ほぼ毎日なにか書く 0409
数日前に愛媛出身の友人と話していて、年末年始は帰省ができなかったと聞いた。東京(市街地?)に出たらしばらくは自主隔離、そもそも市街地との交流はすべきではない、という感覚が今も強いのだという。東京に暮らしていると、当たり前だが東京を避けることができないのでもはや順応するほか生きる術がないのだけど、東京を生活圏に持っていない場合は、遠ざけ、避けることができる。
ふと、東京は誰にとってもソトなのかもしれない、東京というか都市というものが、と思った。愛媛の人にとっては自分の住むまちはウチであり、市街地や東京はソトになる。ソトには出ない、あるいはソトに出たら自主隔離という話になる。Covidをどの程度怖がっているかという話ではなく、テリトリーについての考え方だ。東京は、あらゆる町村にとってはソトだろう。都内でも多摩地域のほうからみると東京はソトかもしれない。では東京にとって、ウチと呼べるような圏域はあるだろうか。
自分は、江古田から出なければ安全か?そうではない。私鉄で鈍行しか止まらないといっても人の還流構造の一部に組み込まれているし、人混みにいった人を追跡するにはあまりに人数が多い。
見知ったもので安全圏を確立できるのがウチだとしたら、東京は常にソトだ。ウチからはみ出たもの、ウチでは生きづらい人はソトに出てくる。そこではテント村のように一時的なコミュニティが出来てきたりするが、にしても、性格としてはかなりソトだ。ソトだからDiYが可能になる。
このかんじはゴミ捨て場にも似ている。公園ゴミ箱論という話もあるが、東京もゴミ箱のようなものかもしれない。排出された有象無象の集積地。誰にとってもソト、だからテリトリーに対する責任を負わなくてもいいし、気楽だ。
東京をゴミ捨て場と捉え直すと、何が遺棄され、何が希望とされ、どんなささやかな生活が積み上げられているのか、また違った顔が見えてきそうだ。
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