流血と清流――そして/あるいは失禁という「奇蹟」

※初出/『中上健次集〈7〉千年の愉楽、奇蹟』解説(2012/12/1)

 「路地」ではよく血が流れる。屋外でも屋内でも、男女の鮮血が流れまくっている。流れるのは血液にかぎらない。精液や愛液、涙や汗や唾といった体液のしたたり落ちる様にもしばしば出くわすし、ときにはそこに雨が降りしきるから衣が乾く暇もない。
 つまり「路地」とは、ひどく濡れやすい﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅場所であり、そこに住まう人々もまたしょっちゅうなんらかの液体にまみれている。盛り場ではアルコールが盛んに飲まれ、覚醒剤の水溶液を体内に注入したがる者も後を絶たぬため、アル中やシャブ中も珍しくはない。刃傷沙汰により返り血を浴びてしまい、助産所の釜で沸かしたお湯で汚れた身を洗う若者もいる。場所柄その姿は、新生児が産湯に浸かる光景と重なって見えてしまう。
 そもそも「路地」とは、大きな蓮池を埋め立てて造成された人工の土地だというのだから、湿り気﹅ ﹅ ﹅が多すぎるのは当然の特色なのかもしれない。あるいはそうした水分過多の異常﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅を、自然の報いや天罰の類いだととらえる見方も存在する。
 過度の濡れやすさに「路地」が見舞われているのは、かつて移住者らの足に踏みしだかれ、地下深くに追いやられた蓮池が、みずからを決して忘れさせまいと呪いでもかけた結果なのだろうか――などというような不合理な﹅ ﹅ ﹅ ﹅推測も、「路地」においてはまことしやかに囁かれる。さらに相次ぐ血みどろの惨劇が、囁かれる流言にいっそうの真実味を与えることにもなり、呪いへの恐れや疑心暗鬼の拡散に拍車をかけてしまう。
 この不合理な推測――すなわち悲運の因果関係をめぐる諸々の物語こそが、「路地」という地域社会コ ミ ュ ニ テ ィ ーを四方から取り囲んでいる。因果関係の真偽はだれにも突き止められない。「路地」を取り巻く現実の外側に立ち、そこにおさまる世界を一望に俯瞰してみなければ、真実を見極めることはできない。それが可能な人間は世界の内側にはいない。
 真実を見極められない以上、「路地」に生きる男女はなおも果てしなく悲運の因果関係を妄想し、呪いに怯えるしかない。蓮池の呪い﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅など絶対にあり得ないと言い切れる根拠を持たなければ、物語の呪縛は解けず、人々はどこまでも原罪の意識﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅にさいなまれつづけるだろう。諸々の物語は大抵の場合、噂話や説話や旧習の形を借りて蔓延するため、コミュニティーに根づくのに時間もかからない。
 かくして「路地」の住人たちは、物語=因習のシステムへの屈従を宿命づけられてしまう。これが連作短篇集『千年の愉楽』と長篇小説『奇蹟』の二作品から見えてくる、「路地」というフィクションの現実=ゲームの規則である。
 もっと具体的に話を進めてゆこう。
 まず、「路地」とはいかなる場なのかをここで再確認しておきたい。『千年の愉楽』第二篇の「六道の辻」において、それは次のように説かれている。

  路地はオリュウノオバが耳にしただけでも何百年もの昔から、今も昔も市内を大きく
 立ち割る形で臥している蛇とも龍とも見えるという山を背にして、そこがまるでこの狭
 い城下町に出来たもう一つの国のように、他所との境界は仕切られて来た。

 それ自体がウロボロスを彷彿とさせぬでもない文章により示されているのは、「路地」と呼ばれる共同体の隔離性﹅ ﹅ ﹅である。
 隔離区域の可視化たる「他所との境界」が、外圧により「仕切られて来た」ことは明らかだ。作品上では右の引用箇所の直前で語られる、オリュウノオバによる「子供の時代」の回顧がそれを裏づけている。「路地の裏山」の頂上には「小さなほこら」があり、「そこに柵が設けられ門が取りつけられてあった」のだとオリュウノオバは記憶している。その「門」の使い道とはどんなものだったのか。一時期「路地」を離れていたことのある「さして齡も行っていないアニ」に向け、オリュウノオバはこんなふうに説き明かしている。

 […]普段の時は日暮れると路地と町の行き交を閉ざすように門が閉められ、正月になる
 と松の内が終るまでは城下町には入ってはならないと閉められたままだし、町に入った
 者が居たなら棒を持った町の者らに追いかけ廻されたと教えてやった。

 つまり「路地」は、単に「仕切られて来た」ばかりでなく、近隣集落民のあからさまな物理的強制力により隔離を強いられていたことが、ここでは打ち明けられている。
 ならば「路地」が、かくも無情な処遇を受けるに至ったのはなぜなのか。『千年の愉楽』と『奇蹟』の読者は、二作品の全体に通底する作品世界フ ィ ク シ ョ ン現実ルールを注意深く追うことにより、いくつかの答えらしきものを見出すだろう。
 その答えらしきもののひとつとして、本稿では、「路地」の開拓者らによる蓮池への蹂躙﹅ ﹅を原因とする俗説に注目する。『千年の愉楽』と『奇蹟』の作中人物たちの大半は、蓮池の埋め立て地であることが、良くも悪くも「路地」に特殊性﹅ ﹅ ﹅を与えてしまっていると理解しているからだ。
 しかしそのことが、二作品において必ずしも常に不吉に見られているわけではない。少なくとも、『千年の愉楽』第四篇「天人五衰」に登場する、オリエントの康は異なる考え方を持っていたようだ。

 オリエントの康が言いたかったのは路地の者らが戦争があったにもかかわらず増えつづ
 けたあげく、蓮池をうめたてさながら蓮の花の園を足の下に敷くように路地が拡大しつ
 づけているという事だったと後になって気づいた。その時は路地の誰もが石をひろって
 「ここは蓮池じゃった」というオリエントの康の言葉を復員ボケしての事だと嘲った。オ
 リュウノオバもそうだったが、ただ一人礼如さんだけは蓮の花の園を足元に敷いている
 とは極楽浄土にも等しいところだと取った。それを考えても礼如さんは偉い方だった。

