大西巨人『地獄変相奏鳴曲 第四楽章 』解説

 ※初出/講談社文芸文庫(2014/7/10)

 ここでは、ふたつのことを書いておきたいと思う。
                ●
 大西巨人が「太郎」と書くとき、まっさきに思い浮かぶのは、『神聖喜劇』の東堂太郎だろう。作家の代表作と見なされる巨篇の主人公という事実を抜きにしても、東堂太郎は抜群に印象深く、忘れがたいキャラクターだ。高度な論理力と超人的な記憶力をあわせ持ち、冷静沈着ながらも不正・不条理に黙っていられず熱くなる反骨の士でもあり、戦時下の閉鎖的環境(対馬要塞重砲兵聯隊)でさまざまに思いをめぐらせ探偵的に謎を解く博覧強記の英雄的人物というのが、東堂太郎の人物像だ。そうした(まさに超人的な《﹅﹅﹅﹅》)キャラクター造形が、この主人公をより印象深くさせているのは間違いない。
 つまり東堂太郎は、どちらかというと神話の登場人物《ヒーロー》に近い。村崎宗平や冬木照美などの重要な脇役たちが、ときに主人公を凌駕する言動をとることもあれば、対極関係にあるキャラクター大前田文七が、東堂を完全にやり込める展開も物語後半に用意されている。が、それでも東堂太郎の英雄的印象は少しも薄まることなく、『神聖喜劇』は幕を閉じる。
 大西巨人は、本書『地獄変相奏鳴曲』にも「太郎」を登場させている。第一楽章から第四楽章までの各話の主人公を務める、異姓同名の四人の男性キャラクターが、それに当たる。四人の「太郎」は、苗字や来歴などのプロフィールに一部異同があるものの、キャラクター造形の設定は同一人物かと見まがうくらいに一致している。さらにそこに、『神聖喜劇』の東堂太郎を仲間入りさせても、食い違いはさほど生じない。
 そのことから、『地獄変相奏鳴曲』と『神聖喜劇』の作品世界を地続きと仮定し、四人+一人の「太郎」を別人とは見なさずに両作を読み解く論考も存在する(山口直孝「大西巨人・連環体長篇小説考――『地獄変相奏鳴曲』・『神聖喜劇』における回帰の弁証法」)。それは必然的に生まれる視点であり、二作を読み解く上でまず必ず通過せねばならない議論の道筋ではあるだろう。が、右論考の書き手自身による「複数の作品世界の連続性を重視した本稿は、不連続性に充分留意できない弱点を抱えている」との表明が示唆してもいる通り、「不連続性」から両作を読み解くこともまた、決して避けては通れぬ道筋なのだ。
 本稿はその道を選ぶ。不可避のルートだからあえて、という消極的な選択ではない。おなじでありながらちがう《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》人物として、五人の「太郎」を別個の物語世界へ登場させたことにこそ《﹅﹅﹅﹅﹅》、大西巨人の画期的な創意があると見るのが、筆者の考えだからだ。
 同一人物かと見まがうくらいに設定が一致しているが、それでも「太郎」たちは異なる姓を与えられ、プロフィールにも若干のちがいを持たねばならなかった。なぜなのか。
 連環体長篇小説と銘打たれた『地獄変相奏鳴曲』を構成する四篇のうち三篇は、初出の段階では主人公名が「太郎」ではなく、各々に別名が付されていた。第一楽章初稿発表から単行本化までに四〇年もの歳月を費やした『地獄変相奏鳴曲』(一九八八年刊)は、架空の事典・辞書をもとにした引用文が加筆されるなど、一冊にまとめる上で入念な「更訂」が施されている。その際、各話の主人公名を統一したのは最後に発表された(一九八七年)最長の一篇たる第四楽章の主人公・志貴太郎の名に合わせるためだったと考えるのが、最も自然な見方ではある。
