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【考察】シェイクスピア『リア王』の謎


 シェイクスピアの4大悲劇の中でも、最も壮大なスケールで描かれた『リア王』は、やはり彼の代表作である『ハムレット』程ではないにしても、やはり様々な謎を孕んでいる。もちろん、己の価値観を押し付けずに、読者による多様な解釈が成り立つところが、シェイクスピアの魅力といえるが、私としては『リア王』に孕んでいる幾つかの謎に迫っていきたいと思う。

第1 悲劇の原点:「リアの数量的価値観」
 『リア王』に内在する悲劇の要因は多層的なものと思われるが、私はまず冒頭第1幕第1場の「娘たちに領土を割譲する」場面から考えていきたい。
 リア王は、心にもない追従をならべたて、上辺だけの父への愛情を語る長女や次女に己の領土を割譲してしまう。そこではリアは(『ハムレット』のクローディアス同様)、娘の本心すら見えていないのである。ここでのゴネリルの言葉は過剰なまでに装飾されている。例えば、
「お父様、わたくしはもう言葉では表しきれぬほどにお父様をお慕いもうしあげております。・・・」(野島秀勝訳 以下の引用も同様。)
授業で習った通り、この過度な表現はシェイクスピア作品において“嘘”を意味する。
一方、コーディーリアの答えは「何も(原文は“Nothing”)」である。リアはこの三女の「若さゆえの真」に激怒し、「未来永劫、お前はわしの心にも身にもかかわりのない赤の他人と思うぞ」とまで言う。実際は後に、彼はこの言葉とは真逆の態度をとる。このようなエピソードから、リアは大した深い考えもなく、その場での言葉とそれに対する刹那的な感情で行動している事がわかるが、それにしてもなぜリアは、この三女の真っ当とも思える意見に納得せず、激怒したのだろうか。(現にここでは、リア及びバーガンディ公とは対照的に、フランス王はコーディーリアに対して肯定的に評価している。)そこにはリアの“愛情を数量的に、またはわかりやすいものに変換してはかる”という価値観(岩波文庫の注によると、“交換価値という経済原理“)が明確にみられる。
若干考察していこう。そもそも領土を分割する際、“自分への愛の大きさによって決める”、ということは、一国を統治する王としておかしい判断である。さらにその判断方法として、娘たち一人ひとりにわざわざ自分への愛の文句を述べさせることもおかしい。なぜそうしたのか。リアはわからないからである。リアは娘の本心どころか、自分自身でさえ見えていないからである。ゆえに彼は愛情を、その場での上辺の言葉というものから受け取り、領土という目に見える形として返すのである。上記の場面からこの事が明確に示されているが、ほかの箇所でも推定できる所がある。二人の姉に従者を取られるシーン(第2幕第4場)である。
「(ゴネリルに)お前の五十は二十五の倍だ、お前の愛情はこいつの倍だ。」
ここからはっきりわかるように、リアは本来見えない愛というものを数値や物(ここでは従者)で図ろうとしている。だからリーガンに「一人だって(従者は)、必要あるかしら?」と言われたら、長い台詞を駆使して怒りの感情を露わにする。二人を「鬼婆」といい、「必ず復讐する」ともいう。遂には「ああ、道化、わしは気が狂いそうだ」と漏らす。恐らくリアの狂気が始まったのはこのシーンであろう。また、先に述べたコーディーリアに「何も」と言われた際、彼は「何もないところからは何も生まれない」と答えている。ここからも、彼は愛情を数値に置き換え、“比”で計算できるものだと考えていることがわかる。彼の中では、物質化・情報化したものがゼロであれば愛情もゼロなのである。ご存じのとおりゼロは比(割り算)では扱えない。彼の中では“Nothing”という概念が存在しないのである。
 しかし皮肉なことに、この“ゼロ(=Nothing)”の状態にならなければ本物の愛、コーディーリアの愛に気づくことはできなかった。

