ほぼ毎日なにか書く0717
ひとりになりたい、と切に思う。
バイト、電車。23時の地下鉄はすっかり混雑している。感染が怖いから物理的にひとりになりたいというのではない。こうして肩と肩がぶつかるくらいの距離で人間の波に飲まれていくことがよろしくない。アンテナはいやでも環境を受け取っていて、そこに順応してしまう。他人の中の自分であり続ける。東京のうねりの一部になってしまう。
だからといって家に帰ったら1人だハッピー、ということでもない。今度は送らないといけないメールやいろんな連絡や、タスクの確認や原稿書きなど、とてもひとりになれない。
なにかを遮断するということがひとりの条件だと思う。遮断は物理的にもできるかもしれないし、音楽を聞くということもそうかもしれない。
夜、何も見えない空をみながら、バラードを聴きながら帰る。これはなかなかひとりかもしれない。なにもない場所に意識を投じること、そこに引っ張ってくれたり、後押ししてくれたりする誰かが存在すること。
だから遮断といっても、何もかも切り捨てていくことではありえない。なにかは選んで残している。
喪に服す、ということにも近いものを感じる。いない人のことを思う時、ひとりになれているような気がする。マレなことをするというのも、何かあるかもしれない。吉本隆明は銭湯と祭りに人の中にありながらひとりだという状況を見たけれど、毎日そうしていると周りの人も馴染みになってくる。「こんばんは」「ちょっと太ったんじゃない?」なんて言い始めたらもうそこではひとりになれない。
とむらいは、どこまでも馴染みになりえない。常に唯一のもので、消化もされない。忘れた頃にまた目の前にあらわれる。
歩くこととひとりも関係がある。だけど、なんでもいいから歩けばひとりになれるなんてことはない。何かから逃れ出て始まるもので、かつその小旅行に終わりがなければならない。
手紙を書くこともひとりかもしれない。手紙って、質問と自分の話で構成されるような気がする。だから相手を想像しながらも自分のことを省みないといけない。
ひとりになりたいという欲求自体も変化する。雨に濡れじっとりむし重い荷物をもって混んだ電車に乗った時、「ひとりになりたい」と身体的に感じたものだけど、いま自宅で扇風機を回してパソコンに向かっていると先ほどの欲望はなくなっていく。
わがままだ。情報過多のときは減らしたいと思い、変化に乏しい時は旅に出たいと思う。
自分はどこでひとりになりたいのだろうか。ひとりの空間がほしいのではなく、ひとりの時間がほしいような気がする。それは誰にも邪魔されず、ぶつ切りにされない時間。ぼーっとするかもしれないし、なにかを考えるかもしれない。そんな時間を獲得するのは難しい。なにか、ひとり時間へのアクセスキーが必要だ。それは自分で内発的に生み出すには少し難しさもある。
ラジオ。ラジオはひとり時間のおともにはなるが、ひとり時間を生み出す装置とまでは言えないかもしれない。いや、ラジオの中身にはよるが。
ひとり時間はカギかっこの時間かもしれない。一種のリミナリティというか。いつか終わりがくる、その次のステップが存在するなど。一時的なひとり状態だからこそ、ひとりが際立つ可能性もある。
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