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この場所を去るまで残りX日

自転車にのって最寄りの薬局に向かう途中、ふと引っ越そうと思った。このまち、この家を出てどこか違う場所に住もう。それがいい。

今はひとりぐらしをしているこの家には、少し前まで3人が暮らし、その前は5人が住み、もっと前は位牌の戒名でしか見たことのない人たちが住んでいたらしい。いろんな人が住んでいた。別の場所に移り住んだ人もいればあの世に行ってしまった人もいた。この家を建てた人物ももうこの世にいない。これまでのところ自分は見送るばかりで、見送られることはなかった。気がつくとこの家に住む最後の一人になっていた。

家は建物であり、人であるときっと誰かが言っている。今考えると、人を介して家の輪郭をつかむことができた。むしろ自分にとって常に家とは建物以上の何かを含んだものだったのだと思う。そこでの暮らしであり、関係であり、時間であり、エトセトラ。一人で暮らす今はこうしてことばにする程度でしか家の輪郭を捉えられない。

この家には常に誰かが住んでいた。約50年、空き家だったことはない。この家との関わり方を変えようといろいろ探った時期もあった。例えばイベントスペースの機能を持たせるとか。けれどそもそも、この家は私のものではない。法的にも、おそらく建物の本質としても。私が住んでいることと、私が自由に行く末を決められることは全然イコールじゃない。ここを通り過ぎていった人々のひとりなのだ。だから私は、家のことよりも、私自身の意思決定をしていかなければいけない。家のことを考える時間は減っていった。

これは、知らないうちに身につけていた所有感を手放すということなのかも。親離れ子離れと同じで、家離れ。こどもの人生はこどものものなのと同じように、家には家の人生?があるのかもしれない。その世話をすることはできても、他人の生を受け止めることはできない。同じようなことをこの街にも感じている。街離れ。街は自分の一部ではないし、自分も街の一部ではない、という意識のありよう。もちろん勝手知ったるまちへの愛着はあるし、できれば多くの人にまちとは良い関係を結んでほしいと思っている。だけど、まち=自分ではない。家や街の輪郭が掴めることで自分の輪郭をつかむということもあると思うが、家や街が自分の輪郭をかたちづくらなくなってきたなら、きっともうその頃とは違うのだ。今は以前と比べてかなりモバイルな意識を持って生活している。自分にとっての主戦場はいま、家や街ではないのだと思う。

むしろこの街に通うことで何が見えるのか、そのことにワクワクしている。どう自分の意識の置きどころが変わるのか、そのことはマメに記述しておきたい。

ゆっくり進むかもしれないし、ある時全てが決まってしまうかもしれない引っ越し計画。気が向いたらこの引っ越し日誌もまた書こう。何事もなかったかのようにそのまま住んでいるかもしれないし。

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