第2 繰り返され、受け継がれる“Nothing”
 この“nothing”は劇中のあらゆる場面で繰り返されている。順に見てみる。
 第1幕第2場では、「何を読んでいたのだ?」と言うグロスターにエドマンドは「何も」と答えている。リア王ではリア一家のみならず、グロスター親子もまた悲劇を生んでしまうこととなるが、この悲劇もこの一語から始まっている。しかしここでの“nothing”は、先の例とは違った、むしろ正反対ともいえる意味を帯びている。なぜならエドマンドは兄エドガーの本来{無い}罪を、手紙により{ある}状態に工作しているからである。またこのエドマンドの発言の後に、グロスターは「何でもないのなら、隠す必要などあるまいが。」と言っている。ここでグロスターの、エドマンドに対する邪悪な考えが垣間見える。そもそもエドマンドはグロスターの庶子である。しかしグロスターは冒頭第1幕第1場で何の躊躇いもなく、しかもエドマンドのいる前でケントにいう。
「これ(エドマンドのこと)を作るに当っては、随分と楽しい思いをさせてもらったものだ。」
息子の目の前ではなかなか言いづらい台詞である。岩波の注によれば、ワーズワースの理解者・ロマン派最高の批評家コールリッジはこの点に関して、「なんとも侮辱的な、淫らな軽率さだ」と言っている。『ハムレット』同様、親の性に首を突っ込むことはシェイクスピア作品では珍しくない。エドマンドは本来生まれるはずのない存在であった(グロスター曰く「呼びもしないのに図々しく世の中に出てきた」)し、あらゆる権力も嫡子である兄のエドガーに譲られるはずであった。彼はそれをコンプレックスとし、姑息な手を使ってでも本来{無い}はずの権力を{ある}状態にさせようとしたのである。しかしここで注目すべきは、グロスターの父親らしかぬエドマンドへの邪悪な考え・態度である。このようにケントにエドマンドの出生を躊躇なく言うということは、グロスターはエドマンドのことを「何でもない」存在ととらえているからである。 この一家の悲劇も、息子であるエドマンドだけが招いたものではなく、根本には親であるグロスターの、普通では考えられないような子に対する意識が関与している。後に詳しく述べるが、やはりここでも母親不在が関与している事を指摘しておく。
 グロスター一家の悲劇は、先にふれた、本来{ある}愛情をありのままに表現することで{何も無い}と発言したコーディーリアとは対照的である。更に結末では、エドマンドはコーディーリアを殺害するよう隊長に命令する。愛あるものを{無い}状態にしてしまうのである。
 次に第1幕第4場を見る。ここで初めて道化が登場するのだが、彼はリアに(リア曰く)「辛辣な言葉」を並べる。それに対し
ケント「何でもない(nothing)、つまらんことを言うな、道化」
道化「 (略) 何でもないものを何とか使う算段、知っているかい?」
リア「知るものか、小僧、何でもないものからは何も出て気はいない」
(ここでも前述したリアの数量的価値観は健在である。)
道化「ひとつ、あんた(ケントのこと)からいってやってくれ。おっさんの土地の地代が今じゃ何でもないものになっちゃったことを。 (以下略)」
道化については後述するが、彼はこの物語全体を俯瞰して発言していることは言うまでもない。「土地」は先の「従者」と同じく、リアの権力の一つのメタファーである。まさに、道化の言うとおりに、「ほかの肩書はみんな人にくれちまったんだから、もって生まれたものしか残っちゃいない」  のである。
 次に第2幕第3場のエドガーがトムになりすますシーンである。
ここでもエドガー「おれ、エドガーはもういない」と、原語では“nothing”が使われている。但しこのエドガーの発言の真意について率直に申し上げれば、私の現段階の解釈力では正確に説明しえない部分がある。それでも一つだけ言えることは、リアは(先述したように)自分の言葉に責任というものは伴っていない。その場その場で刹那的に発言している。それ故狂気に陥ってしまう。対してエドガーは、父の哀れな姿を見ても自分の理性を奮い立たせてトムを演じる。これらの点において、一部では『リア王』を演じるにあたり、グロスター一家のことをまるまる削除・改変する場合が見られるが、それは全くもってナンセンスといえよう。
このように、物語の転換点において、“Nothing”は様々な使われ方をしている。まるでバッハのフーガのよう美しく、シェイクスピアの言葉の選び方の秀逸さを読み取り得る。
 最後に、クライマックスでの死んだコーディーリアを抱くリアの発言を見てみる。
リア「犬が、馬が、鼠が生きているというのに、なぜ、お前には息がないのだ?お前はもう戻ってこない、絶対に、絶対に、絶対に、もう絶対に!」
原語は“Never,never,never,never,never!”である。つまりこの物語は、愛ある者の“Nothing”から始まり、様々な使われ方をしながら、最後には“Never”の言葉で、本物の愛に気づくと同時にそれを失うのである。

