「因」と「縁」と「果」

 ある本からの転載です。
 「原因」が同じでも、「条件」(縁)が異なれば、まるで違った「結果」が生じます。例えば、草花の種を蒔くと花が咲きます。種は「原因」です。そして花は「結果」です。しかし、いつ、どこに種を蒔くかによって、「生起」する「結果」は違ってまいります。やはり、それぞれの種にとって、適切な時期が選ばれなければなりません。その時期が「縁」(条件)になります。また、適切な場所に蒔かなければなりません。土が必要です。これも「縁」です。
 しかし土のほかに、水分、養分、日当たりなど、他のさまざまな「縁」(条件)がととのわなければ、花は咲きません。以上は、花が咲くのに必要な条件(縁)を思いつくままに数え上げただけです。これを「順縁」と言います。
 しかし、花が咲くのには、あってはならない条件もあります。「逆縁」と言います。妨げになる条件は、無数にあり、予測は不可能です。
 例えば、必要な「縁」(条件)がととのったとしても、それが過剰であったり不足があったりすると「結果」は違ってきます。また、せっかく種が芽を出しても、その生育を妨げる「縁」(条件)が一つでも加われば、花は咲かないのです。人がうっかりと芽を踏みつけても、また風に吹かれた何かが直撃しても、花は咲かないのです。そのように考えると、一輪の花が咲いているというのは、とても不思議な「縁」によることと言わなければなりません。私たちにとって、至極当然と思われることが、実はとても不思議なことなのです。
 同様に、私たちがその日一日、元気にしていたとしたら、それはむしろ不思議なことなのです。驚くべき「縁」によるべきというべきでしょう。しかし、私たちは、そのようには実感していないのです。
 「因縁生起」というのは、物事は固定的、決定的にとらえることは誤りである、ということです。それは「因」は同じだとしても、「縁」が異なれば結果が異なるということです。
~中略~
 このように、自分の思いを最優先させている限りは、仮に心に思ったとおりの結果を得たとしても、感謝の心はおこりません。思い通りにならなかったとしても、反省の心を生じません。そのことによって、結局は自分自身を道理に背かせるのです。道理に背くために、自分を悲しみ苦しみに導いてしまうのです。「因縁生起」という当たり前の道理に従おうとせず、道理を敬おうとしないのは、道理に対する無知によると釈尊は教えておられます。
この根源的な無知は「無明」(むみょう)と呼ばれています。「無明」によって「我執」が生じます。自分へのこだわりが生じるのです。「無明」であるために、こだわるべきでない「我」にこだわるのです。こだわる必要がない「自我」にこだわるのです。(京都東本願寺出版 吉田和弘著 現代を生きる仏教入門より)
 いかがでしょうか、分かりやすい文章だと思い掲載しました。「我執」が働き、「道理」に背き続けるがために、自分で自分を苦悩に落としいれるのだと釈尊は説かれているのです。
 我々は因果関係とはよく言いますが、因果の間に縁が介在していることを忘れがちです。花が咲くには単に種を植えれば済むわけではないことはわかっていながら、何事かを成しえた時に様々な方の手助けがあって結果に結びついたことに思いが至りません。般若心経の中に出てくる「無苦集滅道」の、苦諦、集諦(じったい)、滅諦、道諦にある、苦しみの始まりは、まさに無明から来る執着心によるもののようです。
 コロナにかかって(2023/7/6~)家でゴロゴロ読書などをしていると、元気で働かせて貰えていることの有難さが身に染みて分かります。
税理士・中小企業診断士 安部春之

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