ほぼ毎日なにか書く 0402

思考停止している。加えて、「ふり」をしている。わたしも、あなたも。

年末年始頃から、いま生活している日本の、東京の状況はどういうことなのかよくわからなくなってきた。昨年春の自粛は世の中のあらゆる個人も機関も、最大限に警戒し、対応していた。その恐怖に偽りはなかったし、実際に誰も正解をわかっていなかった。専門家は最悪のシナリオを描き、それを受け取っていた。感染症という「事実」に対して政策や個別の対応があり、そこには論理があったように思う。もちろん、その時点でも「コロナは風邪」「要請は要請、従う義務はない」という声も聞かれたが、コロナに関する一連の展開に対しては個人的に実感が持てた。「正解がわからない」中で限られた情報をもとに最善を探る。前首相の仕事ぶりに対しては大いに疑問があるが、少なくとも自分の中では足場を持つことができていたように思う。

その中では、さまざまな議論もあった。補償の問題、文化芸術存亡の危機、都市計画分野では公共空間をめぐるさまざまなオンラインディスカッション。パブリックスペースではなく「パブリックタイム」という切り口で考えるとか、「賑わい」のありかたを見直す必要があるとか、刺激的な話が聞かれた。中沢新一は自粛期間のことを現象学でいうエポケー(判断停止)だといっていた。ドクサ(思い込み)を自覚し、立ち止まって考えるということ。たしかにそういう時間になっていた感じがする。

秋が来て、押し止められていた時間が洪水のように流れ始めた。探り探りではあるものの、文化事業は未知の状況の中でできることを模索した。当然未知のストレスもあった。しかし、文化事業が元来持ちがちな悪い性格、「とにかく走り抜ける」が発動され、せっかくのエポケーが流されてしまった感もあるがそれはまた別の話。

そうこうしているうちに、ウイルスの傾向はおおよそ把握され、ワクチン開発の知らせも聞こえてきた。が、年末に感染者数が爆発的に増加。二度目の緊急事態宣言に突入したのが1月7日。
秋、動き回っていた中で、この状況に慣れつつあったというのもあり、二度目の緊急事態宣言は前回と違ったかたちでショックだった。わたしは、いまが非常時だということを忘れかけていた。そのことを思い出し、思い通りにいかない世界を生きているということを思い出し、つらい気持ちになった。災害というよりも、ダラダラと続く戦争下の生活に近い。日常を求めること自体が叶わず、日常のまがいものしか手に入らない、だから求めてはいけない。ということを思った。年末年始。

と、いうこともまたどこかに流れていっていた。あまりに長い自粛期間によって。思えば昨年の自粛は一ヶ月半。今回は二ヶ月半。ほぼ一年の四分の一だ。そして日常生活に対してかけられる制限は具体的に飲食店が20時にしまるということ。それ以外は日常(らしきもの)を送っていることが、個人的にたちが悪かった。仕事は普通に外である。けれど20時を超えるとものを食べられない。人と会って話ができない。思考の循環が滞っていく感覚があった。

2月頃から明らかに街の人出が増えてきた。飲み屋は19時前頃に人であふれていた。20時に閉めることの効果への疑問や、飲食店だけをねらいうちにすることへの批判も聞こえてきた。前回、あれだけぴしっと効いた規範が、今回はかなり弱々しいかたちでしか効いていないように見えた。それを「気の緩み」という安易な言葉で理解したつもりになることはまずいように思う。

明らかに、外出自粛・感染拡大防止は、多くの人の心に届いていない。だけど多くの人がしたがっているふりをしている。マスクをして、20時になったら帰る。閉まってしまうのだから仕方ないのだけど。けど、マスクをして入店し、着席したらずっと外しているのならマスクの意味はどの程度あるのだろう。ある場所ではディスタンスを保ち、別の場所ではぎゅうぎゅうになっていたとしても、そのディスタンスには効果はあるのだろうか。程度の問題なのかもしれない。徹底しなくても、ある程度気をつければ、数としてはおさえられるなど。けれど、ばかばかしい気持ちになってくるのも事実だ。

今日、新宿で用があり歩いて家のほうまで帰ってくる途中、高田馬場の栄通りで、居酒屋から20人くらいのスーツをきた人たちが赤い顔をして出てきた。歓迎会だろうか。マスクをしていない人もいた。一方、厚労省の官僚は会食によって辞任した。このまちの状態を見たら官僚だろうと馬鹿馬鹿しくなるだろう。誰も守っていない赤信号を、公務員だけは守れと言われているような。

自分は、だから会食はしてもよいというスタンスでも、いやいや自粛すべきだというスタンスでもない。そこに対しては「まぁ、当分は気をつけつつがいいよね」程度の穏健なスタンスしか取れない。話す相手にもよる。東京の同世代か、田舎の高齢者かによって、話すトーンは相当変わると思う。
深刻だと思っているのは、コロナの当事者は誰なのか?ということと、社会の思考停止だ。いまは、世の中が考えることを手放してしまっているように見える。決まってしまったルールには従う。感染拡大防止しています!というフリをする。実際にポーズを取っているのだからフリではないのだけど、でも、それはあくまでポーズだということをみんなわかっている。ここではマスクをして、あそこでは取って、ということがおかしい、と思わないようになり始めているように思う。感染症そのものが終息するまでというより、世の中が飽きるまでは(仕方ないので)フリを続けようというような感覚がある。自分たちがどこに向かっているのか、どういう行動をとるのか、元の生活は本当に戻るべき場所なのか、元の生活に戻り始めていいのか、など、本当は前回の自粛の中で再考を迫られた論点がたくさんあるはずなのに、形状記憶合金のようにしずしずと元のかたちに戻って行こうとしている。ここで思考を手放すことは、恐ろしい。しかしもっと恐ろしいのは、自分もそうなっているということ。ひとつも本当のことがない(ということをわかっている)平和な世界で食事をして、仕事をしている。でたらめだ。

思考を再開したい。バカみたいだ。だけどわざわざ状況を整理し、宣言しないと、それができない状態にいまいるように気がしてならない。オリンピックがあるのかないのか、なんだか聖火リレーしてるらしいけど、どうなっているのか、というのもある。煮え切らない話題に対しては、より追求がせまるのではなく、飽き始めるんだなということもわかった。情報を追いかけることも、批判的に検討することも手放して。だって疲れるから。言われたことを守って、あとは適当に。

東京にいない人や、世代の違う人と話すのがいいのかもしれないな。とりあえず文章を書く習慣は再開させよう。ここから夏まで、正気を保つのはなかなか至難の技だ。せめて記録を残していきたい。

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