 さらに「天人五衰」の終盤、「突然一番の手下だった譲治」にピストルで撃たれながらも一命をとりとめた直後、熱に浮かされ「痛みが体中をしびれさせている」状態にあったオリエントの康は、「また空想癖が出たようにここは蓮池の上に出来た土地で、どこかで眠る人間の一瞬の夢のようなところだと花恵に向かって言って」いる――この「胡蝶の夢」的な認識は、『奇蹟』終局間近のトモノオジへと受け継がれているのだが、それについてはあらためて後に触れる。
 『千年の愉楽』では「蓮の花の園を足元に敷いているとは極楽浄土にも等しいところ」だと称えられてさえいたというのに、そうした見方も『奇蹟』においてはいつしか様変わりしてしまう。『奇蹟』の主人公に位置づけられている作中人物タイチは、前半部の場面ではたとえばこんな感慨をおぼえていた。

 […]小高い山の中腹からのぞける路地の道も傾きかかった杉皮の屋根も一様に光り、到
 底そこには痛みや苦痛なぞは入り込む余地なぞないように明るく楽しげに見える。
  タイチは路地が蓮池を埋めたてた跡地だったというのは、この事を言うのだと思った。

 これは先の引用の、オリエントの康/礼如さんの述べる「極楽浄土」のイメージに近い。
 しかしこの直後、ほんの一頁後というまさに舌の根の乾かぬうちに、『奇蹟』の文章は次のごとく蓮池にまつわるネガティブなイメージを綴ってゆく。

 […]禍事が次々起こるのは、元々は大きかった蓮池を満たしたほどの清水を二ヵ所、東
 の井戸、西の井戸と呼んで今に残しているものを、見た目も汚らしい脂や血のついた臓
 物で洗い穢したからだと言い出す。

 これ以外の箇所でも、蓮池との関わりは、悲運の元凶と見なされて決まり文句のように幾度も語られている。作品後半、「路地の三朋輩、中本の四朋輩の後に続くワル」のひとりであるヨシカズの謎の縊死(若い衆の自殺という悲劇自体、「路地」ではすでに何度も反復される物語上の約束事プ ロ グ ラ ムと化している)が伝えられる場面では、「土砂で埋め込まれた蓮池そのものがたたったのだ」という「誰の口からともなく」出た指摘に、「路地」住人の「誰もがうなずい」てすらいるし、祈禱師にまでこんなふうに断じられてしまう始末だ。

 拝み念じ声を張り上げて祈禱師は、清水に湧いた蛇も災禍も清らかな花の咲く蓮池を潰
 し埋め立てて路地をつくったせいだし、その蓮池に注いでいた幾つもの清水を無造作に
 石で塞ぎ土で固めたせいだと言い出し、路地に唯一つ残った清水にぬさを飾り榊を捧げ、
 水を清め積もった穢れを祓うお祓いをやりはじめた。

 このように、「誰も」がことあるごとに蓮池との因果関係を問題視する。あのオリュウノオバとて例外ではない――たとえ「路地の隅から隅まで、路地がつくり上げられていく過程から未来の消滅までを知りつくしている老婆」(『千年の愉楽』第六篇「カンナカムイの翼」)であろうとも、彼女もまた悲運の因果関係に囚われた、物語より脱け出せぬ作中人物のひとりであることに変わりはない。

  オリュウノオバは礼如さんを腕に抱え、なおからかい笑いさんざめく野卑な若い衆や
 ひ若い衆に取り囲まれながら、若い衆やタイチの唇から飛び出すその言葉が、蓮池を埋
 め立てて広がった路地、知らずに蓮華の花を踏みしだいているような蓮華の台にいる事
 の証なのだと分かっていた。

 これらの引用箇所は、蓮池に対し二通りの蹂躙があった(と「路地」の住人たちが考えている)ことを、明らかにしている。ひとつ目は、かつての蓮池に満ちていた清水に由来する井戸水を「見た目も汚らしい脂や血のついた臓物で洗い穢した」ことであり、ふたつ目は、「知らずに蓮華の花を踏みしだいている」ことだ。
 ちなみに井戸水を「穢した」当事者は、先の引用箇所では「他所から流れて来て飴屋の隣の納屋に住みついたイチロウ夫婦」と限定されてはいる――だが、「脂や血のついた臓物で洗い穢」す行為そのものは、「路地」では往時よりくりかえされてきた日常の業務なのだ。
 『奇蹟』によると、もともとはそこは「人に見棄てられた蓮池だった」とされている。それが「小高い山裾の、春になれば蓮華の花の咲き誇る清水の湧き出す池のほとりに人が棲みつき、人が増える毎に蓮池を埋め立てて今にいたった」のが、「路地」の成り立ちなのだと語られている。
 つまり蓮池は、まるごといっぺんに埋め立てられたのではなく、住人の増加にともない段階を踏んで整地されていったのだ。そのことは即、蓮池に対する蹂躙という原罪意識﹅ ﹅ ﹅ ﹅もまた段階的に深まっていったものであり、住民間でも濃淡があるのではないかという推測につながる。実際、「路地」の内部においてさえ「他所との境界は仕切られて」しまうのであり、隔離の同調圧力は確実に機能しているからだ。

 […]山の裾野に小屋掛けし、蓮池を徐々に埋めて出来た路地の共同井戸の東側と西側に
 あるささいなこだわりをあげたてる。
  共同井戸の東側に位置した一統の者らは蓮池の埋め立て地に住んだ者らに冷淡だった
 し、意地が悪かった。

 隔離の同調圧力がいったん始動してしまえば、事態はひとりでに深化し拡大してゆくばかりだ。そうなってしまえば、悲運の発端となったもの――すなわち蓮池への蹂躙という原罪意識をいちいち呼び起こす必要すらない。

 […]西の井戸の大下の若衆が、蓮池の消えた今、路地の日々の暮らしの中にある微かな
 差異をほじくり出すように、東だ、西だと言い立てるのを耳にして[…]