 ならば、そもそもなぜ、第四楽章の主人公名に「太郎」が採用されたのか。と同時に、既出三篇の主人公の改名にまで及ばねばならなかった具体的な理由が、さらにあるとすれば、それはどういうことなのか――そこには、やはり、本書出版の八年前に全巻刊行を果たした『神聖喜劇』が深く関与しているのではないかと考えられるのだ。
 結論からいえば(随所で先行テクストの参照性と反復性が強調される)『地獄変相奏鳴曲』は、『神聖喜劇』にたいする「自己批判・相互批判」として編まれている。少なくとも、『地獄変相奏鳴曲』が、『神聖喜劇』が持ち越すしかなかった問題(「『人間としての偸安と怯懦と卑屈と』にたいするいっそう本体的な把握、『一匹の犬』から『一個の人間』へ実践的な回生、……そのような物事のため全力的な精進の物語り」)を引き受けた、「別様の何か」であるのは間違いない。この解釈を前提に、以下に読解を進める。
 四人の「太郎」たちは言わば、神話的キャラクターたる東堂太郎を人間界へと引きずり下ろすために創造されている。同名を付された四人は、東堂に引けをとらぬ博覧強記と論理力をうかがわせはするものの、他を圧倒するほどの超人ぶり《﹅﹅﹅﹅》を発揮することはない。それどころか、事件解決において彼らの劇的な活躍《﹅﹅﹅﹅﹅》が特筆される機会はなく、目立つのはむしろ難儀な様子であり、目的達成に要する時間と忍耐だ。彼らは性急な解決をもとめず、二項対立状況のはざまで地道な活動を重ねつつ、あくまでも「細胞」の一員にとどまり、良くも悪くも《﹅﹅﹅﹅﹅﹅》(利己的《﹅﹅﹅》にも利他的《﹅﹅﹅》にも)人間的に《﹅﹅﹅﹅》振る舞うのである。
 たとえば第一楽章の税所太郎は、いっとき情縁にあった佐竹澄江を無下に捨て去ったばかりでなく、彼女の生命をないがしろにするほどの冷血漢として描かれている。しかしそのいっぽうで、「澄江を死なせ」てしまった自らを「人間性《ヒューマニティ》を侮蔑し裏切った」と省みる戦後の税所は、一二歳年下の香坂瑞枝「との間柄《あいだがら》が『知人』から『結婚を目的とする恋愛』へ移行しよう」とするに際し、瑞枝と愛を結び合うにふさわしい「資格のある人間」へとおのれを「変革」し「自己を形成しなければならぬ」と覚悟するのだ。ここに見るべきは、ひとつの存在に認められる「不連続性」であり、二面性(矛盾)であり、かつ「二重写し」の現象なのだが、それについてはのちにあらためて触れる。
 補充兵役入隊兵たる東堂のごとく、上下《﹅﹅》の権力関係に組み込まれているわけではない四人の「太郎」たちが直面するのは、支配構造が変わりゆく戦後民主《﹅﹅》社会の激動にほかならない。またそのなかでの、同僚や地元民や党友や家族という横《﹅》の人間関係において生ずる誤解や葛藤に、彼らはしばしば感情を揺さぶられる。たとえば四人のうち、第二楽章の新城太郎や第三楽章の大館太郎を「我慢がならな」い気分にさせたり、「苛《いら》立たしい、むしろなさけない気持ち」にさせたりするのは、組織内に巣くう「獅子身中の虫」なのだ。
 その、「獅子身中の虫」との衝突で「太郎」たちが指摘するのは、劇的な活躍《﹅﹅﹅﹅﹅》というヒロイズム自体が目的化されることへの危惧だ。それはときに、特攻隊的な「犠牲の容認」をも是とする安易な全体主義的組織論へと堕し、「長い、長い、長い、困難な、困難な、困難な、たたかい」のリアリティーを見誤らせ、運動の自壊という結果すら招きかねないからだと読みとれる。
 これらの事例が示すのは、『神聖喜劇』と『地獄変相奏鳴曲』の二作に「連続性」を認めた場合の、時代状況・政治環境の変化であり、そこから要請される闘争手段のちがいでもある。たとえば、後者に見られる長期戦《﹅﹅﹅》への積極的な心構えは、「生きるべきか死ぬべきか」の問いにさらされながら戦地に立つ(明日なき立場の)東堂太郎ひとりの物語からは、決して生まれ得なかったにちがいない。
