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読めない日本語の話

初めてその言葉を目にしてからもう20年にもなるだろうか。特別難しい漢字が使われている訳ではないけれど読み方がわからない、その言葉。

今まで何度かその読み方を他人に訊ねたことはあるが明確な回答をしてくれる人はいなかった。
もちろん辞書にも載っていない。
ネットで調べてみたら同じ疑問を抱いている人はいたもののちゃんとした根拠のある回答は誰にも届けられていなかった。

その言葉が何かというと、

↑これ

これ?こんなの簡単でしょ。
もしかして引っ掛け問題?
…って、そうじゃない。本気で読めない。
正確には「正しい読み方が分からない」というべきか。
さてあなたは何と読んだだろうか。


この文字の詳しい話は後にするとして、ちょっと遠回りになるが一旦違う話をさせてほしい。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

いきなりだがこの人達を知っていますか?

http://www.alfee.com/

この方々は、そう、アルフィーですね。
正式にはTHE ALFEE(ジ・アルフィー)。
代表曲『星空のディスタンス』や『メリーアン』などで有名な昭和から平成そして現在も一線で活躍中のロックバンド。

このバンド名の「THE」は『ザ』ではなく『ジ』と読むのだが、なぜかは皆さんの想像通り。
英語の定冠詞の「the」は後ろに母音が来る時は『ザ』じゃなくて『ジ』と読むんだよ、と中学時代に習いましたよね。

ところがである。
とある本で読んで衝撃だった話なのだけれど、英語のネイティブスピーカーの方に
「theって後ろに母音が来る時はジって発音するんだよね?」と質問すると
「…? うーん、そうだっけ?」
となんとも頼りない答えなのだという。

なぜそんな返答になるかというと、英語がネイティブの方は英語の授業(日本でいう国語の授業)でこういう発音ルールですよと習っているわけではない、子供の頃からの会話で何となく自然と『ザ』と『ジ』を使い分けている、だから改めて文法的な説明を求められると戸惑ってしまうのだ、ということらしいです。

だから英語に不慣れな日本人が英語を話す時に「theの次が母音だからジと読むんだな…」と一旦頭で考えるのとは違って、ネイティブ話者は無意識の内に「ジ」と言い換えているみたいなんですね。(実際にはザとジの中間の音だとも)


実は日本語にも同じような現象がある。
むしろ日本語の方が複雑でもある。

次の3つの単語を読んでみてほしい。

①細い
②長細い
③長っ細い

どうだろうか。

①ほそい
②ながぼそい
③ながっぽそい

と読むのが一般的だと思う。

この「細い(ほそい)」が熟語になると
『ぼそい』と『ぽそい』になっている。

日本人は普段意識していないが、実は日本語にはこんな文法のルールがある。

・カ行サ行タ行ハ行で始まる単語の前に文字がつくと濁音に変化する(ことがある)。

さらに

・ハ行の前につく文字が「ン」と「ッ」の時限定で半濁音(パ行)に変化する(ことがある)。

専門的にはこのルールを「連濁」(れんだく)という。

この「連濁」という用語はこの後でまた出てくるので覚えておいてほしい。

どうだろう、今までこの文法のルールを意識して会話をしたことがあっただろうか。そんな日本人は多分いないんじゃないかな。
特に後者は複雑なルールではあるが具体例は意外と沢山ある。

 [ン]/[ッ]
ハ「卵白/空きっ腹」
ヒ「検品/だだっ広い」
フ「金粉/ひとっ風呂」
ヘ「紺碧/鉄壁」
ホ「進歩/立方体」などなど

すべて本来は「ハヒフヘホ」と読むべき言葉が「パピプペポ」に変化して発音されている。
国語の授業で習った訳じゃないけれど日本人なら意識せずとも自然にそう読んでしまう。

幼少期からテレビや会話などで聞き取った言葉の積み重ねによって、みんなが無意識に発音ルールを取り入れて実践してるんですね。改めて考えてみるとすごいですよね。


英語の「the」の読み方のルールがネイティブの方にはいまいちピンとこないのもこれと同じ現象なのでしょう。


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さて長い長ーい脱線でしたがここから再び本題。
20年間読めない日本語の話に戻る。
もちろん今までの話を踏まえてもう一度。
さて改めてこれはなんと読むのだろうか。

あなたはなんと読んだでしょうか?

─この文字との出会いは20年前に遡る。
当時電車に乗っていた私は車内の中吊り広告をぼんやりと見ていた。まだスマホの無い時代、中吊り広告は興味はなくとも見てしまう。

それは下世話な週刊誌の広告だったと思う。
週刊新潮だったか週刊文春だったか女性自身だったかは忘れたがそういう系の雑誌の広告。
(後に調べたら女性自身の可能性が高そうだ)

今週発売の雑誌に掲載されている記事の概要がズラズラと書き連ねている中にその言葉はあった。

子供に対して悪影響をもたらすような育児をしている残念な母親を取材した記事のキャッチコピー。そこにはこう書いてあった。

「我が子に〇〇する馬鹿ッ母!!」


その文章を正確に覚えている訳ではないがキーワードは文末の「馬鹿ッ母」である。
今で言うところの「毒親」みたいな意味だろうか。きっと編集者かライターが作った造語なのだと思う。