第3 母親不在の意味
ここまで考究してきて、この悲劇の悲劇たる由縁が、単にリアの長女・次女、若しくは庶子の弟のせいばかりだとは言えないことは指摘しえる。
しかしここにきて疑問は残る。“どこかで悲劇は食い止められたのではないか”、と。例えば前述したように、フランス王は、リア及びバーガンディ公とは対照的な人格として設定されている、またオルバニーのように、リアやゴネリルに反対意見を述べる人物も設定されている。ならば、彼らを積極的に介在させ、この悲劇を食い止める方向性も模索しえたはずだ。しかし悲劇はより深化してゆき、破滅へと向かっていく。
ここにおいてカギを握るのは、「リア一家もグロスター一家も母親(妻)がいない」、ということである。(リアの妻は、リアの発言からすでに死亡していることが分かっている。グロスターについては私の力ではわからない。)どういうことか。父であり王であるリアは、政治的判断力はおろか、娘のことさえわかっていない。だから私は想像する、もしリアに妻がいたら、もしリアの隣に娘を真実の目で見て、かつ愛を数などに変換せずとも無償に、正しい方法で与えられる存在がいたなら、と。グロスターについても同様である。エドマンドのことを何でもない存在と思わない人物がいたなら、と。勝手な想像ではあるが、このような悲劇をつくるにおいて母親という存在を登場させると、悲劇は悲劇足りえなかったのだと思う。シェイクスピアは、この作品ではわざと母親という存在を死亡=排除させたのかもしれない。そしてこのような「偉大なる母」の役割は、リアの腹心ケント・ゴネリルの夫オルバニー・グロスター家の権力を担う存在であったエドガーなどには、彼らの立場上当然成りえないのである。故にこれらの良心的とも思える人物が劇中にいようとも、「母性を喪失した」中において、悲劇は最悪の形で現れる。

