ほぼ毎日なにか書く0525

昨日の続き。自分の理解の整理のために書いている。


演劇ワークショップと都市計画・まちづくり

演劇ワークショップに、まちづくりや都市計画の分野から熱い視線を投じられた時代がある。1980年代から2000年頃までが、そのコア期間だったのではないかと思う。大まかに分けると、都市計画の分野でトップダウンの構造からボトムアップ、住民参加ということが論じられ始めた。
議論の中心地はアメリカだった。ジェイン・ジェイコブス、アドボカシープランニング、ローレンス・ハルプリンのワークショップ、コミュニティデザインセンター、エトセトラ、エトセトラ。
そうした議論は70年代後半あたり(?)から日本にも紹介され始めた。日本でもすでに住民運動が展開されており、呼応したものと思われる。国内の農村計画やまちづくりでも、ワークショップの手法が試みられるようになっていった。

そのほぼ同時期、黒テントがアジアとの交流を開始し、その中でPETAと出会う。具体的にワークショップという手法が紹介されたのはPETAの影響が非常に大きいが、PETAと出会う前の段階でも、演出家のトップダウンではないワークショップ的な方法が模索されていたようだ。
また同時期に人文学系の研究者らによって、ラテンアメリカの民衆文化運動についての研究会(AALA)も行われていて、そちらからボアールの方法が紹介される。黒テントの動きとAALAは協働していくことになる。
そして1983年に、ATF(アジア民衆演劇会議)が日本で開催される。ATFは当時ワークショップに関心を寄せていた人々にとってひとつ重要な催しだったことは間違いない。日本の演劇ワークショップ史はATF抜きにして考えることはできない。

ATFから遡ること2年、黒テントは全国の公有地で上演していたうちの一つとして世田谷の羽根木で上演を行った。(黒テントはオルグという上演協力者のネットワークを全国に構築しており、このネットワークは様々な意味でその後も意味があったと思われる)
世田谷ではその当時、さまざまな住民運動が展開されていた。70年代〜80年代は住民運動最盛期だったのだろう。
黒テントと世田谷の人々が出会う。世田谷には、様々な研究者も出入りしていた。研究者は自ら活動も展開していた。黒テントは「太陽の市場」という、夜の上演前の日中に、障害のある人たちが表現をするワークショップを行っていった。ATFに続き、この「太陽の市場」も演劇WS史において重要な位置付けにある。太陽の市場とATFを中心に、さまざまな出会いや情報交換が行われ、演劇WSはフィリピンから日本に(ボアールの手法も南米から日本に)、そして演劇以外の領域の人々へと伝わっていった。

この頃に居合わせた人たちが、その後2000年頃までさまざまな活動を展開していった。もちろん2000年以降も活動されているが、記事などになって記録されているものはその頃までのものが多い。

演劇人、主に黒テントのメンバーでその後も演劇WSを実践していった人たちにとってはまちづくりへの応用はトピックのひとつであり、差別、障害、多文化共生などさまざまなトピックとの作業がされていたようだ。1995年には演劇ワークショップネットワークという組織を演劇以外の専門家も交えながら発足し、黒テント後の活動母体としていた。彼らの用いる演劇WSのアイディア源はPETAであり、ボアールであった。(他にも、ATF当時に情報のもたらされた第三世界を中心とした別の国の手法も取り入れていたのだろうが)

都市計画の分野でも引き続き議論されている。早稲田では1998年に都市計画と民主主義というテーマのシンポジウムが行われ、企画フォーラムとして演劇WSの紹介がされている。
演劇WSが都市計画分野にて紹介されるときの一番の着眼点は「意識化」だった。WSという手法はすでに前提となり、その可能性をどこまで深く議論し、実践していけるかという段だったのではないかと思う。都市計画、まちづくりには住民参加、情報と意識の共有というまちづくり推進の根本問題が横たわっていて、それと演劇WSという手法を突き合わせて考えていくということだったのかもしれない。PETAもボアールも都市計画を正面から取り上げる実践ではないと認識しているのだけど(法律制定演劇など後期のボアールは直接的な社会変革も扱っていたけど)、演劇WS実践の志向として、社会的な抑圧の中に置かれている個人に注目して、その個人たちが現実を意識化・エンパワメントされていくというかたちで、個人たちを社会との関係の中で捉えていた。住民参加のまちづくりで、市民の疎外をどうするか、どうまちへの意識を育むかという問題を考えた時に、重なり合う部分があったのだろう。まちづくりの課題に演劇WSを「パッチ」しようとしていた、と捉えられるか。演劇WSにそそがれた熱い視線は、まちづくりの問題(ないしはさらにその土台にある民主主義の問題、日本社会の問題)にその根を持っていたと言えるのではないか。(実証していないのであくまで仮説的に)

