「倶舎論」をめぐって

LXXXXVI
さて、勿論、ロスパット氏は、『倶舎論』を無視することもない。イントロから、氏の扱い方を紹介しよう。以下のようにいう。
 刹那性論証研究を全うするために、続いて、「滅による刹那性論証」の証明に向かう(第2章D)。先ず、『倶舎論』までの論証の発展を素描する。この論証の古い型は、『大乗荘厳経論釈』に伝えられた如く、「諸物は、誕生しても、存続し得る」と述べる。反対に、発展型では(『阿毘達磨集論』『倶舎論』-玄奘と「摂決択分」は、直後の状態を示す)「自己存在の故に、つまり誕生するや否や、消滅する」とされる。「外的行為者によって破壊は起こされないという」背景・前提は、「火が木を燃やす」等という観察とどのように調和するのかを探る。それから、世親の言う議論を提示する。私には不服なものだが、それは、以下のようなものである。「破壊は起こされない。何故なら、単に存在しないものとしての破壊は、効果をもたらす資格がないからである」。この章の第2部では、ここで述べられるタイプの論証は、刹那性教理形式化に潜む教理的思索を、ある程度、反映しているとする。〔世親が〕「誕生を超えて存続することの論理的不可能性を、考慮する」のは、刹那性教理の形式化に貢献するものだろう。それは認めるとしても、主として、この議論は、a)「諸物は、常に、変転、変化している」b)「この変化の分析は、〔論理の〕すり替えの観点からのものである」という立場から、結論を得ているという不服感は捨てきれない。(The Buddhist Doctrine of Momentariness、p.11、〔 〕内私の補足)
ここからも伺えるように、ロスパット氏は、世親の理論展開に疑義を投げかけている。それは、テキストを読めば、誰しもが感じる違和感であろう。桂紹隆「ヴァスバンドゥの刹那滅論証」『櫻部建博士喜寿記念論集 初期仏教からアビダルマへ』2002は、世親の議論に龍樹の影響を指摘する。世親の唱える「滅無因説」の背景や論理展開は、未だ、未解明ということであろう。他に、Sako Toshiho;Karman in Indian Philosophy and Vasubandhu’s Exposition,1996というコロンビア大学提出の長大な研究もある。佐古氏は、長くアビダルマ研究に携わった人物である。この博士論文の目玉は、当時、チベット語訳しか使用出来なかった、安慧注を1部付したことであろう。
 

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