第4 内的カオス・道化の正体
『ハムレット』との比較
 授業でも触れたことではあるが、ハムレットは父の復讐を遅延させる。是ゆえ、心理学での「ハムレット症候群」の言葉の由来となり、優柔不断の典型・象徴と扱われることも多い。この理由を小田島雄志氏は「シェイクスピアの人間学」の中で、“価値判断のない内的カオス”によるものだとしている。彼は同書の中で、シェイクスピアの四大悲劇はこの“内的カオス”を扱ったものだとしているが、リア王に関して言えば、私はそうとは言い切れないと思う。このレポートでも論及したように、リアは、価値判断が「ない」のではなく、「あるけれどまちがっている」と捉えるのが正しいように思う。それは前述したリアの数量的価値観からもわかるだろう。またリアは後半、あらゆる苦しみによって狂気に陥り、ここが“内的カオス”と言えるという人もいるだろう。しかしそれは、狂気によって価値判断以前の理性も崩れてしまっている、とも考えられる。この根拠・関連を二つの側面から論じてみる。
道化の正体
 この作品中、最も異彩を放っている存在であり、私も一番好きな存在である道化であるが、さらっと一回読んだだけでは、そのキャラクターはわかりにくいし、煮え切らないという人が多いだろう。道化は前述したが、一番この物語において展開される世界全体を俯瞰している存在と言って良い。そしてそれを言葉(台詞)として表現できる存在でもある。岩波の注の言葉を借りれば、何を言っても許される「天下御免」の職業なのである。登場してからすぐリアに、コーディーリア追放の件を絶妙な言葉選びで皮肉っている。しかしリアが転落し、狂気へ陥る過程の中、突如姿を消す。第3幕第6場である。最後の台詞は
「じゃあ、おいらはお昼時に寝るとしよう。」
である。これは勿論、表向きは直前のリアの「夕食は朝になったら食べるとしよう。」の言葉遊びによる返しである。リアの言葉は疲労から出た言葉なのか、狂気に侵されつつあるのか判然としない。おそらく流れからして両方であろう。そこで今一度道化の言葉に戻ると、「寝る」という語にひっかかる。オースティンの授業で習ったように、「寝る」は「死」を連想・間接的に表現しているからである。つまりこの台詞により、道化はこの劇で「死んだ」のである。ではなぜ突如死ななくてはならなかったのか。それはリアが、一度理性を失い、しかし最後には本物の愛に気づくことに由来する。どういうことか、第1幕第4場に戻って考える。ここでリアは自問自答する。
リア「誰か、このわしが分かる者はいるか?これはリアではない。 …略 …誰かいないか、教えられる者が、わしが誰であるかを?」
道化「リアの影法師さ。」
これは一見して、何を言いたいかわかる人は少ないだろう。おそらくこの段階では大方、知力・政治力などを失ったリアに対する言葉であろうと思える。あるいはその後失う権力・娘・命を示唆する言葉とも捉えることができる。しかしもう一つ、この言葉には意味が含まれている。今の間違った価値観に支配されているリアは「影」であり、本物の愛に気づいた存在が「道化」である、ということだ。現にリア自身も
第4幕第6場において(この時点で既に道化は存在しない)、
「わしは運命の女神に可愛がられてきた生まれついての自然の阿呆道化だ。」
と言っている。故に,狂気になりながら本物のも愛に気づいていく後半部分では、道化は存在しなくなるのである。つまり道化はリアの精神状態と呼応した存在である。このことは、度々リアに的確かつ大胆に苦言していることからもわかる。
また、上の台詞を言われた後もリアは
「わしが誰であるか、それが知りたいのだ。国王の身分、知識、そんな見せかけの印にたぶらかされて、わしには娘があると思い込んでいただけかも知れぬ。」
という。この時点ではまだ、道化の表現(と苦言)はリアには伝わっていないのである。まだ自分の力などをわかっていない。娘に対する自分の愛がおかしいことに気づかず、現実逃避しているのである。だからこそこの時点では、道化は劇に欠かせないのだ。
 また、道化自身に名前がつけられていない、ということも、道化は「リアと呼応した、本物の愛を知る象徴(存在)」と捉えることで説明は着くと考えられる。
 他に道化喪失の意味を、「道化の物語上の役割」としてではなく、「シェイクスピア劇の背景」の観点からみる意見もある。当時劇団員は十名ほどしかなく、コーディーリア役が道化役を兼任していた、とする説である。このような背景は確かに存在したのかもしれない。しかし個人的な意見とし、それはあまりに浅はかに思える。なぜなら殆どの優れた作品は、その作品において一文・一文字も無駄なものはないからだ。むしろ私たちが読み取るべきは、書かれていない何か、あえて著者が余白を作った意味、なのである。
 また、「影法師」という語は第3幕第4場にも出てくる。そしてそれは意外なことに、エドガーの口から出てくるのだ。
「自分の影法師を裏切りと思い込ませて追っかけてさせたんだ。」と。
これはトムのふりをしているエドガーが、自分自身について「本来のエドガー=影法師」と言ったのだと考えられる。この点についてはまだ論考し得るものがあるであろうが、このレポートでは簡潔に述べるに止める。私の解釈としては、エドガーもリア同様に地位や権力を失ったが、そこに由来する原因は対照的であったに違いない。いずれも地位のある時期の人格を「影法師」と呼んだところは、この物語の悲劇性を強めていると考えられる。
 リア王は他の四大悲劇に比べて長く、トルストイなどはグロスター家のエピソード・道化との会話が無駄である、と批判している(1897年『芸術とは何か』)。しかしシェイクスピアの脚本でなければ、リア王はこれほどまで壮大にはならなかっただろう。

