ほぼ毎日なにか書く 0403

宇野重規さんの「民主主義とは何か」と、100分de名著だけど「資本論」と「ディスタンクシオン」を読んだ。

民主主義については、人間集団の意思決定の一形態であるということを理解した。民主主義のデメリットが議論されてきた経緯を見ると、無意識に民主主義をよいものあるいは当然担保されるべきと思ってきたことに気付かされる。少数のエリートが支配したほうが効率がいいという選択肢もある上で民主主義のメリットは、やはり当事者意識と多様性ということになるのだろうか。特に、領土拡大のように国土を増やすことも、ないしは資本の増大という資本主義の本旨自体が問い直されつつある現代では、ある目的が達成されさえすればいいということではなく、意思決定のプロセスや、それぞれの人格の尊重が大事になるのだろう。だけれど民主主義はめんどくさいし、選挙=民主主義のようになっているのも事実で、その状況に正面から向き合うことも楽ではないのだけど。けれど、民主主義を考えることはすなわち社会の不平等や暴力について自分がどう考えるかということでもある。ある誰かの特権は、ある誰かの抑圧の上で成り立っているかもしれない。その「奪われている者」に向き合うかどうかじゃないだろうか。

しかし「奪われていること」が当たり前になってしまうと、そこに不満も抱かない。そのあたりで「ディスタンクシオン」に書かれていることもつながってくるのかもしれない。隷属状態の人は反抗しないが、ある程度力をつけ平等を求め始めた時に権力と民衆は対立するということも書いてあった。状況への隷属とハビトゥスは似ている。このハビトゥスは、家庭や学校だけでなく、現に周囲にいる人々からも影響を受けるはずだ。世の中は変わらない、わたしは何もできない、知らない。例えば高齢者のあいだでそういう自己認識が育まれていることも大いにある。

民主主義はめんどくさい。トクヴィルは「アメリカのデモクラシー」で草の根民主主義に希望を見出したが、今日の町内会活動はどうだろうか。当然やるものという同質性から解放されたことは、ご近所付き合いの型を失ったことも意味するのでは。冷静に考えれば近隣でやらなければいけないことは少ない。ゴミと防災のことぐらいしか残らないと思う。一方でご近所関係を削ぎ落としていったときに地域と自分の関係は痩せ細り、頼れるもののない孤独な生活が待っているかもしれない。特に老年期はそれ以上自分の資本を増やすこともできないので、「金で解決」ができなくなる。資本主義と高齢化は実は相性が悪いと思う。労働力という商品を売っていたけれど、売れるものがなくなり、老年期は消費者でいることを強いられる。そのときに金以外の選択肢を残しておけるかどうか。

現実を変えることができるということ、あるアクションに批判的検証を加えていく体制があることが、草の根民主主義には必要なのかもしれない。会議に参加しても何も採用されないとか、話の通じない町会長が長年居座っていていつやめるのかもわからないようでは、民主主義が成り立たない。形式だけの民主主義は町内会レベルでも起きると思う。そうすると市民が流失し、民なき国という寒々しい状態になるのではないか。

自然に手を入れること、使用価値のあるものを生産し使うことは、人間の根源的な営みだ。資本主義において、分業化や効率化、管理によってそうした根源的な営みが阻害されているのだと「資本論」では書いているらしい。草の根民主主義のことも念頭におくと、行為が可能な余白を生活圏に生み出すことになるのではないか。勝手に花のタネをまいてもいいし、町内会の協力を取り付けて道あそびをしてもいいし、公共空間の整備の際には周辺住民が主役になるよう進めるということでもある。何か場を作ったとしてもそれをハーフメイドにして永遠に変えていけるものにするとか、自治力に合わせて伸び縮みするリスク管理の考え方とかも導入できる気がする。私→共→公がノッキングをおこさずごく自然に連なっていくことが多分大事で、そこでは人は自由に発言ができるし、発言を強いられてもいけない。何割かの勝手連や不安材料も生まれる前提で構えていたほうがいい気がする。雑誌Tired ofに出てきたスケートボーダーの話は示唆的だった。専用のパークを手に入れたことでヒエラルキーが強固になったり制度的になりストリートカルチャーとしてのスケボーが急につまらなくなってしまった話。あそびを持たせるということ。誰もが日の光を浴びて道の真ん中を歩きたいわけではない。

生産、使用価値、参加と責任、あそび。わーっと読んだ数冊だけどリッチな思考ツールに満ちていた。

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