新チベット仏教史―自己流ー

その4
『プトゥン仏教史』とは、チベットの仏教史書の中でも1番有名なもので、オーバーミラーによる英訳を通じて、広く知られる文献です。悟りは、一瞬して得られるのでしょうか。それとも段階的に到達するものでしょうか。一瞬で得るためには、一切の思考を止める必要があると、摩訶衍は説きます。仏教用語で言う「分別」です。分別さえ除けば、悟りは目の前にあると人々に伝えました。他に特別な修行は無用であると言ったのです。これは人気を集めました。苦しい修行を行わなくともよいからです。カマラシーラは、真っ向からこれを否定します。段階的に修行してこそ悟りは得られると繰り返し、述べました。再び、『学者の宴』を見みましょう。
 ハシャン〔摩訶衍〕いわく「すべては心の分別により生じたのである故、善悪業によって、天上・悪(あく)趣(しゅ)の果を享受(きょうじゅ)し彷徨(さまよ)う時、輪廻するのである」「何人も、何をも思念せず、何をもなさないものその人(de)は、輪廻から解脱することになるのである」「従って、何も思念するな」
摩訶衍はこう言ったと伝えています。これに対し、カマシーラは、こう述べたと『学者の宴』は伝えます。
 師カマラシーラのお言葉は「そのように何も思念しなというそのことは、個別(こべつ)観察(かんさつ)の智慧を捨てることなのである。・・・法界は無分別である。それは個別観察の智慧によって理解されなければならない。正しい智慧の源は、個別観察の智慧であるとするなら、それを捨てることで、出(しゅっ)世間(せけん)の智慧または智を捨てることになる。個別観察の智慧なくして、瑜伽(ゆぎゃ)行者(ぎょうしゃ)は、どんな方法で無分別に住するのだろう。
個別観察というのは、分析的・科学的思考のようなものです。つまり始めから悟りを得るのは困難なので、分析的・科学的思考を利用しなければならないと説いているわけです。チベット王は、その場に集まっていた臣下にも、どちらが正しいのか聞いています。
 王のご発声は「頓門派・漸門派の論点は何か?王の側近すべてにも、ご議論の論点を得させよ」と仰せで、〔臣下の1人〕ペルヤンはこう述べた。「汝、中国の御主張の如くならば、瞬時に〔悟りに〕入ります。順次に、学びに向かわないのならば、六波羅蜜(ろくはらみつ)にそぐわない立場に結びつきます」とおっしゃって、・・・〔別の臣下〕ジュニャーネンドラは述べました。「頓悟と漸悟両者は、検討しなければならない。漸悟ならば、論争の火種はございません。我らと同じです。頓悟ならば、汝はこれ以上何をなすのでしょうか?初めから仏なら、何に煩うのでしょうか?つまり、登山も1つ1つの歩から登らねばなりません。1歩で進むことは出来ないように、初地を得ることさえ非常に困難なのに、一切智を得ることは何をかいわんやです。何もなさずに成仏することとは、汝等において、教えの根拠が必要です。
ここに登場する臣下は、カマラシーラに見方しています。恐らく、チベット王の代弁者なのです。摩訶衍側の反応はこうです。
 頓門派は、論点への応答はあえてせず、花を撒き散らして負けを認めた。その時、不寝番ツォママは自身の性器を打ち付け、自殺した。
このように、論議を避けて、肉体的に抗議の意思を示したのです。他にも、記述があります。

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