ほぼ毎日なにか書く 0228

居間。年末に奮発して買ったコートがカーテン脇のポールにかかっている。apple musicからは山口百恵の「美・サイレント」。ずっとiPod classicユーザーで音楽はレンタル、取り込みで聞いていたが、iPodの調子が悪くなってからは音楽自体しばらく聞かなくなり(なければないで問題ない)、秋頃にサブスクに手を出してからはもう、ずっとapple musicになってしまった。スマートフォン、SNS、クラウド、サブスクなど便利とされるもの、みんなが使い始めるものに対して、大体最初は「別にそれがなくてもねえ」と様子を見るのだが、いや、様子すら見ずその時点で手元にあるもので充足しているのだが、ちょっとしたことがきっかけで始め、あって当たり前のものになっている。TwitterもFacebookもそうだった。目の前にいる友達とオンラインでもつながる意味ってある?と思っていたけれど、流れてきた広告をクリックしたのか、誰かにすすめられたのか、とにかく、新しいものを始めるときは忌避を乗り越えるような大した覚悟もなく、ただきっかけだけがあった。音楽についても一時期ずいぶんspotifyをすすめられたけど、なんとなくやっていなかった。そこにはサブスク音楽への強い意思があったわけではない。能動的に選んだわけでも、能動的に否定していたわけでもない。

生活を構成するものやサービスが、いつ、どうして自分の身の回りにあるようになったのか、自覚することがあまりない、ということに気づく。消費で政治的意思表明をするほどの一貫した態度もないし、ライフスタイルと言われるレベルで生活を選びとるほどの余裕もない。あるものと、ありえるもので当面生き延びているだけだ。ツイッターは地獄になった、というならやめればいいのだけど、そうしているわけでもない。ユーザーであるかぎりは文句をいってもいいというような、「通」みたいなところがあるのかもしれない。あまりかっこいいものではない。ぐちぐち言いながら流されているだけなのだから。

流されている。そう、能動的な意思がない以上そこにはつけいる隙がある。FBやアマゾンの露骨な広告表示にはまたも文句がいえるが、露骨なものの裏には巧妙な誘導があるのだろうと思う。トレンドとか世論とか、検索結果というような。検索結果がどのように作られているのか、疑おうと思えば疑えるけれど、でも、疑わずに上位の結果やら口コミ数から見ていった方が早いのでそうしている。流し込まれるものを概ね飲み込んでいる。砂だけは吐き出すが、海水は飲み込んでいる。

そういった仕組みで自らの実際の生活ができていることにはことさら目を向けず、ローカリティとか、コミュニティとかいう。しかし実際にわたしたちの24時間が何に使われているか、それは誰が提供しているものか、よしあしを考える価値判断はどこからやってきたものなのか、考えることなしには、そうでないもの=オルタナティブとしてのバナキュラーなものとかの位置付けが作れないのではないか、という気もしてきている。選択肢から選んでいると思っているが、その視野をつくっているのは誰か?そこに、どの程度介入は可能なのか?

昨年、福祉関係の仕事で「選択肢があること」の重要さを目の当たりにした。その次には、「選択肢はどこからやってきたのか?」を考える必要があるのかもしれない。「選択」ではなく「選択肢」の獲得。

かつて、いやいまも?、生活時間調査というものがあった。24時間を日々どういうふうに使っているかという調査だ。わたしたちの時間はいまどうなっているんだろう。実測時間と体感時間も異なる気がする。去年、1回目の自粛期間に公共空間についてのトークイベントで、パブリックスペースからパブリックタイムへの移行という話がでてきた。そのトークの中では「パブリックタイムってなんだろか?」と扱い切れていなかったし、自分もクエスチョンだったけれど、昨今のClubHouseブームはまさにパブリックタイムなのかもしれない。こうして実装されると、時間に関してはパブリックとコモンの境界線をどう考えるべきなのか?とか、思ってしまうけれど。

リンチの「時間の中の都市」を思い出しつつ、アーレントあたりを再読したい。最近、なんとなく日々ぼんやりしている。このぼんやりがどこからやってきているのかを突き止めたい。

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