ほぼ毎日なにか書く 0422
たまたまだ、大抵のことは。
あのときああしたから、あるいはああしなかったから今こうなっている。自分がこうだから、あの人はああだから、こうなってしまった。原因と結果の考え方は、結果から遡って原因を探す。それが役に立つ場面は大いにあるのだが、原因を人に求めていくとしんどくなることがある。ある人が暴力をふるったとする。どうして暴力をふるうに至ったのか、背景を探っていくことはできるだろう。けれど、暴力をふるったのがその人であったのはたまたまだ。それがAさんでなくてBさんだったこと、「Bさん」という具体的な誰かであったことは。あの人があの人であることと、私が私であることは、等しくたまたまだ。ただもちろん、それは暴力をふるっていい理由にはならない。あと、あなたがこれまでに重ねてきた努力や味わってきた苦しい思いを否定するものでもない。ただ、絶対の意味や、根源的な理由を求めていくと苦しくなるというふうに思う。意味の探求は自己否定につながりやすい気がする。気に食わない人がいて、その人がどうしてそうなのかということを突き詰めて考えても、やっぱりどうしようもない。たまたまそうなった。そのたまたまとどう向き合ってきたのかの部分が人となりで、そちらを見てあげたほうがいいと思う。結果よりも、痕跡を。
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