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曽祖父のハワイ時代(明治31年〜39年)

曽祖父の保次郎がハワイに渡ったのは、ハワイが米国に併合された1898年(明治31年)でした。このとき保次郎は16歳。次兄の寅次郎(仮名)も一緒でした。

日本からハワイへの移民は1885年(明治18年)から始まっていました。以前、日系アメリカ人史を調べたときに読んだ本によると、当時労働力不足だったハワイ王国からの依頼により、ハワイ政府と日本政府の間に条約が結ばれ、ハワイへ移民を送り出すことになったそうです。日本人移民たちはサトウキビ畑で働いたのですが、保次郎もまたその1人でした。

その後ハワイ王国の消滅により、移民事業は政府ではなく移民会社が行うようになりました。

政府間の条約でハワイに働きに行った日本人のことを「官約(契約)移民」といい、移民会社による移民は「私約(自由)移民」といいます。また、1885年〜1900年(明治33年)までを「官約移民時代」、1900年(明治33年)〜1907年(明治40年)までを「自由移民時代」といいます。

ハワイが米国に併合されたのは1898年ですが、米国領になったのは1900年で、この年に米国本土の契約移民禁止法がハワイにも適用されています。官約移民が私約移民と呼ばれるようになったのは、こういう背景があるようです。

保次郎兄弟がハワイへ行くことになったいきさつはよく分かりませんが、彼らは4人姉弟で、農家である実家は長兄が継いでいるので、働き口を求めての移住だったのではないかと思います。実家の父親に送金もしていたようで、「横濱正金銀行 布哇出張所」の領収証書が残っています。

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この写真は、保次郎19歳のときのものです。写真の裏に手書きで「㐧壱回 初メテ撮影セシモノニシテ齢捨九才 布哇ワヰアルア耕地二於テ」と書かれています。

この写真もハワイ時代に撮ったものらしいですが、一緒に写っている女性が誰だかは分かりません。親戚のおばさんによると、現地で良い仲になった人ではないかとのことでしたが、どこまで本当だか……。

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保次郎はハワイで何年か働いた後、1906年(明治39年)に船でサンフランシスコへ渡りました。特に記録はないのですが、米国本土で次兄と一緒に写っている写真があるため、この時も兄弟一緒に行動したのだと思います。

保次郎たちが実際にハワイでどんな暮らしをしていたかが分かるものはほぼありません。なので一般的なハワイの日系移民史から想像するしかありませんが、彼ら契約労働者の待遇はあまり良くなかったようです。契約期間は3年間、サトウキビ畑では1日10時間労働、賃金は男性12ドル50セント、女性10ドルだったそうです。と聞いても当時の貨幣価値はピンときませんが、日本人は低賃金労働者でした。また、白人の耕地主と労働者の間にポルトガル人などの現場監督がいて、彼らは馬に乗って畑を見回り、怠けていると怒鳴ったり鞭を振るってきたりする恐ろしい存在だったとか。

このあたりの様子は工藤夕貴主演の映画『Picture Bride』(1994年)に詳しく描かれているので、ご興味ある方は探してご覧ください。私もだいぶ前にレンタルビデオで見たことがあります。

で、賃金は安く待遇もあまり良くないとなれば、もっと稼げるところで働きたいと思うわけで、ハワイよりずっと賃金の高い米国本土へ渡る日本人が出てきます。保次郎たちもそういった事情から渡航したのではないかと想像しています。

なお、翌年の1907年(明治40年)には日本人がハワイから米国本土へ渡ることは禁止されたので、保次郎たちは運が良かったと思います。

以下は参考文献ですが、20年近く前に読んだっきりなので、どこにどの話が載っていたのか忘れています…。もう一度読んで確かめたいところです。(あと、noteにリスト書式があれば良いのに!)

『日系アメリカ人の日本観 多文化社会ハワイから』(高木真理子著、淡交社)

『一世としてアメリカに生きて』(北村崇朗著、草書房)

『アメリカの日系人』(黒川省三著、教育社)

『アメリカ西部開拓と日本人』(鶴谷寿著、NHKブックス)

『外国人をめぐる社会史 近代アメリカと日本人移民』(粂井輝子著、雄山閣)


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