 かくして「路地」の現実ルールは、苛酷なプログラムの支配を強めてゆく。たとえ原罪意識もなにも持たずとも、「日々の暮らしの中にある微かな差異をほじくり出すように」コミュニティー自体が絶えず物語=対立点を産出してしまうため、二重に厄介な状況が生まれている。そこではさらにまた、血にまみれた宿命の劇がくりひろげられることになるだろう。
 ならばその、苛酷なプログラムを強いている主体とはだれなのか――「路地」の人々は、自分たちが蓮池を蹂躙することにより、いったいだれの機嫌を損ねてしまったと考えているのか。それは「ホトキさん」にほかならないと、『奇蹟』の読者はただちに勘づくにちがいない。

  トモノオジは[…]三朋輩の一人まで突然居なくなったのは、路地が元は蓮池だった事
 を不愉快に思う仏のとてつもなく邪悪な意志による気がして、心の中でオリュウノオバ
 と礼如さんに「オバら、お経いくら上げてもあくかい」と言ってみる。

 すなわち「蓮華の花の咲き誇る清水」を「脂や血のついた臓物で洗い穢した」のみならず、「極楽浄土」たる「清らかな花の咲く蓮池を潰し埋め立て」たことを「不愉快に思う仏のとてつもなく邪悪な意志﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅」(傍点引用者)こそが、「路地」に血の雨を降らせている――「路地の三朋輩」のひとりたるトモノオジの直感を踏まえれば、因習の物語はとりあえずこのようにまとまる。
 こうした因果の妄想が、「路地」における罪と罰﹅ ﹅ ﹅の物語=因習のシステムを完成させてしまうことは、もはや言うまでもあるまい。完成されたシステムは、あたかも本当に﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅この世がプログラムに支配されているかのごとく人々に思い込ませ、物語の外へと向かう想像を遮断し、「路地」をぐるりと取り囲む障壁となって脱獄を阻む。
 非運の因果関係に囚われてはいても、そこから脱け出せぬことそれ自体は自覚しているオリュウノオバは、『千年の愉楽』「カンナカムイの翼」の時点ですでに、完成されたシステムの高度な堅牢性に直面して嘆息を漏らしている。単なる書き物の「物語なら話の筋が進みすぎたからと筆休め、口休めとして閑話休題いかようにでも休憩を入れる事が出来る」ものの、この作品世界=「路地」を取り巻く現実ルールはまるで事情が異なるのだと指摘し、オリュウノオバはただ泣き沈むしかない。

 […]空の彼方の仏の国でつくられた﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅物語は違うのだ、とオリュウノオバは涙を流し溜息をつきながら思う。(傍点引用者)

 しかし想像を遮断し、脱獄を阻んではいても、反逆者の出現を抑えきることまではできない。 あるいは『千年の愉楽』と『奇蹟』の二作品は、血にまみれた宿命の劇が、作品世界の現実ル ー ルを突き破る「奇蹟」へと転ずる歴史を描いていたとも読みとれるわけだが――ならばその反逆ブレークスルーは、どのようになされ、最後にはどういった結末に至ったのだろうか。
                     ●
 「路地」の内部においてさえ「他所との境界は仕切られて」しまうように、その住人のあいだでも、特に苛酷なプログラムを強いられている者たちがいる。それがオリエントの康ら『千年の愉楽』各篇の主人公格、または『奇蹟』のタイチやイクオやカツやシンゴら四朋輩、そしてオリュウノオバの夫で毛坊主の礼如さんなどが属する「中本の一統」である。
 『千年の愉楽』と『奇蹟』の二作品により描き出される「中本の一統」とは、「路地」の悲運を一身に背負わされているかのような血縁集団だ。その由緒も、「路地の土地が人に見棄てられた蓮池だった頃からある」とされていて、「路地の東側に一等古くから住んだ」血筋の者たちだと言われている。「若死にを宿命づけられている」との物言いがまんざら大袈裟とも思えぬくらいに、二作品に取り上げられる同族の男衆は次々に夭逝してしまう。そうした悲劇的な逸話が、二作品の全篇を通して徐々に紐解かれてゆくわけだが、そこで主に強調されているのは当の血族の「血」に込められた意味だ。
 『千年の愉楽』第一篇「半蔵の鳥」の導入部で、いきなり「中本の血がよどみ腐っている」と言い表わされたのを皮切りに、その「血」が尋常ならざるものである(と人々に考えられている)ことがさまざまに形容されてゆく――それらすべてを集約すれば、『千年の愉楽』「六道の辻」における次の箇所の説明とほぼ一致するだろう。

 路地の二、三の者が言うようにその目と鼻の先に城をかまえた丹鶴姫らの加勢で屋島の
 合戦に源氏に打ち負かされた者らの血なのかもしれない、路地の中でも中本は歌舞音曲
 で日夜をついやして来た者らの血の澱みそのままに、汗して働いて飯を食う考えにうと
 く、世の中に取って食おうとする者らがいないというように腹に力が入らずそれで何を
 しても途中で嫌気がさし、食うものに事かくありさまでも浮かれて遊び酒を飲んでいた
 いし、女の脂粉のにおいの中につかっていたい。ただそう考えてもオリュウノオバはそ
 れが中本の一統がきまって早死にし病弱だという事の充分な理由ではない事を知ってい
 た。それなら七代ほど前か十代ほど前にか罰当り者がいて孕んだ獣の腹を裂いたからだ
 とか、それがたまたま御釈迦様の化身だった事も気づかず水をくれと立ちよった者を酷
 く追い払ったからだと因果を言った方が中本の一統の者には分かりはよいだろうが、そ
 う言ったとしても今、現にまた若衆が一人、自分の内に流れるその澱んだ、いやそれゆえ
 に浄らかな血によって徐々に亡びていくのを止める事も出来ない。