第5 言葉選びの天才・シェイクスピア
不自然な「自然」

 最後にシェイクスピアが行ったトリックを二つ見てみる。
アーノルド・ケトルの『「リア王」の人間性』によれば、この作品において“自然(nature)”という語が約100回使われているらしい。これを知って、私もこの語をチェックしながら再読したところ、面白いことが分かった。この語に関してはあらゆる学者が注目しており、この語の意味を幾つかにジャンル分けしている人も少なくない。例えばジョン・F・ダンビーは『シェイクスピアの自然の教義』の中で、この語を「恵み深い自然」と「邪悪な自然」に分類している。しかし、この分類は非常に大雑把なものと感じる。そこで私が考えた“Nature”の意味を紹介したい。
 まず第1幕第1場であるが、ここではリアは娘たちに対して、過剰に「自然」を繰り返す。「親の自然な愛情と子としての自然な孝心が合致したところに」というように。この1文からもわかることだが、明らかに「自然」の使い方が不自然である。この語がなくても、文は成立するのに、リアはあえて「自然」を繰り返している。また、フランス王に対して「自然の女神さえわが子と認めるのを恥じる不人情者(コーディーリアのこと)より、もっとましな女人をおさがしくだされい。」という。この点などからもわかるように、リアは主に(特に前半では)娘に対してや、娘に関する話題を述べるときに、この語を口にする傾向にある。ここからも、リア親子が「自然な」親子関係を結べていないこと、「自然な」愛情の受け渡しが出来ていないことが読み取れる。なぜなら、前述したような数量的価値などを排除した無償の愛が存在していれば、それが「自然」であるのだから、わざわざ「自然」と言う必要はないからである。またここで、リアはもう一つ間違った概念を抱いている。リアは、娘が自分を何よりも一番に愛することを「自然」と思っている。だからコーディーリアの言う「結婚による夫への愛」を認められないのである。対照的に、これらのことが理解できているフランス王は「(コーディーリアの罪は)不自然極まるものに相違なく」とリアに返しているのも面白い。
また第1幕第2場でエドマンドが登場した時の台詞は「自然よ、あんたこそ、俺の女神だ。あんたの掟にだけは従う。」である。ここで疑問に感じるのは、庶子として「不自然」に生まれたエドマンドは、本来「自然」を一番憎んでもおかしくない存在である、ということだ。しかし彼は、自分の不自然な生まれを受け入れたうえで「嫡子にとって代わって上になる」ことを切望する。 
 一方、彼の父グロスターは「自然の学問」、「人の世の自然」、「自然の正道」というような、「一般論としての自然」や「環境としての自然(現象)」としての意味で「自然」という語を使用している。また、エドマンドが父グロスターの人間性を批判している台詞の中で、以下のように述べている部分がある。
「(グロスターは)運が向かなくなると、いや、大抵は自業自得にすぎないのに、災いを太陽や月や星のせいにする。悪党になるのは大自然の必然・・・(略)、といった塩梅だ。」
この台詞はグロスターの欠点を端的に表している。つまり、悪党(もしくは悪党の思想)を生み出す必然性を、自然現象一般に還元してしまっているのだ。
エドマンドが庶子であるコンプレックスをもち、エドガーに罪をなすりつけてしまうのは、元はと言えばグロスターの子に対する無関心に起因するのだが、グロスターはその無関心自体自覚することなく、自然現象一般に解消してしまうのだ。彼はエドマンドを信用し、遂には両目をも失ってしまう。 
 リアは本物の愛を知ることと引き換えに理性を失い、狂気に陥った。一方、グロスターは盲目になることでエドガーに対する信頼を取り戻す。第4幕第1場でグロスターは「目が見えていた時には、つまずいたものだ。今はよくものが見える。(略)可愛い倅エドガー、おまえは欺かれた父の怒りの餌食だった。命ながらえおまえに触れてみる事さえできたなら、わしは両の眼を取り戻した、と言おう。」という。文字通り、リアとグロスターは「真実だけを持参金にする」(第1幕第1場のリアのコーディーリアに対する台詞)形となったのである。ここでも、この二人の劇的対位法は秀逸な形で表れている。

