ほぼ毎日なにか書く0403

日本の公共空間の賑わいとルールについて。

公共空間では、さまざまな活動が行われていたほうがいいとされている。公共空間の研究者のウィリアム・ホワイトさんやヤン・ゲールさんがそういうことを言っている。ヤン・ゲールは、人間の活動を必要活動・任意活動・社会活動に分けた。
必要活動とは、食べ物を買いにいくとか出勤するとかの原則避けられないもの。任意活動は散歩とか。社会活動は複数の人のあいだで行われる文字通り社会的なもの。この社会活動が多い都市は、生き生きとして良い公共空間と言われている。いま流行りのプレイスメイキングやストリートファーニチャーなんかの考えにも前提にこういうことがある(と、私は理解している)。まちなかにはいろんな活動があったほうがいい、活動を誘発する環境を作るのだ、と。

さてそんな中で、屋外パフォーマンスが都市の賑わいを生むという話がある。ここで想定されているのは主に大道芸だと思う。パフォーマンスがまちなかで行われることで、そこに人が滞留し、交歓が生まれる。驚きや非日常と出会える、etc。だから商業施設をデザインするときなどパフォーマンスの場と運営を組み込むこともある。

一方で、アートがパフォーマンス性を高め都市に繰り出していったこと、演劇も劇場外の空間を意図的に使っていった人たちがいることも私達は知っている。それらはパフォーマンス的なものが単なる賑わい創出の道具ではないことを示している。不可視の規範や社会のありように触れていくことは、喜びと同時に危険な行為にもなる。つまり、都市空間を設置・管理するものにとっては「規制」の問題と表裏一体となる。同時にアーティストにとっても、望もうと望むまいと規制の問題のすぐそばで作業をすることになる。

一方に規制の問題を正面から取り上げる1970年代の黒テントに代表される市街の演劇活動がある。1970年の新宿駅西口広場のフォークゲリラ排除が1970年。「官」と対峙するという流れは関係していると思う。

もう一方に、都市がパフォーマンスを使っていく流れがある。これは比較的新しい流れだ。その中に、東京都のヘブンアーティスト制度なんかはこういうところにある。「地域アート」と総称されるような、自治体がイニシアチブを取るアートプロジェクトもそうした側面がある。
では、「官」がパフォーマンスを許可・認定するようになったことは、肯定的に捉えていいのだろうか?官の認定と、パフォーマンスの質に因果関係ないのだろうか。認定の出やすいものとそうでないものがあると思われる。都市とパフォーマンスの関係を、「認可・規制」でコントロールできるものなのだろうか? 
関連して、道路の使用に関して規定しているのは主に道路交通法で所管は警察だが、伝統的なまつりは許可されやすく新規性の高いものは断られやすいということもあるんじゃなかろうか。一方、歩行者天国が生み出した文化も多分、ある。竹の子族とか・・・?

もう一点、仮に、都市が完全にパフォーマーにとって使いやすいものになったとする。そうした充足が訪れたとき、反抗のアートは役割を終えるのだろうか? これは、空間の計画する立場に立ったとき、空間によって問題の本質の解決が可能なのかという問題につながっている。公共空間にステージをこさえればストリートパフォーマンスはそこで満足して行われるか? そんなことはないだろう。

網野善彦の「無縁・公界・楽」には、ルールが届かない場所で芸能が行われたと書いてあった気もする。
計画・規制とパフォーマンスという問題は、もうちょっと論点を整理して考えないといけない。通時的、共時的に。

(1)ヤン・ゲール「屋外空間の生活とデザイン」邦訳1990年
(2)高田佳子「大道芸いきいき空間ーにぎわいづくりの全ノウハウ」1992年
(3)たとえば 熊倉純子ほか「アートプロジェクト 芸術と共創する社会」2014年
(4)68/71黒色テント「評議会通信No.14公有地を問う」1980年など

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