 ここで注目しておきたいのは、「それなら七代ほど前か十代ほど前にか罰当り者がいて孕んだ獣の腹を裂いたからだとか、それがたまたま御釈迦様の化身だった事も気づかず水をくれと立ちよった者を酷く追い払ったからだと因果を言った方が中本の一統の者には分かりはよいだろうが﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅」という箇所だ。
 この一節が意味しているのは、オリュウノオバや「中本の一統の者」は、自分たちが囚われている諸々の「因果」が、もはや単なるお決まりの常套句でしかない﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅のだと理解しているらしいことだ――「分かりはよいだろうが」などとわざわざ断わりが入っているのは、どの「因果」も所詮は悲運に見舞われた「中本の一統の者」の心を収めるための、得心の回路にすぎないことを示す意図とも読みとれる。
 しかしだとすれば、じつのところこれは相当に深刻な事態ではある。当事者がその内容を信じていようがいまいが関係なしに、「因果」の影響力はおのずと発揮されるということを端的に物語ってしまうからだ。
 事実だからこそ、「そう言ったとしても今、現にまた若衆が一人、自分の内に流れるその澱んだ、いやそれゆえに浄らかな血によって徐々に亡びていくのを止める事も出来ない」と述べられることになる。つまり物語=因習のシステムは自律的に﹅ ﹅ ﹅ ﹅機能し、苛酷なプログラムを容赦なく作動させているのだ――などと、作品世界を見下ろす読者でさえも危うく思い込まされそうになるわけだが、当事者たる「中本の一統の者」は、そんなものにいつまで翻弄されねばならないのだろうか。「六道の辻」のオリュウノオバはこう考えている。

  亡びる者は亡び増え続ける者は増え続けるというのが仏様の慈悲だというのなら、男
 らが何人も早死にしている中本の一統が緩慢な眼にしかと見えない速さで一統の血が根
 絶やしになろうとしているのならそれもこの世をおおう大きな者の力の慈悲だろうが、
 小さな仏様が何のせいか亡びてゆく血を持って生れて来たのかと思うとどう手のほどこ
 しようもないのに、あわれでしようがなかった。

 『千年の愉楽』と『奇蹟』の二作品を読み通せば、たしかに「中本の一統の者」は、「根絶やし」にされようとしているかに見える――しかもそのやり方は、かくも残忍極まりないものだ。

 半蔵は二十五のその歳でいきなり絶頂で幕が引かれるように、女に手を出してそれを怨
 んだ男に背後から刺され、炎のように血を吹き出しながら走って路地のとば口まで来て、
 血のほとんど出てしまったために体が半分ほど縮み、これが輝くほどの男振りの半蔵か
 と疑うほど醜く見える姿でまだ小さい子を二人残してこと切れた。

 これは「半蔵の鳥」における半蔵の最期だが、「六道の辻」の三好と「天狗の松」の文彦は縊死を遂げ、「天人五衰」のオリエントの康は二度の銃撃を受けたあとに渡ったブェノスアイレスで「革命運動に巻き込まれ行方不明になりたぶん死んだだろう」と伝える手紙が披露され、第五篇「ラプラタ綺譚」の新一郎は水銀による服毒自殺を図り、「カンナカムイの翼」の達男は刺殺されたことを窺わせる血まみれの変身譚が報告される。
 この通り、物語によりプログラム化されてしまった「中本の一統」の「根絶やし」。
 これが『奇蹟』に至ると、『千年の愉楽』第一篇、第二篇(不倫相手の亭主を「押し込み強盗を装って」刺殺した三好は「おびただしく返り血をあびている」)、第四篇、第六篇における流血劇それ自体までもがプログラムに組み込まれたとでもいうかのように、作品世界全体が一気に血なまぐさくなってしまう。血みどろの惨劇は、作品の導入部で早々に、次のごとく開幕が告げられている。

 精神病院の職員に見とがめられなかったら、湾一面が真紅に変わる頃まで、そのままの
 姿でトモノオジはいるのだった。巨大な魚は路地の何人もの者がそうだったように、体
 中の血を吐き出し呻いているのだった。

 「巨大な魚」自体はトモノオジの幻覚だが、「路地の何人もの者がそうだったように、体中の血を吐き出し呻いている」というのは過去にあった諸事の想起にちがいない。「炎のように血を吹き出し」た果てに絶命した半蔵はもちろん、二度も拳銃で撃たれたオリエントの康や刺撃による致命傷を受けた達男らの流血劇は、やはり「空の彼方の仏の国でつくられた物語」のプログラムに組み込まれ、『奇蹟』において再起動したのだと理解せざるを得ない。
 ならば「仏のとてつもなく邪悪な意志」とやらが、『奇蹟』の作品世界をどれほど血塗られたものにしているのか。その事例を以下にざっと列挙してみよう(傍点はすべて引用者)。
 タイチはすでに八歳にして「カドタのマサルの相談役の十五になる息子をナイフで襲い、顔面を斬りつけ」る事件を起こしているのだが、その直後に「体中に血をつけて﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅」トモノオジの前にあらわれている。
 その二年後、タイチ十歳の年、「路地の三朋輩として並び称されたオオワシとも隼とも呼ばれたヒデ」が「カドタのマサルの若い衆に刺されて死ん」でしまう事件が発生する。するとただちに「三朋輩」のひとりたるイバラの留が仇討ちに走り、カドタのマサルには逃げられてしまうものの、相談役の浜五郎ともうひとりをダンスホールで仕留めたあと、フロアにいるカドタ組の若い衆らに向かって「『われら、よう聴け。いつでもカドタのマサルの魂、取ったる』と血しぶきを体に浴びて﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅どなる」という行動をとっている。遅れてそこへやってきたトモノオジの目の前には、「イバラの留やスガタニのトシと同じように返り血を浴びた﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅タイチ、イクオが顔を出し」てもいる。
 さらに五年後、十五歳になったタイチは「裏切り者」を刺し殺す。「ヒガシのキーやんの陰謀」により、相次いで逮捕されたシャモのトモキことトモノオジ、イバラの留、スガタニのトシの三人。その報復として、「ヒガシのキーやんの手下の若衆頭を張る男」を小刀で何度も斬りつけた末、「肩から下腹に向けて一文字に斬り裂い」てとどめを刺したタイチは、「返り血を浴び血だらけ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅」になる。
 そして四ヵ月ほどのち、潜伏中のイバラの留とスガタニのトシを警察に売った疑いのある草履屋を訪ねたタイチは、そこで疑惑が確信に変わり、即座に仕返しに打って出る。先に相手に千枚通しで「不覚にも左腕を突き抜かれ」るが、それをすぐさま奪取して二度の刺撃のあとに「正確に心臓を突き刺し」て草履屋を殺害する。このときタイチは、「傷をおさえた手が流れ出続ける血﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅でぬらぬらと温かいのに気づき」、そのまま出血がとまらず死の予感さえ抱く。
 タイチ十八歳の年には、今度は弟のミツルが拳銃で「ヒガシのキーの頭を撃ち抜い」て即死させてしまい、「『花火みたいにパーッと血ィ吹き出た﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ど』とまだ幼い口調」でオリュウノオバに向かって打ち明けてみせる。この事件を受けて、トモノオジに調停役を依頼しにきた「佐倉の番頭」ことイバラの留は、「兄と弟、親と子、朋輩同士、裏切り合い、殺し合う時代になってしまったのだ」と口にする。
 それを裏づけるかのように、タイチ二十四歳の年、「路地」の内紛が起こる。タイチがはじめた宝籤への不満が内輪揉めの火種となり、「路地の共同井戸の東側と西側にあるささいなこだわり」が爆発して乱闘へと発展し、「たちまち大下、池口の若衆がミツル、シンゴに叩きのめされ、蹴り上げられ」てしまう。その挙げ句、「鼻血を吹き出し瞼を切って血だらけ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅になって倒れ、ただ大下の若衆は次の攻撃を避けようと顔の上に手をかかげている」しかなくなる。
 そのことで怨みを買ったタイチは、ほどなくして「朝まだき、町から裏山についた新道のとば口」で「大下の若衆にドスで刺され」てしまう。致命傷には及ばず早速に反撃に移ろうとするタイチだったが、「今は追いかけて大下の一統の若衆を刺すより、一撃を受けて血の吹き出る﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅傷の手当をする事だと思い至って留ま」る。
 これ以降も、「トモノオジの子のサトシという十三のひ若い衆は同じ頭寸の連のひ若い衆二人と祭りの装束のまま血だらけ﹅ ﹅ ﹅ ﹅になって」しまうし、作品終盤でも、激昂したタイチが「血の流れる﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅顔を両手でおおいうずくまる若衆の頭を足で蹴り、踏みつけ、森永のカフェのフロアに顔をこすりつけ」ている。そのときは、「床に力まかせにこすりつけられる鼻からも唇からも血が流れているので﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅あたりに血が飛び﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅、居合わせる朋友会の若衆らも眼をそむけるしかない」ほどのむごたらしいありさまを呈している。
 この通り、『奇蹟』においては明らかに流血劇がプログラム化されているわけだが、「中本の一統」が強いられている「根絶やし」の形にもはっきりと、それが反映されている。
 そのことが、とりわけ明白に示されるのは、タイチ、イクオ、カツ、シンゴの四朋輩がまだ「ひ若い衆の頃」に「ヒロポンを四人で射ち合」う場面においてである。「中本の四朋輩」は、自分たちの身に血友病のような止血機能の低下が認められることを、オリュウノオバに対し告白するのだ。

