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計画された逸脱

大学院の研究の関係で、公共空間のことをずっと考えている。

都市計画において「公共空間」という空間はなく、官が所有しているということか、不特定多数の人が利用するということか等、一体何をもって公共空間なのか?という議論が当然必要だけど(公共をどう定義するかという話になる)、造園の専攻なのでさしあたって屋外公共空間を問題としたい。

屋外公共空間、つまり公園とか道ということだけど、日本のそれらの空間は貧しい。見えない規律でがんじがらめになっている。普段はそうそう変なことをしようと思わないから規律の存在そのものが見えにくい。だけど、身体が規範に慣らされているからといって規範がないことにはならない。公共空間での行動様式は徐々にわたしたちの体力を奪っていっているように思う。

「逸脱」が難しいと同時に、「逸脱」こそ期待できるのではないか。それぞれの生活からの逸脱、空間の日常からの逸脱が、生活の弾力を増す。漂白された街に色のついた液体を垂らすような機会が深刻に求められているように思う。演劇やパフォーマンスは逸脱の担い手として正当な存在なんじゃないだろうか。強固な行動様式を突き放し、逸脱を誘発する空間や環境をどう設計するか。そういうフレームで地域と芸術を通して関わることで見えてくるようなことがある気がする。地域に出たときには芸術は図ではなく地であるほうが豊かな結果をもたらすように思う。「計画された逸脱」という矛盾を引き受けられるのは、物事を曖昧な状態で留められるアートの強みなんじゃないかな。

どうしてuniで自分は劇場の演劇を離れていったのか。それもやっぱり逸脱への希求だったのかもしれない。何か物事を変化させるには、大なり小なり逸脱が必要となる。自分の住む環境を変えたいということも、作品を作りたいということも。

この視点から、祝祭/演技/公共空間/持続可能な社会開発というストーリーを描けないだろうか。どうだろうか。もっと勉強しよう。

※写真は関東の某団地の公園。

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