ほぼ毎日なにか書く 0610

3年か4年ぶりに、とある集まりで食事をした。江古田のまちで夕方落ち合い、お店をめぐって食材やそうでないものを調達しながらぶらぶら歩き、スープやスープでないものをつくって食べる。
数年前、これはアートプロジェクトの一環で行われていた。制作物をつくることもあったが、必ずしもすべての活動がものをつくることに収斂しているわけではなく、このようなスープの時間をもつこと自体がなかば存在そのものだった。

その頃自分は商店街でのインタビューをしていたり、そこで演劇に仕立てたりということをやっていた。生活や食べ物、その場の営みに興味を持っていた。まちに出て、会話をしながら食材を買い、誰かと一緒に食べることをやけに繰り返していたし、それは大事なことだ、と考えていた。商店街へのまなざしは、「生活は重要だ」という意識と裏表になっていたと思う。
今思うと自分は興奮していた。商店街という未知を紐解くことと、生活という既知を獲得していくことに。
それは、もっと早く・もっと多く・もっと価値あるものを求めて加速を強いられる日々をスロウダウンさせる装置になる、少なくともそういった方面のことを考えていく切り口になると思っていた。「この切り口は正当だ」とも思っていたかもしれない。

新しいものを生み出すよりも、失われたものに注目したいとも思っていた。日々、たくさんのものが消えていく。消えていくものを思う時間が十分にあるだろうか。なくなってしまったものを思う時間は誰かに決められるようものではない。だけど、そこには社会的な慣習があり、現実には手続きとして遂行される。詩が生まれる余裕がない。

郷愁があった。それは昔を振り返る郷愁ではなく、いまを懐かしむ郷愁だったのかもしれない。目の前のまちには、過去があるらしい。その過去を想像し、懐かしんでいた。懐かしむという行為は自分の知っている「生活」に像を結ぶ。なぜならそれしか知らないから。冒険をしているようで実は内省的。いや、内部を十分に掘り下げたわけではないから、内省的でもないのかもしれない。なにが懐かしいのか、なにに憧れているのか。なにを守りたいのか。わたしの受容のありようよりも、視線はまちに注がれていた。注がれ続けていた。

このスープの集まりでは、買い物をして、スープをつくって食べる。食べながら話をする。それはこのメンバーでなくてもできる、誰とでもできる。どのまちでもできる。多くの人が日々やっている。だけどウサギ狩りにおいて重要なのはウサギ自体ではなく「狩りたい」という欲望であるように、スープの会が催される背景とそこで体験されているものはまた別であるんだと思う。そう思うと、ただこの一連の活動を装置として売り出すことはできない。ピストルとウサギ肉ではなく、ウサギ狩りとして捉えるというか。

またこの行為がアートプロジェクトの一環で行われていたことは、作品だということでもある。作品をつくる機会があったから生まれた行為であり、毎日の献立を考えるのは出自が違う。食事の形式をとった「なにか」。
生活とは違うから、企画が終わると催されなくなった。
それは自分が生活そのものに興味があったということと、重なっているようで、実は違っていたということでもありそうだ。自分が追っていたのも生活の形式をとった「なにか」であった可能性もあるので、そうだとしたら重なるのだけど、その当時はあくまで「生活」を追っているつもりだったので、スープのこともそういう視線で見ていたのかもしれない。その視線とスープは少しずれているし、そもそも本物志向の視線ではアートの活動全般を捉えきることができない。
無意識にはたらいていたこの本物志向。これが瓦解したとき生活に対するロマンは剥ぎ取られ、つまらないものばかりに囲まれたように思ったが、それはまた別の話。

食事の形式を借りて行われるこの食事。それが今日は心地よかった。ウサギが仕留められたからではないし、ウサギ肉を食べられたからでもない。違う視点への想像力が働くからかなぁ、と思った。いろいろな話をしているが、多分、大事なことは話していない。でも、ないことにもしていない。こういう視点を持っているこの人ならこのことをどう考えるんだろう、と頭の中で考えている。関係あることを口に出すこともある。けれど、大事なことそのものがことばとして像を結ぶことはあまりない。それはまだ言葉にならない言葉に自分の意識がいっているということでもあるかもしれない。言葉にならない言葉をすくいあげるとき、一人では心細い。見えないものはないのでは?と早とちりしてしまうこともある。だけど、別の人の光と影を当てることで、何かあるかもしれないことに思い当たる。その光と影を味わう場、それがスープなのかもしれないと思った。少なくともいまは。

背景は人によってちがう。個々人でも違うけれど、経験や世代の違いも多分無関係ではない。背景を共有できる場合と難しい場合があるだろう。そもそもそれがどういう背景なのかつかむことも簡単でないかもしれない。
今もきっとつかめていない。だけど、距離感をもって当時の自分の状況を思い出すことができたし、それは他人とは違うことは明らかだった。
そして自分はどれだけ移動したのだろう、と。生活へのロマンはもうないし、何かに熱中すること自体が最近難しくなっている。商店街や地域に注ぐ視線も変わっている。冷めた視点をいくらか獲得した。

手放すことは重要だ。何を手にしていたのかがわかるから。だけど、それは心細いことでもある。空白の中にぽつんと一人で立っているような気もしてくる。そんなとき、食事の形式を借りたこのスープは互いをほんのりと照らしあうエアポケットになるのかもしれない。
そういうものをいま、自分は求めている。もしかすると4年前よりも。
そのあたりに、このスープを自分なりにどう受け取るかの鍵もある気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?