名無したち・コーディーリアの名前の意味
 名前に関して触れておく。道化に名前がない事は前述した。他にも侍医・隊長・紳士・伝令には名前がないが、彼らは誰かに与えられた仕事をこなしているにすぎない。つまり、その命令を下した人物の意思を反映させているから、わざわざ名前が付いていないのである。故に彼らの言動をみる際、彼ら個人の意見として捉えるのではなく、彼らの背後にある人物の思想だ、と捉えるのが妥当であろう。
 最後にコーディーリア(cordelia)の名前について、渋谷治美が『リア王と疎外』の中で示した考えを紹介したい。“Cor”はラテン語で「心、理解」、“de”は「~から」、“lia”は“Lear”に通ずるとしている。つまり彼女の名前の意味は「父王リアの心」である。

あとがき
 正直に申し上げれば、私はこの考察において心残りがいくつもある。例えば、グロスター家の考察・シェイクスピアが生きた時代背景・シェイクスピアの他の作品との関連・原文で読むことでの発見・文学者がどのようにシェイクスピアからインスパイアされたか・・・など、まだまだ考えてみたいことはたくさんある。しかし現時点でいえば、「これ」が私のベストである。
また前述したように、写実的描写の天才・トルストイは、度々シェイクスピアを批判している。確かに、現実世界では道化が突然消え、更にそれに気づかない、などということはありえない。しかしこの劇を、私たちが「一観客」として観たならば、それらの整合性は全く気にならないであろう。そして、ここでは説明しきれないほどある数々のトリックは、劇を「見せる(魅せる)」という点において比類ないほどの成功を収めている、といえよう。
「小説とは答えを提示するものではなく、問いを提示するものだ」
現代に生きる作家、村上春樹はこのような事を述べている。私はシェイクスピア(特に『ハムレット』)について考えるときに、いつもこの言葉が思い浮かぶ。私はこの一文こそが、シェイクスピアが我々の心をつかんで離さない由縁を端的に表している、と思うのだ。
私は英米文学に対して大した知識もなく(20世紀からの文学は少し読んだ事があるが)、まして詩や劇などはほとんど未知の領域であったため、多少の不安はあった。しかしこの4カ月必死に授業に食らいつき、「シェイクスピア」という「基盤」に触れることで、現在の英米文学・劇に対する見方もいささか変ったように感じる。
短い期間ではあったが、毎回何かしらの発見があった授業であった。私はこのような「楽しい」授業が受けられた事を感謝したい。
また、以下の著作、特に「野島秀勝訳の『リア王』」が無ければこのレポートは書けなかったと思うので、ここで感謝を示したい。

〈参考文献〉
野島秀勝訳 『リア王』  岩波文庫 2012年出版 
渋谷治美 『リア王と疎外』 花伝社 2009年出版
小田島雄志 『小田島雄志のシェイクスピア遊学』 白水社 1996年出版
小田島雄志『シェイクスピアの人間学』  朝日日本出版社 2007年出版

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