  オリュウノオバは次々と腕をまくり、注射針の痕をさらし、容易に塞がらないという
 針痕から血をしぼってみせる四人の不思議さに驚きながら、とぼしたほの昏い灯の下で
 もその血がまた鉱物のような輝きを放ち、眩く人を魅きつけるのを見逃さなかった。

 当時まだ九歳のタイチはこのとき、「俺ら、血が止まらんの」と「誇らしい事のように」オリュウノオバに向かって言ってみせるのだが、その口振りは、十五歳の年に左腕へ千枚通しの刺撃を受けた際には、一転して悲観的なものに様変わりしている。

 オリュウノオバが意外なタイチの物言いに驚いて見つめ直すと、タイチは千枚通しで刺
 された腕を見ろとオリュウノオバの前で体をねじり、「ひとつも血、止まらん。ぽたぽた
 漏れとるんじゃ」と言い、それがオリュウノオバに問いたかった本当の事だと言うよう
 に、「俺、一人前の極道になれるまで生きとるんかいね?」と問いかける。

 オリュウノオバは「怒ったふうに作り声を出して」発破をかけるが、それでもタイチは「そうやけど、血、止まらんわだ」などと応じて調子を変えない。なおも悲観を捨てる様子のないタイチは、その後間もなくにおなじ質問を重ねてすらいる。
 つまり「中本の一統」は、単に「若死に」や「根絶やし」を宿命づけられているのではない。『奇蹟』におけるタイチら「中本の四朋輩」は、その「高貴にして澱んだ血」の強制排出さえもプログラムに組み込まれてしまっているのだ。
 それがまぎれもない事実であるかのごとく思わせるのは、イクオの死をめぐるくだりだ。外傷はなく表面的には出血をともなわぬ縊死を遂げたはずのイクオもまた、ささやかながら強く印象に残る流血劇を演じてしまっていることに、読者は愕然とせずにはいられない。女親のフサと妹のミエがイクオの遺体に話しかける場面の直後、このような展開が描かれている。

  その二人に何の答えもなかったイクオの死顔から、タイチが朋友会の連と駆けつけ「ア
 ニ」と声を掛けると、まるで物言うようにたらたらと一条の血が流れ出して来たのだっ
 た。[…]皆なが皆な、仰向けに寝かされたイクオの左の鼻から流れ出し頬を伝って耳元
 に落ちかかる輝くように赤い血を見て何が起こるのかと息を詰め、耳元に滴となって落
 ち切ったきりなのを見て、[…]中本の七代に渡る仏の罪のせいで今、若さの盛りで命を
 絶たれたのだと得心したのだった。
  イクオの左の鼻の穴から耳元に流れ落ちた血の跡をタイチは朋友会の連の一人が持っ
 ていた絹のハンカチで拭い[…]「イクオノアニ。この血の着いたハンカチ、一生、オレ
 が持っといたるど」と言い、涙でくもり手元が狂うのに苦心しながら丁寧に四つに折り
 たたみ、胸の内ポケットに納い込む。

 これら血塗られた悲運の出来事が、「仏のとてつもなく邪悪な意志」による所業だというのなら、「中本の一統」は過去にいったいどれほどのことを仕出かし、「ホトキさん」を「不愉快に思」わせてしまったのだろうか。なにしろ、「天空から眼を皿のようにして落度がないか仏様にこと細かに見つめられ、髪の毛ほどの落度があろうものなら仏罰を投げつけられる中本の血」とまで言われているのだから、よほどの不始末を働いてしまったのだろうと推測される。
 しかし作中からそれを探ってみても、例によって次のような「分かりはよいだろう﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅」とひと言挟まざるを得ない常套句に行き当たるばかりだ。

