人生二度なし

長生きをした人が必ずしも偉い訳ではなく、お金を沢山残した人が偉い訳でもない。また大きな会社を作った人がそれだけで偉い訳ではないということも、この年になるとよく分かる。何が人間として尊いのか、そして人生何のために生きるのかは永遠のテーマである。そんなときに先人は味わい深い言葉を残してくれている。
 『われわれは、わずか一日の遠足についてさえ、いろいろとプランを立て、種々の調査をするわけです。しかるに二度とない人生について、人々は果たしてどれほどの調査と研究をしていると言えるでしょうか。否、それどころか、この「人生二度なし」という、ただこれだけのことさえ、常に念頭深く置いている人は、割合に少ないかと思うのです。これ古来多くの人が、たえず生きかわり死にかわりするけれど、しかも深く人生の意義と価値とを実現する人の、意外に少ないゆえんかと思うのです。
 そもそも人生の意義いかんということについては、いろいろの考え方がありましょうが、われわれ日本人としては、自分が天より受けた力を、この肉体的生命の許される限り、十分に実現して人々のために尽くし、さらにこの肉体の朽ち果てた後にも、なおその精神がこの国土に残って、後にくる人々の心に、同様な自覚の火を点ずることにあるかと思うのです。
 かくしてわれわれが、人間としてこの世に生まれてきた意味は、この肉体が朽ち果てると同時に消え去るのでは、まだ十分とは言えないと思うのです。というのも、この肉体の朽ちると共に、同時にその人の存在の意味も消え去るというのでは、実は肉体の生きている間も、その精神は十分には生きていなかったという、何よりの証拠と言ってよいでしょう。
 尊徳翁はその「夜話」の中で、この点について面白いことを言っています。それは「生きているうちに神でない人が、死んだからといって、神に祀られる道理はない。それはちょうど、生きているうちに鰹でなかったものが、死んだからといって、急に鰹節にならぬと同じだ」という意味のことを言っていますが、さすがに大哲人の言葉だけあると思いますね。ですから、生前真にその精神の生きていた人は、たとえその肉体は滅びても、ちょうど鐘の余韻が嫋々(じょうじょう)として残るように、その精神は必ずや死後にも残ることでしょう。』(運命を創る、森信三著、致知出版社刊)
 先日、障害者支援機関の支援を行っているK福祉財団25周年記念感謝の集いに招かれて行ってきた。神戸を代表する婦人服のW社の創業者、故K氏が私財を投じて作った財団である。毎年全国の障害者支援をしている約50の団体に総額5千万円の寄付をされている。それを25年間も続けているという事実に驚く。その財団創設時から、K氏の説く行動規範が素晴らしい。『してあげていると思ってはいけない、させて頂いていると思いなさい』と。生前のK氏も、奥さまも、お付き合いさせて頂いた中で、感謝の気持ちの強い方だった。こんな感謝の気持ちが強い方だからこそ、会社は人に盛り立てられて大きくなったのだと思う。参加した40名位の方から、各々故人の逸話をお聞きするにつけ、皆の心の中でまだこのご夫妻は、生き続けておられるのだなと感じた。
 最近、B社の不正問題で、信じられない事実が報道されている。金儲けのためならどんな不正をしても良いと考えている大会社が今でも存在しているということに驚愕する。ある程度の解釈違いであれば言い訳も立つが、ゴルフボールで車を傷つけて多額に保険金を請求する、というのはどういう神経をしているのだろうか。「自分が天から受けた力を人々のために尽くし」とは対極にある考え方だ。

税理士・中小企業診断士 安部春之

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