 敗戦により、ひとまず戦前の支配体制が解体され、いちおうは新憲法に基づく民主《﹅﹅》国家に移行した日本でなおも革命の成就を希求し、さしあたっては部落解放と単独講和の阻止に向けて取り組まれる、『地獄変相奏鳴曲』の政治闘争。そうした闘争を物語る上で、作者・大西巨人が試みたのは、次のごとく徹底した、創作の実践だった。
 階級の撤廃と民主的共和制が正しく実現されるためには、一部キャラクターの帯びる特権性すら排除されねばならぬ《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》――とでもいうかのように、そこでは、東堂に集約される「太郎」の人物像《ヒロイズム》もまた解体されたのだ。もはや「太郎」は神話の冥界(地獄・煉獄・天国)にはおらず、世俗に染まりながら良くも悪くも《﹅﹅﹅﹅﹅﹅》(利己的《﹅﹅﹅》にも利他的《﹅﹅﹅》にも)人間的に《﹅﹅﹅﹅》振る舞い、矛盾(設定の異同)を生きている。ならばそれにより、なにが可能となったのか、さらに一歩踏み込んでみよう。
 個別の物語として複数化し(登場人物間の階級関係も解消されて)横並びとなったことにより、「太郎」たちのあいだにも「自己批判・相互批判」による創造的止揚の契機が生まれたのである。そしてこの、創作的民主化《﹅﹅﹅﹅﹅﹅》の流れから見出されたのは、万人が実行できると信じられる、より現実的で実践的な闘争形態なのだと言えるだろう。
 革命を遂げるための「長い、長い、長い、困難な、困難な、困難な、たたかい」においては、超人的《﹅﹅﹅》能力や英雄的《﹅﹅﹅》行動など、もとめられてはいない。「多数国民層が学生運動を支持して激励するとき、必ずやその圧力は、支配権力・文部官僚、その末端機構の学校当局・学生補導課を屈伏させるだろう」との認識が示唆してもいる通り、そこで真に必要とされているのは「一般の支持と共闘との力」にほかならないからだ。かような見通しが、「絶無ではないはず」であるかぎりにおいて、「せつない(祈るような)気持ち」ながらも「そういう条件、そんな可能性」が「存在してはいます」と大館太郎は「言い切」るのだ。
 以上の解釈を経て、第四楽章を読み解いてみると、一部キャラクターのみならず、ことによると大西巨人は、作者自身の特権性さえも取り除かれねばならぬ《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》とまで考えていたのではないか、と思えてくる。本書と異名同内容《﹅﹅﹅﹅﹅》(と思しき)連環体長篇小説『天門開闔交響曲』が登場する同篇は、その作者(主人公・志貴太郎)が著者インタビューに答える文芸誌の記事が挿入されたりもする、メタフィクションとして組み立てられている面もある。したがって、「連続性」と「非連続性」というふたつの道筋を有する「連環体」構造は、ここにきていっそう複雑に入り組むのだ。
 作者自身の特権性さえも取り除かれねばならぬ《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》という意図――それが、第四楽章で物語られた「『具体的(形而下的)な理由も抽象的(形而上的)な理由もない』自殺」という行為、あるいは「海水への投身と海中の解体消失《﹅﹅﹅﹅》」(傍点引用者)という「死の表象《イメージ》」の意味だったのではないか。第一楽章から第三楽章までの「太郎《ヒロイズム》」の解体劇を目の当たりにしてきた読者の目には、そんなもくろみが見てとれぬでもない。すなわち作者自身の「解体消失《﹅﹅﹅﹅》」こそが、第四楽章の狙いだったのではないか、というわけだ。