ともかく馬鹿ッ母。
素直に読むなら「バカッハハ」である。
ではあるがなぜかしっくりこない。読みにくい。

それは先に書いた通り、長い経験上「ハ」の前に「ッ」があると「パ」と読みたくなっちゃうからである。
2杯は「ニハイ」だが1杯は「イッパイ」だ。6杯も8杯も10杯も「杯」を「パイ」と読んできた。

では「バカッパハ」と読むのか。
これもやはりしっくりこない。耳馴染みがなさ過ぎる。母を「パハ」とは人生で一度も読んだことがない気がする。
そもそも同じ文字の半濁音+清音という組み合わせって日本語には無いのではないか?
パハ、ピヒ、プフ、ペへ、ポホ。
一文字でこれが含まれる日本語はきっと無いと思う。(損保ホールディングスはポホだな…)

ならば「バカッパパ」だろうか。
口にした音としては落ち着きがある気がするが前段同様に母を「パパ」とは読まないだろう。
連濁で2音目まで影響される例はあるだろうか?
もはや母からパパに性別まで替わってるし!

その他の読み方の可能性もあるかもしれない。
バカッバハ?
バカッババ?
バカッカア?
バカッボ?
バカッママ?
根拠はないがいずれも違う気がする。

やはり「馬鹿ッ母」は
①バカッハハ
②バカッパハ
③バカッパパ
のいずれかが正解になると思うのだ。

実は当時広告を見た私は特に疑問も持たずこれを③の「バカッパパ」と頭の中では読んでいた。
しかし母なのにパパって変なの、と思ってからそもそも「バカッパパ」とは読まないのではないのか?とようやくちゃんとした疑問として認識されたのでした。


ではもう少し深掘りして考えてみよう。
まずハ行で同じ文字の組み合わせは以下の5通り。

ハハ(母)
ヒヒ(狒々)
フフ(─)
ヘヘ(─)
ホホ(頬)

フフとヘヘは単語として無さそうだから実際には3種類しかない。
「母」以外の「狒々」と「頬」で同様の例があればいいのだが、私の知る限りでは「ッ」が前に来る言葉がなさそうだ。なんせ該当する単語が少なすぎる。

ではアプローチを変えてみよう。

飽くまでも参考程度だが、半濁音ではなく濁音の場合はどうか。
同じ文字の連続から始まる単語をカ行サ行タ行で挙げてみる。その場合の連濁のケースから推測してみようと思う。

カカ(係、価格、カカシ)
キキ(機器、危機)
クク(九九、括り)
ケケ
ココ(心、此処、孤高)

ササ(笹、些細、ササミ)
シシ(獅子、四肢)
スス(煤、ススキ、進み)
セセ
ソソ(粗相、注ぎ)

タタ(祟り、叩き、三和土)
チチ(父、乳)
ツツ(筒、包み、堤)
テテ
トト(徒党)

それぞれ数例を挙げたがこれは結構な数がある。
その中で前に言葉が付いて連濁する場合を見てみよう。

例えば
「係(かかり)」→出納係「すいとうがかり」。
「ががり」ではなく「がかり」だ。

「心(こころ)」→親心「おやごころ」。
「ごごろ」ではなく「ごころ」である。

「笹(ささ)」は熊笹で「ざさ」
「筒(つつ)」も茶筒で「づつ」
やはり先頭の文字しか濁らない。


ということは、ということはである。
推測ではあるが、ハ行で半濁音になる場合も同じことになるのではないか!?

やはり母(ハハ)は「パハ」になるのでは!?
「バカッパハ」の可能性が高まった!
(しかしやっぱりしっくりこない…)

しかしこれは飽くまでも濁音から推測した「可能性」でしかない。半濁音も同じだとは限らない。

そもそも何にでも例外はある。
先に上げた「連濁」のルールでも、例外として「後ろの単語に濁音がある時は連濁はしない」という法則がある。

例えば
「花+火で花火」は連濁するが(ヒ→ビ)
「線香+花火で線香花火」は連濁しない。
バナビにはならずハナビのままである。
(これをライマンの法則というそうだ)


なので、もしかしたら半濁音になる場合は連濁の通常ルールには当てはまらない可能性はある。


「バカッパハ」の可能性は高そうだがなんというか決め手がない。やはり耳馴染みがないのは他に同じような例がないからだ。造語以外に同様の単語は存在しないのかもしれない。


文字ではなく会話の時には「バカッパハ」よりもむしろ「バカッハハ」の方が相手には伝わりやすそうだとは思う。
個人的には直感で読んだ「バカッパパ」が言いやすいからそうであってほしい気もする。

結局「馬鹿ッ母」の正しい読み方は未だに分からないままだ。

やっぱり専門家じゃないと正しい答えはわからないのよね。いずれ言語学者かどこかの言語フリークが正しい読みを教えてくれないだろうか。

その日が来るまで私はきっと10年後も20年後も「馬鹿ッ母」の読み方を考えてしまう未来しかないのだ。

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