  誰が言いだしたのか、誰が最初に気づいたのか、それとも蓮池に湧き出る清水で屠殺
 した獣の血を洗い皮をはいで口に糊した何人かの中本の者らが獣の生命に畏れつくり出
 した事なのか、中本の若い衆らは若死にを宿命づけられていると言われ、実際、若さの盛
 りで死んだのだった。

 これ以外の因果を、「路地」を取り囲む堅牢なシステムの壁は決して想像させない――別の言い方をすれば、こんなにも短絡的にすぎる因果=空虚な物語のために、「中本の一統の者」は長らく何人もが若くして犠牲になってきている(と考えられている)わけだ。そのことに、読者の側もまたたちまち暗澹たる気持ちにさせられてしまう。
 仮に蓮池と屠殺をめぐる逸話が史実だったとしても、そもそもは生活の糧を得るなかで生まれた至極まっとうな罪悪感や畏怖のような感情だったはずが、なにゆえ「ホトキさん」に「一統」の「根絶やし」をもくろまれるほどの原因となってしまうのか。「何で中本だけ、早よ死ぬんなよ?」と、タイチでなくとも問いつめずにはいられなくなってくる。
 かくして『奇蹟』という作品は、物語=因習のシステムに対する強い反発を煽り、「中本の一統」の動向を追ってきた読者をも、やがて義憤へと駆り立ててゆくだろう。
 しかしながら、十五歳のときに「血、止まらんわだ」と懸念するタイチその人は、「若死に」という「中本の一統の暗い宿命」にすっかり囚われて、「空の彼方の仏の国でつくられた物語」をたやすく受け入れてしまうのだ。

  清水の湧き出る蓮池だった頃、牛馬の皮を剥ぎ血を洗ったので、溝から溢れた雨水が
 今、青白く明るいのか。きつく巻かなければ体の全部の血が流れ出してしまう中本の一
 統のタイチの罪は、仏の楽土の蓮池を獣の血で穢したからか。
 […]
  その日を境に、何をどう思ったのか、タイチは自分の若死にの齢を十八と自分で決め
 たのだった。

 そのタイチは、九歳にしてオリュウノオバに「中本七代にわたる仏の因果を最後に果たす若い衆になるかもしれない」と目され、二十四歳の年にも「生命の盛りの時に宿命に抗い神仏の与える因果に挑みかかる輝きを読み取」られてもいる。
 そしてさらに、「オリュウノオバもトモノオジも路地の千年に渡る痛苦をタイチこそ癒してくれると確信」するのだが、実際のところ、作中でそれはどのような結果に至ったのだろうか――結論から言えば、その予想は半分は当たっていて、半分ははずれていると言わなければならない。
                     ●
 たとえタイチが、「生命の盛りの時に宿命に抗い神仏の与える因果に挑みかかる輝き」を備えているのだとしても、反逆を確実に実行し得るとはかぎらない。それが意志的な行為である以上は、タイチによる大逆﹅ ﹅の計画はただちに御上﹅ ﹅に嗅ぎつけられ、未遂に終わるほかないだろう。なぜか。タイチ十五歳の年、「中本の血の四人の若衆」が発揮した「何もかも神仏のように読み解く」という勘の良さに対するオリュウノオバのこの指摘を、読者は忘れてはならない。

  シャモのトモキといいイバラの留といい、いずれも路地の血に変わりないが、中本の﹅ ﹅ ﹅血の若衆のように神仏の意志で動く﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅のではないので、一つ二つ飲み込みが悪い。(傍点引用者)

 さらにその九年後、オリュウノオバは二十四歳のタイチを指して「待ち望んでいた仏の子」などと、いささか興奮気味に称している。

  仏の子は路地の何も彼にも変える。仏の子に降りそそぐ日の光は一本だに肌を痛く刺
 し貫く針でないものはなかったし、天の甘露の雨も、夏芙蓉の花の匂いを伝える風も、タ
 イチには苦痛でなかろうはずはないが、二十四のタイチは痛苦を痛苦と思わず、一切合
 財が愉楽だというように路地に現れる。

 これらがなにを意味しているのか、もはや明らかだろう。タイチが「神仏の意志で動く」「仏の子」なのだとすれば、その思わくは常に即、まるごと天に筒抜け﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅になっているにちがいないのだ。それが意志的な﹅ ﹅ ﹅ ﹅行為である以上は、タイチの反逆はあらかじめ無効化されていると考えられるのは、そうした理由による。
 むしろタイチは、「空の彼方の仏の国でつくられた物語」のプログラムにひたすら忠実に従わされているようにも見える。ひたすら忠実に従わされた結果、三十六歳で早逝することになるタイチは、「中本七代にわたる仏の因果を最後に果たす若い衆」の役割自体はたしかに遂行できたのかもしれない(ちなみに、作中で描かれるタイチのふたりの子どもも生まれて間もなく死んでいる)。
 だがそれでも、タイチが「因果を最後に果たす﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅若い衆」だったかどうかの確証は、『奇蹟』の作品世界からは得られない。
 それよりも、作中から見てとれるのは、タイチの無惨なまでのシステムへの屈従ぶりだ。「中本の一統」の「根絶やし」に向けて、プログラムは「高貴にして澱んだ血」の強制排出による「若死に」という経過をたどるわけだが、加えてタイチは何度となく(ときには無自覚に)みずからの身を「清水」で「浄め」てしまってさえいる。
 「到底人間とは思えない状態で、娘はすぐさま殺して土に埋めてしまった」と語られる、初のわが子を「おとろし」がる十五歳のタイチ――するとオリュウノオバは、「まじないしたる」と告げ、「土間に盥を置き、沸き立った湯を釜からひしゃくで汲んで入れ」て、かつて産湯を使わせた際と同様に、そこでタイチの体を洗い「浄め」てしまう。
 その光景は、タイチ二十四歳の年にも同所で再現されている。今度はタイチは自分のほうから「竃にかかった釜の中をのぞき、湯が沸いているのを確かめ、土間に降りて脇に立てかけた盥を引き出」し、オリュウノオバに体を洗わせているのだ。
 この間、「空の彼方の仏の国でつくられた物語」はその本性﹅ ﹅をいっそうあらわにし、タイチに流血劇を演じさせるいっぽうで、「清水」での「浄化」はおろか「路地」全域を水浸しにするプログラムをも並行して推し進めてゆく。あるいはそれは、「仏のとてつもなく邪悪な意志」が、「路地」をふたたび「極楽浄土」たる「清らかな花の咲く蓮池」へとつくりかえるべく進めている計画の一環ではないのか、と言った方が「分かりはよいだろう﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅」か。
 十五歳のタイチをあらためて招喚しよう。「ヒガシのキーやんの手下の若衆頭を張る男」を刺殺したタイチは、「返り血を浴び血だらけ」になっただけではなかった。その直後に「渓流に入り、石で小刀を研ぎはじめ」たタイチは、「服を着たまま水につかり、手で血糊をはたいて洗」っているのだ。
 そんなタイチの身と「路地」をいっぺんに洗い「浄め」てしまおうというのか、同年、一帯に大暴風雨が襲来する。それは「風で家、何軒も吹き飛んどる」と言われるほどの規模の嵐だったのだが、雨量もまた凄まじく、雷雨のつづく夜中にタイチとオリュウノオバはこんなやりとりを交わしている。