 しかし、本当にそうなのだろうか。『地獄変相奏鳴曲』の第四楽章が描き出そうとしていたのは、特権性の剥奪(という作者=王殺しの物語)に尽きているのだろうか。
 たしかに、そういう面はあるだろう。が、それはあくまで、連環体長篇小説たる本書に備わったひとつの面にすぎず、さらにもうひとつ、別の面が読みとれることも事実である。そしてこの、ひとつの存在に認められる「不連続性」であり、二面性(矛盾)であり、かつ「二重写し」の現象が、『地獄変相奏鳴曲』の構造的主題にほかならないのだ。
 「的」「性」等々の接尾辞、または、「あるいは」「ないし」等々の接続詞――それらを多用した、二律背反的な言明と並列的なレトリックは、大西巨人作品の文体的特徴だが、『地獄変相奏鳴曲』の作中に組み込まれると、その意義と効果が尚更に際立ってくる。
 本書所収のインタビューで、大西巨人は、作中で志貴太郎の思考にものぼる「『無神論的・唯物論的にして宗教的な』物の樹立が、まさしく現代および近未来における中心的な当為でなければならない」との理念が、「第四楽章の、ひいてまた『地獄変相奏鳴曲』全篇の、主要な問題提起の一つです」と述べている。ならばその、「『無神論的・唯物論的にして宗教的な』物の樹立」とは、いかなるものの達成なのか。「『無神論的・唯物論的にして宗教的な』物」が、仮に対極関係にある概念同士の「二重写し」の状態を指すのだとすれば、それはすなわち、二項対立状況の克服《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》=「解体消失《﹅﹅﹅﹅》」を意味していると考えるべきだろう。
 その意味では、本書には、要所要所に「二重写し」の仕掛けがほどこされている。それを裏づける細部は、ここでもすでにいくつか明らかにしているが、当の仕掛けの最たるものとして、志貴太郎と瑞枝による「娃重島情死行」の旅路がある。あの帰郷は、本当に(「理由のない自殺」としての)心中をおこなうための「道行き」だったのだろうか。そうでもあり《﹅﹅﹅﹅﹅﹅》、そうでもない《﹅﹅﹅﹅﹅﹅》、というのが筆者の考えだ。ならば、そうでもない《﹅﹅﹅﹅﹅﹅》のだとすれば、あれはいったいなんなのか。
 最後にもう一度、『神聖喜劇』を見てみよう。同作の始終は、渡海場面として描かれていたはずだ。また、本書第四楽章も同様に、渡海(への言及)で開幕し渡海(への言及)で閉幕する。そして閉幕時における両者のちがいを要約すると、こうなる。「この戦争を生き抜くべき」と結論した「太郎」が死地(戦場)にとどまるのが前者であり、死すべき必要も理由も持たぬ「太郎」が妻と「情死」を果たそうとするのが後者である。両者を「二重写し」として、生と死という二項対立状況の克服《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》=「解体消失《﹅﹅﹅﹅》」を試みるとすれば、あとに残るのはなにか。それは、婚姻関係にある「(相思相愛の)男女」による、旅だ。
 かくして、『地獄変相奏鳴曲』を恋愛小説ないしは結婚小説として読み終えるための準備は整った。いや、一度でも本書を読み通せば、これがストレートな恋愛小説ないしは結婚小説でもある《﹅﹅﹅﹅》ことに気づかされぬ読者はおるまい。「(相思相愛の)男女」たる、「太郎」と「瑞枝」の恋愛譚。それこそが、本書に認められるべき最大の「環」であり「連続性」なのだ。