「まちづくり」は総合的なことばで、突き詰めればまちづくりと無関係な領域を見つけるほうが難しい。本家本元は都市計画でありハードの開発や整備なわけだけど、「まちづくりはひとづくり」だと認識されてからは、人間に関われる人文的な領域が全て関わるようになった。教育も福祉も芸術も。そうなったまちづくりはむしろ、「生活学」という、これまた総体的だけど、この言葉のほうが捉えられるのかもしれない。教育・福祉・芸術という縦割り自体も見直さないと捉えられなくなってきているのではないか。生活とか、コミュニティ、公共(文字通りパブリックとコモン)というキーワードが、まちづくりの先頭に躍り出るようになってきた、ように感じる。
あまりにいろいろな使われ方をしたことで、まちづくりという言葉でなにかを的確に意味することができなくなってしまったように感じる。90年代におけるまちづくりのように時代を遡れば、当時どのように意味づけされて使われていたのか限定できるけど、そうでないと、70年代の意味でも取り、2020年の意味でも取りと非常に都合よくごちゃっとできてしまうので、おそらく言葉を使う側にも受け取る側にもよろしくない。

まちづくりの意味するところも変わる。
用語の使い方だけでなく、まちづくりが地に足をつけて立つ土台、日本社会やコミュニティのありよう、生活が、ダイナミックに変化してきている。
そうこうしている間に「コミュニケーション教育」としての演劇WSが登場した。人間ー社会の関係性の中で人を捉えていった80年代の演劇WSとは、人間観が異なるように思う。もちろん目的や、所管の行政部署なども。どちらのほうが射程が広かったのか、よくわからない。PETAの実践は総合性があったように感じるけど、けれど啓蒙的な部分もあるように感じ、それでいくと視野は限られていたのかもしれない。コミュニケーション教育は、演劇教育の目的をコミュニケーションに結びつけることで受益者にとって理解しやすいものになったように感じるが、社会にどんどん踏み出して行く運動的性格とは少し違うように感じる。
このあたりには演劇業界が民間資本でやっていた時代と、公的資金の投入が始まった時代とでも線を引けるように思う。(主導している人が一緒だからというのはあるけど・・・)
ただ、その時点での生活がどのようにかたちなのか、なにが社会問題として認識されているのか、ということと無関係では絶対ない。

いま、まちづくりと演劇WSということをどう考えられるだろうか。個人的には、WS以前の前提が大きく変わってしまった以上、その上に乗っていた(乗ろうとしていた)演劇WSのかたちそのまま可能性を抱き続けることはできないと思う。つまり、きつい。
どう地域に関心を持ってもらおう?という運動論では、「人が集まらない・・・」「持続しない・・・」「金がない・・・」という、街場のサークルやまちづくり団体どこでも聞かれる言葉と変わらない。やることが目的化してしまう。それでもやれる人はいるだろうし、やれば、続ければ、何かは起きる。(ちなみにその場合には何をやったかより、どういう人がどのようにやったかのほうが重要だと思う。大学生が「何を」企画したかより「大学生と」関わること自体にウェイトがあるんじゃないか?)
多様性なのだから、みんなで同じことに関心がなくてもいいし、Aというまちに住みながらBのまちのことばかり考えていてもいい。何も考えなくてもいい。「演劇WSで、参加者の意識化を」参加者は、意識の変化もあるだろう。そもそも何かに出会いたくて参加しているはずなのだから。だけど、参加しない人の意識は変わらない。参加したい人だけが集まって熱気を帯びた活動をする、それももちろんいい。だけど、もう一段階土台の部分を考えて、そのうえにもう一度どうWSを載せられるかなんじゃないか、と思わずにはいられない。

80年代からの流れの演劇WSは、日本では主に特定の団体や、集まりとの作業を継続していった。広く市民の参加を募って何かを行うというより、自助団体や障害者施設、まちの有志たちなど。核になるひとがすでに「集まっていた、見えていた」。
どのように集めるか、集まるか、顔を知っていくか。その段階から合わせて活動していけば、ある程度はできることもあるのだろう。
だけど、その限界も感じる。

