仏教論理学序説

その7
大事な点なので、少し、インドの様子を見、そして仏教論理学の立場を確認しておこう。
 管見の範囲では、ディグナーガ(Dignaga)は、自相・共相を峻別したとされる。例えば、ディグナーガ研究の第1人者服部正明氏は、こう述べている。
 それ〔独自相=自相〕が一般相(samanyalaksana)と根本的に区別されるべきであること、この区別に対応して直接知覚と概念・推理とが区別され、其の他の知識根拠は無いということ、更に一般相はただ主観的に構想されたものに過ぎないということは、正しくディグナーガが創設した見解であって、ダルマキールティはそれを継承したのである。(服部正明「ディグナーガの知識論」『哲学研究』462,pp.55-56)
また、仏教論理学に精通する梶山雄一氏は、以下のように言う。
 有部やニヤーヤ学派の体系では、知覚と思惟(判断および推理)との間の本質的区別が無視されやすいことになる。感覚と思惟、したがって感覚の内容と観念とが全く異質的なものであるとして、その二つの載然たる区別の上に認識論を展開するのは経量部、特にディグナーガやダルマキールティのいわゆる仏教知識論学派の系統である。(梶山雄一『仏教における存在と知識』1983,p.9)
さらに、長くディグナーガを研究している桂紹隆氏は、概説書において「知覚は個別相〔=自相〕のみを、推理〔=概念〕は一般相〔=共相〕のみを対象とすると、両者を峻別した点に、ディグナーガの独自性がある。」(桂紹隆「ディグナーガの認識論と論理学」『講座・大乗仏教9認識論と論理学』昭和59年、p.106、〔 〕内私の補足)と言う。続けて、桂氏は、アビダルマとディグナーガの差異を考察して、こう述べている。
 ディグナーガの理解する個別相と一般相が、アビダルマの見解と必ずしも一致しないことは注意されねばならない。ディグナーガは、個別相について、「そのものとして認識されるべきであり、言語表現されえぬもの」と述べるにすぎない。…アビダルマの個別相は、それが「堅さ」等と同定される以上、ディグナーガにとって一般相に他ならない。ディグナーガの個別相は、あくまで概念化・言語化を拒絶する存在である。(桂紹隆「ディグナーガの認識論と論理学」『講座・大乗仏教9認識論と論理学』昭和59年、p.107、アビダルマに関する桂氏の発言の出典については、拙稿「svalaksanaとsamanyalaksanaについて(1)」『駒沢短期大学仏教論集』5,1999,pp.314-313参照)
本当に「ディグナーガの個別相は、概念化・言語化を拒絶する存在」なのだ
ろうか?私は、非常に疑問に思っている。「言語化」は拒絶するけれど、「概念化」は拒絶しないのではないか。
 桂氏は、ここでは、概念化と言語化を同列に扱っている。しかし、何かが、概念化されることと、それを言語化することは別の作業であろう。面白いことに、桂氏自身、概念化と言語化の相違は認めていて、次のように言う。
  概念作用を単に言葉の結合と考えれば、言語機能をもたぬ唖者や言語をまだ習得していない嬰児には、概念作用、したがって、概念知がありえないことになる。この点を考慮して、ダルマキールティは、「概念作用は、言葉と結合可能な表象をもつ知である」
〔abhilapasamsargayogyapratibhasa pratitih kalpana『正理一滴』Nyayabindu I.5〕とディグナーガの定義を修正するのである。(桂紹隆「ディグナーガの認識論と論理学」『講座・大乗仏教9認識論と論理学』昭和59年、p.113、〔 〕内私の補足)
どうやら、ディグナーガは、概念化と言語化を同じとし、ダルマキールティはそれを区別した、というのが桂氏の主張らしい。これに対し、戸崎氏はこう述べている。
 〔ディグナーガやダルマキールティ等の〕仏教論理学派にとっては、名言分別(sabdakalpana,namakalpana)のみが分別〔=概念〕として認められる
のである。したがって「現量除分別」〔知覚とは、分別を除去したものである〕を論証するにあたっては、現量に名言分別がないことを論証すればよいのであって、現量に種分別等や関係分別がないことを論じる必要はないはずである。(戸崎宏正『仏教認識論の研究』上巻、昭和54年、p.234、〔 〕内私の補足)
名言分別が言語化に相当する。もう1度整理してみよう。桂氏によれば、概念化と言語化はディグナーガによっては区別されず、ダルマキールティによってはされていた、ことになる。一方、戸崎氏は一貫して、区別していない、と判断しているようである。私は、ディグナーガの段階で、区別されていた、と考えている。
簡単にいうと、ディグナーガも、言語を習得していない幼児等は概念化だけ、言語を習得した大人は、それにプラスして言語化を行う、と考えていたはずなのである。その時、幼児は、svalaksana(自相)を把握し、大人はsvalaksanaプラスsamanyalaksana(共相)を把握する、と看做すことは可能ではないだろうか?