 本書には「大西文芸で唯一の求婚の場面」があると書く山口直孝は、「描かれているのは、結婚前後からの約四年間と最後とだけである。三七年に及ぶ二人の歩みのほとんどは空白になっている。この措置は、共同生活のありようが結婚初期に固まり、以後はその持続・反復であったと理解されているからであろう」と指摘しているが、そうでもあり《﹅﹅﹅﹅﹅﹅》、そうでもない《﹅﹅﹅﹅﹅﹅》のだと、ここでは答えねばならない。
 急いで言い直そう。『地獄変相奏鳴曲』は、ストレートな恋愛小説ないしは新婚《﹅﹅》小説でもある《﹅﹅﹅﹅》ものとして、組み立てられている。だからこそ、「大西文芸で唯一の求婚の場面」が設けられているのであり、婚姻関係にある「(相思相愛の)男女」による旅――すなわち新婚旅行《﹅﹅﹅﹅》の過程が詳細に描かれているのだ。
 そう、ここではあの「情死行」を、「解体消失《﹅﹅﹅﹅》」の読解を経て、太郎と瑞枝の新婚旅行と解釈する。だからこそ、宿泊先でのほとんど新婚初夜のような性交の場面が用意されているのであり、「閨房のことは実に大切である」(斎藤茂吉)とか、「『いまだに夫婦の生活をいとなんで』云云を、私は、まったく不当と信じる」ことが強調されもするのである。
 ならばなぜ、本書最長の一篇たる第四楽章において、旅程の描出が主軸に据えられなければならなかったのだろうか。それについて、一個の答えを提出し、本稿の幕を閉じたいと思う。
 なぜ、旅なのだろうか。それは「人が人を見送る」、もしくは「見送られる」状況描写の変奏が、大西巨人作品における重要な主題のひとつだからだ(この問題をめぐり、筆者は光文社文庫版『神聖喜劇』第二巻の解説でも詳しく論じている)。たとえば第四楽章「二つの弔辞」においても、「私は、両親めいめいの死ぬとき、その場に居合わせたくない」と願っていたにもかかわらず、「実際においては、志貴は、両親どちらの死に目にも逢ったのであった」とある通り、志貴太郎が父親と母親の最期に際し、ふたりを個別に見送る場面が殊更に組み込まれているくらいだ。
 あるいは大西巨人は、「解体消失《﹅﹅﹅﹅》」へと向かう太郎と瑞枝を、読者に見送らせる《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》ために、ふたりの「道行き」をあのように丹念に物語ったのかもしれない。そんな(いささか感傷的な)解釈は、ゆきすぎた読解というものだろうか。いずれにせよ、作家本人の口から以前より予告されていた、四〇〇〇枚に及ぶ新作長篇『世紀送迎《﹅﹅》篇』(傍点引用者)では、いかなる「送迎」が演じられるはずだったのか――今となっては、まことに残念ながら、その具体像を見送る術は、われわれのもとにはない。

 註:本書の第一楽章と全体の構成について、『地獄篇三部作』(二〇〇七年刊)の「前書き」に、次の断わりがあることを付記しておかねばならない。「『白日の序曲』が本来の場所を占有した今日《こんにち》〜今日以後、私は、『地獄変相奏鳴曲』を解体し、『伝説の黄昏』、『犠牲の座標』ならびに『閉幕の思想』の三篇を各独立の小説とする」。
 すなわち現在、本書の第一楽章だった「白日の序曲」は、「本来の場所」たる『地獄篇三部作』に組み込まれ、第二部「無限地獄」として生まれ変わっている。それ以外の三篇は「独立の小説」となり、連環体長篇小説としての『地獄変相奏鳴曲』は「解体」されてしまった。作者のみならず、ついに作品総体さえも「解体消失《﹅﹅﹅﹅》」に至ったわけだが、ここに見られる大西巨人の恐るべき徹底性には、あらためて驚きを禁じ得ない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?