ほぼ毎日なにか書く0716

二ヶ月近く書いていなかった。今日、再開する。なぜ再開するのかと、なぜ書いていなかったのかが表裏一体なのでまずその部分を整理しておきたい。

6月に入って忙しくなってきた。緊急事態宣言が5月末に解除されたが、解除がされるまではまだ「宣言下」という共通の条件のもとに全員がいたんだと思う。今ふりかえると。外出自粛によって空間的にバラバラにされ、時間の共有もできなくなっていたが(バラバラの時間を生きていてもう同じ地平に生きていないのかもなと思っていた)、「宣言下」という状況は共有していた。そしたそれがどういうことなのかまだ多くの人が語ることばを持っていなかった。言語化の追いつかない状況であるということが共通していて、筋トレをする人もいれば自炊をする人もいればリモート○○をする人もいれば日記を書く人もいた。空白の時間をそれぞれの方法でしのいでいた。

だが6月に入って宣言が解除された。それによってさまざまな領域がそろそろと動き始めた。2-3ヶ月動きを止められていたのだから当たり前だ。回遊魚は止まっていたら死んでしまうように人間も動かないと死んでしまう。だけど元どおりの速度で活動することもできない、だから恐る恐るの再開だったと思う。はじめは。
そんな中で関わっている仕事も各方面で動き始めた。そろそろと。できることとできないことを見極めながら慎重に進めていくというかんじだった。

一方、まちはあっという間に加速した。自粛中もバイトがあり最低限乗っていたが、あれだけガラガラだった電車はすぐに座れなくなった。ニュースアプリはwithコロナの時代のビジネスがどうとか、○○が語るアフターコロナみたいな記事がぽんぽん通知で出てくるようになった。失った時間を取り戻すかのように東京が前のめりで動き出しているかんじがした。もう空白の時間はいやだ、「考える」なんてしたくないというような漠然とした盲目さを感じた。いや、これは振り返って感じることで、実際の日々は真綿をしめるように本当に少しずつ変わっていったのだけど。

そんな中で仕事のミーティングや作業も次々入ってきた。自分の団体のプロジェクトを含めると6つの案件がいま身の回りで動いている。そうした現実的な忙しさがあって日記を書けなくなった。その分企画書や台本など別のものを書いていた。だが、それは内省の時間を後手に回したということでもあったと思う。再加速する東京の時間に、どこか自分も絡めとられていた。

動き出した様々な案件は対話の積み重ねからスタートするものが多かった。ふつうの状況であれば対話を重ねることでなにか核になることばが見つかったり、関係者で共有できる視点が見つかったりするものだと思う。あるいはそうして耕された土壌の中から誰かがえいやとコアを拾い上げるか。だけど七月半ばのいま、実は困難を感じている。どの案件というのではなく、これはいくつかのプロジェクトを飛び石しながら進めているという自分の現状の中で感じていることなのだけど、視界を共有するということが難しくなっている。日々感染等の状況が変わるということもあるし、政治社会では毎日めちゃくちゃなことが起きていてモラルとか社会像が日々崩されていっているということも大いにある。そういう中で、ひとりひとりの社会想定が異なってきている、しかも時間が経つにつれて差が開く、かつその差を窺い知ることが難しくなってきているかんじがする。「温度差」と簡単にいえてしまうものとも少し違う。社会(という言葉をどこから捉えるかも違うが)と自分をつなぐ手がかりみたいなものがひとによって全然異なるということや、超えてはならない一線の引き方が千差万別ということだ。違いがあること自体は当然だしいい悪いという話であるはずがない。だけど、対話的にものごとを進めていこうとするとき、確信をもって決めていくのが難しくなる。しかもリモートではリアル以上に難しいかんじがする。(というのはリアルに過度な期待を寄せているかも。どのみちリアルとリモートを比較ができない状況なのだから考える意味もない。)
自分の生活実感に即して考えたことが、他者の生活実感にははまらなかったりする。お互いにはまりあわない道具を持ってきてしまったとき、結局一度持ってきたものを置いて、手ぶらで話すことから始めないといけない。そうすると「違い」の確認から始まる。1週間経つと社会が変わっているということもある。この違いの確認に、単純にエネルギーを持っていかれるかんじがする。このエネルギーの消費の仕方はこれまで体験したことがない。
だけど、関係者の外に広がる観客や視聴者やサポーターという人たちのあいだにも無限の差異があることを考えると、この前提確認のような議論を無碍にすることは絶対にできない。と同時に、無限であるから、どうにか次のステップにいく方法も考えないといけない。
「劇場で演劇を上演する」ように既存の様式を使う場合はここまで話が難しくはならない。この状況に合わせた新しいアプローチ、というのは多かれ少なかれ波打ち際に家を立てようとしている。地盤がたしかでない上に、目の前でかたちを変える。

これは発明が必要だ。そこに建てるものの発明ではなく、建てるプロセスに関する発明が。だけど同様の事情が発明に集中することをも妨げるため、「妨げられないための発明」もいる。

さしあたってまた文章を書くことにした。文章を書く時、ひとは言葉を選んでいる。多数ある可能性のなかから選び取っている。選ぶというのは序列をつけるということだ。いま困っているのは、めちゃくちゃな世の中も、一緒に作品をつくる人の考えていることも、自分のアイディアや思いもパラレルになっていることだと思う。なにを、どの順で考えたらいいのか途方に暮れる。ばばーっとめちゃくちゃに広がっているさまざまな情報や事実や存在を、順序立てるためのトレーニングとして文章を書く。それはものごととの距離を測り直すことでもあると思う。

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追伸

いま、他者との対話的創造が難しい、自己との対話が必要では、ということを↑に書いて思ったことをメモしておく。

他者に言葉が通じないということは悲しい。だけどもう私たちはそういう状況を生きているんだなと思う。通じないわけではない、意味としては届いている。だけど、相手と思考が一体に混ざり合う感覚や、対話の中でまさに目の前になにかが構築されていくかのようにアイディアや思考が積み上がるという経験は、いま、難しいと感じている。相手と自分の前にテーブルがない。遠くから通信のようにしてメッセージは届くのだけど、これまで対話だと思っていたものと何かが違う。別の惑星から届く手紙のようだ、と思った。それだけわたしたちはもう別々の現実を生きざるを得ないのかもしれないとも思う。天にいる他者には、どれだけジャンプをしても届かない。天にいる他者と腕を組んで一緒に歩くことは難しいと思う。だから足元に言葉を書いて自分と対話をする。そこには天からのメッセージも含めることができる。だけど隣には誰もいない。孤独な作業だ。

ただ、ここから先は希望のような話だけど、足元に文字を書きつけ続けて、掘って行った先にぼこっと穴が空いて、同じように掘っていた誰かと出会うことはできないだろうか。それは天の人とは違う人かもしれない。多分違うと思う。だけど、そうやって同じ穴を掘った人とは、もう一度対話ができるような気がする。対話ほど仰々しくなくていい。その人とのあいだにはテーブルが置ける。何かを生み出す必要はない。ただ、テーブルを囲めればいい。それが救いになる。テーブルを囲むひとびと、これをコミュニティと言い換えることはできないか。徹底的な孤独、自己との対話の先に、地の底から現れるコミュニティを夢想したい。それは横からも、天からも現れない。地の底なんだと思う。だけど、コミュニティが現れることを夢見るからこそ、掘るんじゃないかとも思う。そんな、ややこしくて遠回りなコミュニケーションだけは、いまわたしたちに残されているのかもしれない。

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