これは、あらゆる意味で、従来の解釈とは異なる。一体、そのように理解することは出来るのか?それを探るために、ディグナーガの『集量論』Pramanasamuccayaと自注を見てみよう。
服部正明氏の『ディグナーガの知覚論』Dignaga,On Perception cambridge,1968(この時代には、梵文原典は発見されていなかった。しかし、E.Steinkellner,H.Krasser,H.Lasic,『ジーネンドラブッディの「集量論注 無垢広大」』Jinendrabuddhi’s Visalamaravati Pramanasamuccayatika,Chapter 1,Part I:Critical Edition,Beijing-Vienna,2005によって、その欠は1部埋められた。)
さて、ディグナーガは、分別=概念について、次のような示唆をした。
 「概念が言語表現と切り離せない」という主張に関して、ディグナーガは、文法学派に近い。「概念と言語は不離である」という文法学の理論は、『ヴァークヤパディーヤ』I,124に〔以下のように〕明確に示されている。
  世間では、言語が伴うことのない観念は、存在しない。
  まさしく、すべての認識は、言語を介して理解されるのである。(服部本、p.84の注27)
この文法学派の見解は、ディグナーガ以前のニヤーヤ学派の重要人物 ヴァーツヤーヤナ(Vatsyayana)の『ニヤーヤバーシュヤ』Nyayabhasyaでは、以下のように、批判される。
 〔対象が〕名前を付する言語によって、表現される限り、〔文法学派の言うように、対象はすべて〕言語認識(sabda)となってしまう。だから、〔我々ニヤーヤ学派は、知覚を定義して〕「表現されない」と述べたのである。
  namadheyasabsena vyapadisyamanam sat sabdam prasajyate,ata aha-avyapadesyam iti/( Nyayadarsanam with Vatsuyayana’s Bhasya
Uddyotakara’s Varttika,Vacaspati Misra’s Tatpryatika & Visvanatha’s Vrtti,1985 rep.of 1936-44,New Delhi,p.109,ll.5、長尾雅人『バラモン経典 原始仏典 世界の名著I』昭和54年、p.348の和訳を参照した。)
これらを勘案すれば、ヴァーツヤーヤナが、知覚から言語を排除し、ディグ
ナーガはその観点を継承したと、見ることも可能であろう。そして、その言語を概念(=分別)と看做すのも不自然ではない。一見、2人共、言語化以前の概念を知覚としているように思えるのだ。これでは、両者には差異はない。ディグナーガ自身は、こう述べている。
知覚は、分別を離れている。(現量除分別)…
 この分別〔=概念〕とは、どのようなものなのか?