  タイチは振り向き、流しの引戸から外をのぞき、「オバ、この辺りも蓮池じゃったん
 か?」と訊く。
 「おうよ」オリュウノオバは昏がりの中でうなずく。
 「水、いっぱい広がっとる」
  タイチの幼い言い方にオリュウノオバは一瞬、路地が元の蓮池に戻る﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅のだと驚き、「どう」と立って外を見て、降り続ける雨で路地の溝が溢れ、青年会館の方にまで洪水さながら広がったのだと分かったが、その水が青白く明かりを放っているのを知って一層驚く。タイチにはその明かりは見えないのだった。(傍点引用者)

 システムの堅牢性を誇示するかのように、「ホトキさん」はみずからの「とてつもなく邪悪な意志」を隠そうともせず、「路地」を大暴風雨に襲わせる。「仏の子」の思わくは常に筒抜けであり、「その日を境に、何をどう思ったのか、タイチは自分の若死にの齢を十八と自分で決め」てしまうことすらとうにお見通しなのだから、ここまでくればもう、こそこそする必要など微塵もないのかもしれない。
 同日の日中には、「濡れねずみになって手を拱いて暴風雨の荒れるがままに成り行きを見守る男衆や若衆ら」の目前で、「腕に傷を受けたタイチがその腕を庇いながらも竹林の虎を彫った欄間を高々と差し上げ、雨に濡れ、風雨に崩れかかった赤土のぬらぬら滑り易い坂に足を取られないよう降りて来る」という出来事がすでに起きている。
 そこでは、豪雨を降らす「黒雲はタイチの手の中にあるその欄間の霊力に祓われ追われるように切れて流れ去」っているのだが、仮に本当に、そんな効果が働いていたのだとしても、所詮は一時的なものにすぎず、暴風雨が完全に止むわけではない。そもそも、同場面にも「仏のとてつもなく邪悪な意志」が及んでいるのだとすれば、それはやはり「腕に血の滲んだ包帯を巻いたタイチ」が「雨に濡れ」、「浄め」られること以外にないのだ。
 「沸き立った湯」や「渓流」や「降り続ける雨」に体を洗われることばかりが、「浄化」なのではない。「清水で溶いた覚醒剤を体に入れ」ることもまぎれもなく、「高貴にして澱んだ血」を「浄め」る手段としてプログラムに組み込まれている。たとえ「五体を駆け巡る血に溶けた覚醒剤の愉楽にことさら上げる声が、若さの盛りで死ぬ中本の一統の若衆の、仏をなじる声のように耳に響く」のだとしても、物語=因習のシステムは微動だにしない。
 タイチが「路地」から姿をくらましてしまっても、「清水」は「仏の子」を逃さず見つけ出し、その身体を「浄め」ようとするだろう。二十四歳のタイチは「ぷっつり三年の間、消息を断」っている。イバラの留に促されて飛んだ「浜松で三年間、タイチは軟禁状態だった」のだ。「番犬を飼う檻の中に放り込まれ」ていたタイチは、「浜松の組の若衆」から「喉の渇きを癒す」ために「持って来」た「水を檻めがけてぶちまけ」られるという虐待を受けている。すなわちタイチは、幽閉された身でありながらも「浄め」の水を浴びるという困難を実現してさえいるわけだが、それもひとえに、プログラムの一部なのだから必ずしも不思議なことではないのだと言える。
 ならば『奇蹟』とは、物語=因習のシステムに対する「中本の一統」の敗北の顛末を描いた作品として読むほかないのだろうか。『千年の愉楽』とあわせた二作品の描き出す歴史とは、「路地」における負け戦への道程を綴ったものでしかないのだろうか。タイチの死に場所が、当然のように、ダムという池に溜まった水の中﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅だったことに触れてしまうと、そんな気がしないでもなくなってくる。
 だが、『奇蹟』を最後まで読み通した読者ならば、異なる答えを思い浮かべているにちがいない。なぜなら作品終盤の一場面において、ある決定的な瞬間を目にしているはずだからだ。それは「金色の小鳥の群れ」が「大波のように空を舞い続けてまたタイチの血の匂いと味に魅きつけられたように血溜まりに舞い降り」る様子でもなければ、精神病院に入院中のトモノオジの視界に出現する「御釈迦様」のものとされる「巨大な掌」や「肉片」から再生されたタイチをめぐる一部始終を指しているわけでもない。
 その瞬間ついに、あの堅牢性を誇ったシステムに裂け目が生ずる――『奇蹟』においてまさに「奇蹟」が起こったのは、次のくだりにほかならない。

 […]トモノオジを見つめる二人に「ちょっとしゃがましてくれよ。横にならしてくれよ」
 と断ってしゃがみ[…]草叢の中にゆっくり身を横たえると、ミツルとシンゴがはるか遠
 くにあるような声で、「オジ、どしたんな」「大丈夫こ?」と訊き、そのうち「小便ちびっ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅たんこ﹅ ﹅ ﹅」とあきれ声を出す。
 「なんな、ズボンの中にちびったって﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅」「オジもあかんね」トモノオジを嘲る二人の声を耳にしながら、トモノオジは、何にでも姿を変えられるオリュウノオバも肉片のタイチも、トモノオジが生きながら生まれもつかない身に転生する苦しみを現世で味わっているから極楽へでも地獄にでも行けるのだと、鋭い日の光の落ちて来る空を見て「オリュウノオバよ、タイチよい」と呼び、「いつまでもシャモのトモキにこうしとけと言うんかよ?」と訊く。(傍点引用者)