もやっとするなぁ。もう一段階土台の議論とはなんなのか。民主主義、公共性、遊戯と芸術というあたりの思考をもっと深めていこう。


続き

ということで、一方には演劇が行われる空間の議論があり、もう一方には演劇による意識化とまちづくりの議論がある。演劇を目的とした演劇と、演劇以外の目的をもった演劇があり、しかしどちらも演劇であり、かつ都市空間と関連しているところがややこしい。演劇ワークショップでも上演するものもあり、結果重視かプロセス重視かということも線を引くことは簡単ではない。
演劇を目的とした演劇も、経済的に手堅いプロフェッショナルなものと、アヴァンギャルドなもの、市民活動に近いもの、そのミックスなどいろいろで、市民活動に近いものは、演劇をすること自体がまちづくり的な性格をはらんでいると思う。地域の祭礼とも重なってくる。

ただ、やっぱり都市空間と演劇というものをそれ以上ないくらい底の部分で規定して、その上にそれぞれの空間および空間生成に関わる演劇行為(上演もあればWSもあるだろう)を位置付けるということに、なるのだろうか?
哲学と理論をベースにフレームワークと指標を抽出して、それぞれを確かめるように実証の研究があるということだろうか。哲学を証明することはできないから。
となると大枠としては、新しい構造や概念を打ち出す、そのために個別研究があるということになる?「公共ホール」とか「WS」というくくりはその中層に位置するということになるのか。低層が、その中層の位置を規定するということになる?

アクションリサーチは諦めて、実証研究と文献調査で結果が出せるものに限定するという条件もある。それは・・・また考えよう。

現場での運動は大事だ、けれど、運動をしていればいいのか?ということへの疑いの視線は失わないようにしよう。

さらに続き

・そうか、そもそも演劇そのもの(もしかしたらアートそのもの)に「意識化」の要素が含まれている。それを概念に成形し方法としてまとめたのがフレイレ。

・リアルタイムの現実を扱うか、誰かの記憶や認識の中にある過去を扱うのかによって、少し視点は変わってくる。過去というものを、疑いなく受け入れることもできない。書かれた過去と、語られた過去、語り手の頭の中の過去と、同じものではない。同じトピックをつかって歴史学も認識論も展開できるかもしれない。(認識論の場合はより一般性をもつ?)これは研究の立ち位置をどこに置くのか、目的がなんなのかということになる。
「歴史の半分は図書館におさめられもう半分はゴミ箱に捨てられる」残っている歴史と同じかそれ以上に、残っていない歴史があることにも注意を払う。

・「これまでがどうだったのか」(レビュー)ということは、これからを考えていく史料になる。

・実際にまちに触れ、空間を成形していく・描いていく手法としてのWS?公共空間や生活空間とわたしの関係の、具体的な一歩としてのWS?(与えられるものに限られることへの反発、「消費の場」としての日常生活) そこに「まちづくり」や行政参加の文脈に接続するとややこしくなるけれど、環境ー人間の構造の中ではまだ位置付けることができる?

・WSには、成果主義を保留にする側面もあるのかもしれない?

・ある意味では、わたしと環境の関係を問い直す、結び直す方法としての演劇というフレームは、70年代の民衆文化運動と同じようなことを言っているのかもしれないなぁ。言い方や力点は違うと思うけれど。

・「意識化」という言葉への違和感は、それが主体の認識論から出ていけない感じがするからかもしれない。もちろん最終的にはすべて認識論なんだけど、内的なものだけでなく、上演という行為(によって生まれる空間)が持つ、もう一つの現実への可能性にも大きな意味があると思っていて、それはWS論では十分に拾われていないと思う。維新派が見せるような、時間・空間・既存の論理を超えたもの、かつそれが既存の論理をゆさぶるようなものが、意識化とはまた別のレイヤーであるように思う。それは意識だけでなく、やはり空間が生産されていると思うのだ。

・与えるものと与えられるもののあいだの境界線を疑う、引き直すということは、公共空間論と演劇論で相似形をなしていたのかもしれない。制度・非制度の議論ともまた、重なってきそうだ。(イリイチも読まないとなぁ) 公共という言葉の意味のずれを模索していた黒テントの70年代半ばの活動もまた、このこととつながっている。
公共空間論かつこの意味の掛け違いを考えていくには、ハーバーマスにあたる必要がある。

・都市計画に対するまちづくりも、もともとは与えられるものから作り出すものへという構図の中で育まれてきたものだ。

・ただ近代化にともなう疎外化や抑圧への抵抗運動という70年代の視点と、今日描くものはどう異なるのだろうか。ある意味では黒テントはそうした問い直しをやっていた。しかし、続けることはできなかった。そのことをレビューする必要もある。70年代の思考の焼き直しにならないようにしなければいけない。

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