ほぼ毎日なにか書く0425
たくさんの配信演劇に触発されたわけではないのだけど、家にじっと一人でいることを扱った上演ができないかな、と考えている。一昨日書いたことの続き。
家にいること、というより、家という器とその中身の話に興味がある。二年前に祖父が倒れて入院したときに、家から音がなくなったことが印象に残っている。人間はそこにいるだけで音を立てているし、自然の音も人間が知覚するから初めて存在しているとも思う。ここ最近は家の音に耳をすませている。家の質感を意識している。観客を、そういった情報未満の質感に誘導するようなことはできないだろうか。個と住居の関係を突き詰めていくことはできないだろうか。
映像配信をみるときに、家の中のあれこれがノイズになってしまうという記事を読んだけれど、家のノイズを借景するようなことはできないだろうかな。それは元々のコミュニティ演劇の次の段階として考えていたことと重なる。
そうした個の端末で視聴ができる演劇は演劇を状況ではなくコンテンツにはめこんでしまう傾向にあるので、どう状況を生み出せるかがキーだなぁ。
・「住まい」と「住まう」
・プライベートとパブリック
分断されているというけどわたしたちが人にあうときは通常どこか別の空間で、家の中はもともと人をそんなに招き入れる空間ではなかった。むしろそこにはパブリックがどんどん侵入してきているという状況がある。他人のプライベートに、最初はおそるおそる触れているけど、徐々に慣れてきつつある感覚もある。
家に蓄積する記憶、場に刻まれた記憶と身体に刻まれた記憶というのが違うものだな、なんてことも感じる。
配信の演劇は、時間や空間を通常の演劇以上にぼやかせるのかもしれないなぁ。むしろ、空間体験をできる限り再現したりするのも良いのかな。
などなど。
でも核にあるのは、「家とわたしの関係」だ。これは食べ物のように自分でつくって自分で消費する、というわけにはなかなかいかないところが面白いと思う。長年そこにあるし、誰かがつくったものを何人も経由して自分が使ったりしている。だけど、そこが快適になるよう手を入れたりもしている。思いがこもった家もあればあまりこもっていない家もある。
違うトピックを混ぜてしまわないように気をつけねば。
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