仏教豆知識

その2
小説家の司馬遼太郎に景教にまつわる作品があります。適宜、抜粋してみましょう。
まず秦という異民族がはるばる日本に来た遠い経緯から手をつけねばならぬ。知らねばならぬのは、景教という、すでに地上から亡びた古代キリスト教一派の東遷(とうせん)についてであった。とくに、その始祖コンスタンチノーブルの悲劇の教父(エピスコホ)ネストリウスについてであった。(司馬遼太郎『兜率天の巡礼』文春文庫、p.121、ルビほぼ私)
さらにネストリウスが異端視され、迫害される場面を、司馬はこう描いています。
 四三一年の八月四日、太陽はシリアの砂を熔(と)かしている。「悪魔。新しきユダ。われらに天国の門を閉ざした男!」悪罵(あくば)がやむと、また一しきり石が飛んできた。忽(たちま)ち瞼(まぶた)をはれあがらせ、唇を切り、肩の肉を破って、流れた血はすぐ黒く干上がり、また新しい血がその上を濡らした。この男、史上の名はネストリウス。つい先刻まで首都の教父(エピスコホ)として、すべてのキリスト教寺院を総覧(そうらん)した男である。キリスト教史上最初の神学論争といわれた八月四日の大宗教会議において彼の追放が議決された。彼の意見に関するすべての文書は焼却され、その後ローマ帝国の続くかぎり、彼の思想に加担(かたん)する者は死罪をもって報いられ、カトリック教会の続くかぎり今日に至るまで、彼の思想は教会史上最兇(さいきょう)の邪説の一つに数えられるに至る。…彼の邪説というのは、ただひとことで説明できる。マリアを認めなかったのである。…マリアは何者であろう。ただイエスを生んだ子宮にすぎないではないか、と説いたのが、ネストリウスの属した、五世紀のアンテオケ教会閥(ばつ)であった。
…かくして、ネストリウスは追放後その生まれ故郷に監禁され、その徒はローマの支配権をのがれて、東方に逃亡した。東洋史上、景教徒とよばれるその遍歴(へんれき)はこのときから始まる。…この流(る)亡(ぼう)の景教徒が、地球を半周して古代中国に現れたのは、七世紀の中頃であった。大唐の隆盛期、太宗(たいそう)の貞(じょう)観(がん)九年五月のことである。(司馬遼太郎『兜率天の巡礼』文春文庫pp.123-129、ルビほぼ私)
幾分、学術的論文からも抜粋しておきましょう。まず、その歴史をこう綴っています。
 第五世紀の初葉、ネストリとシリルとがマリアは「神母」であるという説について激しい論争があった。が、ネ氏は敗北して教会から追放されてしまった。その後、彼は弟子らを率(ひき)いて小亜細亜(あじあ)に遁入(とんにゅう)し、四五〇年頃、エジプトで客死(かくし)したが、弟子らは更にイラクに進入し、再び波斯(ぺるしゃ)国に入って、独立の教会を組織するようになった。この教会は六三五年に景教として唐朝に入ったわけである。その後、高宗(こうそう)玄宗(げんそう)、・・・徳宗(とくそう)らの諸帝の保護と賛助を得て、西北や華北一帯に数多くの大泰(だいたい)寺を建て、教勢が拡張していった。しかし、八四五年の武宗(ぶしゅう)廃仏(はいぶつ)に際して、景教も相当な損害を受け、教徒らが中央亜細亜の東方と蒙(もう)古(こ)と中国の交界処(こうかいしょ)に逃入(とうにゅう)し、続いて活動した。その後、十三世の蒙古王朝、元が興起と共に景教が再び中国本土に戻り、江南(こうなん)まで教会の再建に成功した。が、漢人も明太祖(みんたいそ)が即位した後、景教がついに中国本土から絶跡(ぜつせき)するようになった。(コン天民「中国景教に於ける仏教的影響について」『印度学仏教学研究』6-1,1958,p.138,標記変更、ルビ私)
日本伝来の経緯にも諸説あるようですが、確たる裏付けのない話は止めておきましょう。

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