない。素材に形成された「集合体」は、素材に比べれば、2次的存在にすぎない。しかし、素材に基ずくという点で全く架空のものではなくなったのである。「集合体」は、概念化する人間がいれば、普遍となるし、いなければ、ただの「集合体」のままである。先のシャンカラナンダナの注釈も、そう考えれば、納得出来る。そして、ここに「素材」という部分と「集合体」という全体の問題が絡んでいると思われる。筆者には、部分と全体は、個物と普遍のアナロジーのように見える。

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