 トモノオジはこれを機に、「転がったままのトモノオジ」と「立った方のトモノオジ」のふたりに分裂するわけだが、そのマジカルな﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅現象自体はさして重要ではない。
 ここで注目すべきなのはあくまでも、「小便ちびった」というトモノオジの生理現象のみにかぎられている。なぜならそれこそが、物語=因習のシステムに裂け目を入れ、『奇蹟』という作品世界の現実ルールを突き破る唯一の方法だからだ。
 血液や精液や愛液、もしくは涙や汗や唾といった体液の排出は、決まってなんらかの物語をともなっている。大抵の場合、血液は生死の、そして精液や愛液は性欲の物語を介して排出されたり分泌されたりする。涙や汗や唾は、当事者の感情や意志に関わる物語に直結している。たとえば『千年の愉楽』と『奇蹟』において、オリュウノオバをはじめとした作中人物たちは頻繁に落涙するが、そこには必ず感情に作用する出来事=物語の関与がある。または二作品でしばしば見受けられる唾を吐く行為も、涙と同様の事情か、それを必要とするシチュエーション=物語が関係している。
 つまりそれらの体液は、「空の彼方の仏の国でつくられた物語」のプログラム通りに排出されているにすぎない。プログラムの一部として至るところに流れ出て、「路地」の再蓮池化﹅ ﹅ ﹅ ﹅プロジェクトへと貢献するばかりなのだ。
 しかしトモノオジの「小便」は、意志も感情も欲望も通さず、ただ無意識に垂れ流されている――おまけにトモノオジ自身は、みずからの失禁についてひと言も言及しない。当人の意志にかかわらず排泄をおこなってしまう失禁というこの生理現象は、いっさいの物語から切り離された特異点のようなものとして﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅、『奇蹟』の作品世界に存在している。無意識かつ無意志的になされる水分の排出ゆえ、失禁は「ホトキさん」の監視の目をかい潜り、プログラムを欺く(欺かれたプログラムは、通常九十五パーセントを占める水が主成分であり無菌の状態で排泄される「小便」を「清水」と誤解し、そこに微量に含まれた血液の老廃物を見落としてしまうかもしれない)。それにより、物語=因習のシステムは不完全性を暴かれて、人々はようやく「路地」の外を想像することが可能となるだろう。
 たしかに失禁は、「病」の物語と結びついていると見ることもできるかもしれない。
 だが、「アル中で精神病院に強制入院させられ」たとされている『奇蹟』のトモノオジは、そもそも本当に病人﹅ ﹅だったのだろうか――この問いは、作品の終局で次のごとく宙に吊られてしまう。

 「[…]オジ、この時の為に、飯の時間、ずっと狂た真似して来たんじゃさか。吠えたり、
 わめいたりしての。ついに来たんじゃ。やったらなあかん者らが見えて来たんじゃ。オ
 ジはずっと我慢して来た。喰うか喰われるかじゃ。喰われてもかまん。蜂の巣にされて
 もかまん。そうやけど可愛い者の仇を取るんじゃ。病院で狂た真似ぐらいいくらでもし
 たる」
 「トモノオジ、狂た真似しとったんか?」ミツルが訊く。もう一人のトモノオジは﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ニヤリと笑う。(傍点引用者)

 本当に病人であるにせよないにせよ、トモノオジの目にははっきりと「やったらなあかん者らが見えて」いる。かつてオリエントの康は、「ここは蓮池の上に出来た土地で、どこかで眠る人間の一瞬の夢のようなところ」だと口にしたが、「小便ちびった」ことにより「森羅万象が誰かの見る夢幻のような気がしはじめ」ているトモノオジは、いよいよ世界の仕組みを見抜き、システムのプログラムを書き換えてしまうにちがいない。その結果が、「転がったままのトモノオジ」と「立った方のトモノオジ」への分裂なのだ。
 入院中のトモノオジが折に触れ、精神病院の「草叢」に「転がったまま」の姿で「巨大な魚 ク エ 」を演じていなければならなかったのはなぜか。それは世界の蓮池化﹅ ﹅ ﹅をもくろむ「仏のとてつもなく邪悪な意志」に従うふりをしていたからだとも、考えられる――この推測が正しければ、まず長年にわたる「中本の一統」の犠牲があり、加えてタイチが矢面に立ち、苛酷なプログラムに従順に振る舞いつづけていたからこそ、その戦略は結実したのだろう。
 物語のなかで覚醒したトモノオジは、「巨大な魚 ク エ 」を演じてきた「転がったままのトモノオジ」を「極楽」へと追いやり葬り去ることにより、「シャモのトモキ」でも「路地の三朋輩」でもない「クエにもなれん地獄に堕ちるトモノオジ」として、みずからの現在を書き換える。それはまだ、物語られたことのないなにものかであり、新たな世界=「地獄」へと開かれた、ひとつの可能性なのかもしれない。
 しかしそれも、やがては「狂た真似」として既存の「物語」に回収されてしまうだろう。物語化の運動が止むことはあり得ないからだ。なんらかの体液が排出されるたびに、意志や感情や欲望のどれかへおのずと分類され、解釈の回路を通されてしまう。さらには諸々の説話や霊験譚なども、そこへぬけぬけと顔を出してくるにちがいない。そしてただ、物語との闘争に終わりはないことを、読者はあらためて思い知らされるばかりなのだ。
 だが、たとえそうであってもいざとなればまた、体が勝手に「小便」を垂れ流すのではないかと、トモノオジは指摘するかもしれない。
 だからこそ、既存の「物語」に何度となく回収されようと、われわれは「狂た真似」をくりかえしてゆくしかないのだ。失禁という「奇蹟」の瞬間へと到達するために、われわれは何百回でも何千回でも「狂た真似」をくりかえしてゆくだろう。それだけが、今日小説を書く唯一の意義だと確信しているからだ。


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