 〔人名等の固有な〕名前や種類等〔の言語)と結びつくものである。
mngon sum rtog dang bral ba’o(pratyaksam kalpapodham)
rtog pa zhes bya ba’di ji lta bu zhig yin zhe na,
ming dang rigs sogs su sbyor ba’o(p.176のテキストから引用)
このように、理解すれば、ヴァーツヤーヤナと違いがあるようには見えない。しかし、ディグナーガは、ヴァーツヤーヤナとの差異をはっきり意識していた。彼は、恐らく、概念化と言語化を区別した上で、言語化のみを知覚から排除したのである。そうすると、svalaksanaは、やはり、非概念的対象なのか。そう考えられれば、事は単純である。繰り返すが、私は、svalaksanaを「言語化以前のそれ自身の概念」と解釈した。ディグナーガの思惑は、svalaksanaを非概念的なものとすることでは見えてこない、と思うからである。しかし、服部氏は、厳として、これを否定する。氏はこう述べる。
 2つの認識対象の根本的な区別に応じて、2つの認識手段の峻別
(pramanavyavastha)がある。…この理論は、明らかに、異なった認識手段の
混合(pramanasamplava),つまり、同じものが、4種のどの認識手段によっ
ても、認識され得るという見解に反対して立てられた。…ウッディヨータカ
ラやヴァーチャスパティミシュラが為した詳しい議論はシチェルバツキーに
より、精密にトレースされたので、ここに、さらなる言明は不要である。(服部本、p.80の注16)
確かに、シチェルバツキーのBuddhist Logicには、
 仏教徒の見解は、我々の認識手段の峻別(pramanavyastha)と呼ばれた。〔ニヤーヤ学派等の〕実在論者は、それら〔認識手段〕の混合(pramanasamplava)と呼ばれる見解を主張した。(Th.Scherbatsky,Buddhist logic,vol.2,p.302)
とある。紹介されているウッディヨータカラの陳述は、以下のようなものである。
 〔ディグナーガが、認識手段の〕混合(samplava)は不合理である。別のもの(visista)を対象とするから。というなら、そうではない。受け入れがたいからである。「これらの認識手段は、〔それぞれ〕別のものを対象とする」という意見なのだろう。知覚は、特殊者(visesa)を対象とし、概念(分別、推理)は、一般者(samanya)を対象とする、と考えているのである。一般者と特殊者なるものが、認識されるべきものであり、知覚は一般者を対象としない、概念は、全く、特殊者を対象としない、という。これはない。〔我々ニヤーヤ学派には〕受け入れがたいからである。まず、認識手段が2つであると、我々は説いていない。そして、対象も2つではない。混合(samkara)しないのでもない。
samplavanuupapattir visistavisayatvad iti cen na anabhyupagamat/syan
matir esa visistavisayani pramanani/visesavisayam pratyaksam,samanya
-visayam anumanam iti/etac cadhigantavyam yat samanyam visesas ca na
ca samanyavisayam pratyaksam na jatv anumanam visesavisayam iti etac
ca na,anabhyupagamat/na tavat pramanadvayam pratidadyamahe,na
visayadvayam,napy asankaram/Nyayadarsanam with Vatsuyayana’s Bhasya
Uddyotakara’s Varttika,Vacaspati Misra’s Tatpryatika & Visvanatha’s Vrtti,
1985 rep.of 1936-44,New Delhi,p.13,ll.2-5,シチェルバツキー使用のテキストと
は相違する)
   これを見ると、「自相と共相の峻別」「それに基づく知覚と概念の区別」というのも頷ける。しかし、そう納得してしまってよいのだろうか?今、ヴァーチャスパティミシュラまでは、とても扱えないが、ヴァーツヤーヤナ→ディグナーガのラインにおいて、概念(=分別)を言語とし、知覚は言語という概念を排除したもので、知覚の対象たる自相は、言語化以前の概念である、と看做して悪い要素はなかったのではないか。自相を非概念的対象としなくても、ディグナーガの意図した差異化は、それで果たせたのではないだろうか?そこに「峻別」はない。「峻別」を意識させるウッディヨータカラのディグナーガ批判は、その差異化を無視したか、誤解しているのかもしれない。恐らく、「自相・共相の峻別」説は、彼の批判が始まりであろうが、それが怪しいとしたら、当然、現在の定説にも見直しが迫られる。まず、svalaksanaをvisesa、samanyalaksanaをsamanayaに置き換えて批判している点が、私には気になる。それらは、簡単にイコールで結べるのだろうか?確かに、認識手段の数は、両学派で、異なる。だが、ディグナーガが、対象を2分した意図は認識手段の峻別や数を云々することよりも、言語習得者と未修得者の認識の違いを言うためではないのだろうか?ある物の名前を知っている者同士が認識しているものと、名前を知らない者の認識の区別、これだけが区別したかったことなのではないだろうか?後者は前者の前提となるものであり、その意味でより根源的であろう。しかし、実用的見地からすれば、前者が有効な場合も多々ある。つまり、ディグナーガは文法学派の言語認識一辺倒を批判したウッディヨータカラに、再度、言語認識の有効性を示したかったのではなかろうか?さらに、想像を逞しくすれば、学説に通じた学者と、通じない一般人の認識を区別したかったのではなかろうか?自相と共相の相違も、そこにあるのであって、程度の差こそあれ、両者とも概念の世界にある対象ではないのか?一般的に言われている「峻別」とは違うはずである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?