ほぼ毎日なにか書く0416

時間について考えている。

時間の使い方が思考をつくる。当たり前だけど。空間というか、作業というかは、固有の時間の質をもっていて(あるいはじぶんのからだに対応が埋め込まれていて)、特定の時間とばかり触れ合っていると思考の弾力がなくなっていくように感じる。漫然と時間が続いていくような感覚がある。朝がきて、夜が来て、また朝がきて、これが永遠に続くように錯覚する。家にいる5分と、外を歩く5分の質の違いのなんたることか。外を歩く5分には情報も思考も濃密に詰まっている気がする。凪にとどまりつづけるとそこが海ということを忘れてしまいそうになる。

加速が問題だ、とされてきた。社会や暮らしの加速化と疲弊について。けどいまこうなってみると、減速は減速でやっかいなこともある。減速といってもあくまで動き続けているわけで、あゆみを止めてしまうと思考停止に陥りそうだ。全力疾走の状態から小走りになるには、踏ん張る力がいる。いま必要なのは、踏ん張りをきかせてスローダウンすることのようにも思う。

時間について考えている、といったけど、実はあまり考えられていない。凪の中では頭がいまいち働かない。いま、このnoteは池袋の公園で書いている。

高層ビルの側を歩く時、安心感があった。なんだろう、この安心感は。家の周りを歩くだけでは得られなかった安心感。大きなものが変わらずあること、それを見上げるわたしのサイズ感を確認できたこと、かなぁと思った。
私たちの認識は空間の影響のもとで育まれている。家という空間。近所という空間。ウチとソト。けれど、その二つでは十分じゃなかったかもしれないと、池袋の高層マンションに安心を感じて思った。少なくとも自分にとっては。ウチ・マチ・トシの3点。2じゃなくて3の力学だったのかもしれない。これは、池袋から15分くらいのところに生まれ育った自分の身体図式だ。生まれて埋め込まれた環境が違う人にとってはまた違うんだろう。
その3点でやっと自分の位置が確認できたような気がする。イーフー・トゥアンの「空間の経験」に書いてあることがよぎった。あまり正確に覚えていないけれど。
ウチでオンラインばかり続けていると、身体が肥大化していくような感覚があった。インターネットを点ではなく、面かのように感じるようになってきた。自分の脳みそにネット「空間」が構築されつつあるのを感じる。うっかりするとウチ・ネット空間の2点でわたしを位置付けようとしてしまう。すでにそういう人もたくさんいるんだろう。

8階建てくらいの雑居ビルじゃ足りない。20階はあるような、とりつくしまのないグレーのビル。一度も愛されたことのなさそうなプラタナスの並木。見向きもされない地名由来の看板。人間らしさの排除されたものを求める自分にすこし驚いた。缶チューハイをあおるホームレス。小さな母娘。なにも持たずどこかに向かう高齢者。ウーバーの配達員。この人たちと触れ合うことはない。触れあわなければとも思わない。雑居ビルに囲まれた池袋の公園は都市の空き地だ。目的をもたない「その他」の空間。池袋の西側は、目的がない人にもひらかれているような気がした。

ふと、外出と移動は同じものなんだろうか。違うんだろうか。いま必要なのは外出=そとに出ることだけでなく、移動なんだろうな。わたしの身体をある地点からある地点へと動かしていくこと。風景がかわり、思考が移ろう。その経験が制限されているのがきっとしんどい。

人間歩けばどこだっていける。と思うのと同時に、歩いていけるところには限界がある、というのもある。これまでずっと電車やバスが、拡張された足としてわたしたちの移動の可能性を広げていた。拡張身体、特に足を制限されたいま、身体にもどってくるか、オンラインのバーチャルに進んでいくか岐路にいるんだろうな。
自分は、バーチャル身体の方向では身が持たない。主に頭が持たない。でもウチ・マチ・トシ・ネットの4点で空間を経験している人にとってはそんなに影響がないのかもしれない。
近所から離れるのが難しい場合は、歩いたことのない道を歩いてみるのはどうだろう。例えば、ひとつものを買うとか、花の写真を一枚撮ってくる、とかのルールを課したり、課さなかったりして。人の気配を感じるものを探す、というのも良いかもなぁと雑司が谷を歩きながら思う。

それにしても、なんて寒い4月なんだ。

(1)イーフー, トゥアン「空間の経験ー身体から都市へ」ちくま学芸文庫、1993年

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