ほぼ毎日なにか書く 0404

「民主主義とは何か」100分de名著「ディスタンクシオン」「資本論」で読んだことをもとに引き続き考えてみる。

資本主義社会は資本の拡大を目指すものであり、会社員の場合は会社に労働力という商品を販売するかたちでそのメカニズムの渦中にいる。本の中には構想と実行の乖離という指摘が登場した。原始社会の場合は、こういうものをつくろうという構想と実際に手を動かす作業はつらなっている。自分で考え、自分でつくるのが普通だから。けれど資本主義社会では構想と実行が切り離され、構想は一部の人間の手に握られる。○○という商品を我が社では販売する、我が社で購入したあなたの労働力は製造のためのAというパートに使ってもらう、というかたちになる。ここで人は構想からも切り離されるし、実行の全体性すら遠ざかる。会社が利潤を獲得するための一パーツとなる。それで大きな利潤が上がるうちはまだいいかもしれないが、経済成長が行き止まると、社員に利益か落ちてこないばかりか、利潤をあげるためには経費を削る=人件費を安くすることになる。給料をおさえて、長時間働かせる。この状態で会社に奉仕することは、会社にとっては都合がいいが、本人は時間も余暇も思考も失う。

副業は自分の意思でやっているようだが、実際はひとつの会社以外にも自主的に労働力を売り込む行為であり、会社がつぶれたときに備えて個人の価値をあげていくことにはなるが、それはあくまで護身のようなものだし、資本の最大化という論理からは逃れられない。以前として時間は切り詰めている。

こうやってみていくと、(労働力を含めた)商品を売る・買うという経済のありかた自体に行き詰まりが出てきているようにも思う。
金で解決するということをよくいうが、それは金を増やせる選択肢があるうちにいえることで、老年期に仕事をリタイアした状態では使えるお金は限られており、「金で解決」はいうほど簡単ではないと思う。若いうちから貯金をすればいいといっても、それはある程度若いうちの人生を豊かにするためにも使いたいわけで、つまり金だけを頼ることの限界があるように思う。

何かで、金銭のやりとりは人間のコミュニケーションを一回限りで完結させられるということを読んだ。贈与ではなく交換なので、連鎖はその場でたち消える。特に恩義も残らない。
けれどこれからますます、その場で完結しない関係、相互扶助のような関係が必要なのではないか。詳しく調べていないけれど贈与経済という言葉もあったはずだ。贈与は連鎖が発生する。その連鎖はこれまでめんどくさいものとされてきたが、金が行き詰まってきた今はむしろ信頼できるようにも思う。

ふと、はじめは数千円でもいいから、個人的に助成金制度を作ってみるのはどうだろうと思った。お金をもらったり取りに行くのではなく、あげてしまう。数千円では安いような未知なるものとの遭遇があるんじゃないか、少なくとも可能性としては。
お金をあげるという行為は一例だけれど、どこかに労働力を販売して都市でいきるためのお金をかせがないといけない一方、「商品」を媒介しない、DiY的な領域を少しずつ確保することがかなり大事に思えてきた。資本主義は「価値」を増大させる終わりなき闘争であり、例えば椅子ひとつとってもいい素材や有名なデザイン、アンティークなどでさまざまな方面から価値がつけられ市場に出ているが、椅子の使用価値だけを見ると、案外壊れずに座れればいいだけだったりする。「価値」を疑い、使用価値に忠実になる時間を確保することの重要性。

演劇やアートは、そもそも労働力の販売という性格と同時にDiY的な面があると思う。そこが入り組んでいることでやりがい搾取にもつながるのだと思うけれど、でも、普通の企業で企業のミッションに沿って働くのとは少し違う。そうしたアートや演劇の現場でいくぶんか自覚的にDiYするか。アートや演劇ともまた別の場所でDiYするか。最近、FAIFAIの山崎さんが静岡県にUターンして百姓を始めたドキュメンタリーを見た。構想と実行が見事に一致していたし、金からいくぶんか自由になっているように見えた。自分で食べ物を作っているということはどんなえらい仕事についているよりも安定をもたらすと思う。

欲を言えば、そうしたDiY的な生産に、「あそび」も差し込んでいけるといい。生産はなにかを生み出すがあそびは必ずしもものを生み出さない。だけれど、あそびのように生産することと、贈与や相互扶助はこれから何か関係がある気がする。楽しそうにしていたり、思わず立ち寄って手を動かしてしまうようなあそびがあることが、贈与を起動させることもありえるというか。

具体的なことは何も、まだ。ただいま読んでいるヘルマン・ヘッセの庭仕事についてのエッセイは、なにかヒントをくれそうな予感もする。

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