力一杯書いた編集後記を見つけて貰った時と同等の嬉しさ

 香港が返還された年の一年後、僕は出版社に転職するのだけど、しばらくの間、自分の書いたものが人の目に触れる機会なんてほとんどなかった。

 雑誌に書いてるだけのライターさんや、すでに単行本を出しているライターさんなどがまだまだ紙媒体だけで食べていけてた時代。

 そのライターさんの中には単行本も上梓して一定の評価を得ているにも関わらずウェブログ(ブログ)を始めている人もいて、「この人は書くのが凄く好きな人なのだろう」、「なんと奇特なことか」と思っていた。

 訪問者数のカウンターが付いてたホームページだったと思う。


 僕自身の文章が初めて公の場に出たのは自分が携わった(新人が担当するプレゼントコーナーやショップリストとかのモノクロページを担当した)雑誌の編集後記。

 編集後記と言えども、誰かが読んで面白いと思って貰えるように一生懸命考えて考えて考え抜いて書いた。本筋の仕事以上に力を入れたかもしれないし、空回りした文章だったかもしれない。

 見本誌を貰って真っ先に編集後記を確認して活字になっている事を確認出来ただけで嬉しかったのだけど。

 この時から書いたものが公になる興奮と言うか快感みたいなのを覚えてしまった気がする。

 たかが編集後記されど編集後記。

 すでにアナログ製版から移行が進みDTPだった。原稿はワープロソフトで打ち込みテキストデータにして入稿する。それをDTPデザイナーさんがPC上で文字ボックスに流し込んで版が完成する。そして社内のプリンターで出力したカンプと呼ばれる仕上がり見本で簡易的な校正をして印刷会社に入稿。色校正、文字校正を終えて印刷会社に戻して下版。

 ざっくりとここまでの工程を経て初めて、僕の書いた編集後記が掲載された雑誌が出来上がり、書店に並ぶ。

 ま、編集後記なんてほとんどの人が読まない雑誌だったのだけど。

 そのうち、ライターさんが開けた穴を埋めるために記事なんかも書くことになった。そしてその号が出た時のライターさん達からの圧が凄かった。「素人が調子に乗って書きやがって」感があったし、実際、飲み屋で言われた気がする。挙句には雑誌自体のデザインがダサいだとか、写真の選び方、トリミングの仕方が甘い、主張がなんだとか、どっちの側で物を言ってるんだとかetc…。

 物を書いて食べてる人は、そのくらいの気概があった方がイイと思っていたので、僕はあまり腹が立たなかったけれど。


 当時、まだまだ同じ活字でもネットで書かれた活字はどこかいい加減で胡散臭い物だった。どんなにゆるい雑誌でもネットよりはマシ、と言う意識があった。

 一億総ブロガー時代と言われた時代にあっても、雑誌に載っているエッセイやコラムの方が質が良いと思っていた。

 実際、雑誌に物を書いているライターさんはテクニックも知識もユーモアもあって、クオリティの高い文章を書く人が多かった。中にはそうじゃない人もいたし、いい加減な刊行物もたくさんあった。例えばテープ起こしを掲載しただけみたいな芸能人本や、売れた本の企画の二番煎じ三番煎じもあったにはあったけど、そういうのはすぐ淘汰される、というかだいたい売れない。作る方も少し利益が出たらそれでいいと思って作っていた。

 僕がいた会社もそういう部署はあって、会社自体がそれほど大きくもなく、吹けば飛ぶような版元で、ネットが普及したとたん業績が落ち込み、トップがさっさとケツをまくって廃業してしまった。


 そういう小さな版元にいただけの僕だけれど、ネットニュースやSNSの文章の質を今もまだ疑っている。良いものとは思えない部分がどうしてもある。村上春樹の新刊に誤字脱字を見つけると物凄くガッカリもする。

 僕はそう言う古い人間である。


 noteを始めた時点ではまだSNSもネットの活字も全然信用していなかった。

 まず、SNSは匿名で出来るので(そこが良さでもあるのだけど)、いきなりアカウントが消滅する人もいるし、突如交流が途絶える人もいる。元々信用していないし、そういうことには免疫も出来ているし、少しは寂しい気もするけど、自分のリアルな日常には何の差し支えもない。

 僕が持っているSNSへの根強い偏見である。

 しかし、noteはどうだろうか。

 読み応えのある良質な文章の宝庫である。

 ユーモアのセンスが卓越した人、パンクな文章に長けた人、心に響く言葉を紡ぐ人、思いをぶつける人、面白いアンテナを持った人、風景を切り取るのが秀逸な人、日々の暮らしに役立つ知恵や情報を持った人、惜しげもなく仕事の裏側を紹介してくれる人…。

 素敵な文章、音声配信も含めた素敵な記事を発信する人がこれほど集まっているのである。

 あるいは、文章だけではなくハンドメイドで素敵な物を作っている人、買う人、フォロワーさん同士を繋ぐ人、素晴らしい企画を立ち上げてみんなを巻き込む人などなど。

 そして大きさこそ違うが、それぞれが抱えているモノがあって、それぞれの手段で丁寧に扱い、対峙し、赤裸々に綴られている。それは記事自体もそうだしコメント欄でも同じ。

 つまり、noteの住人は信用すべき人々であふれているのである。

 少なくとも僕は今そう思っている。


 僕がnoteに来て一番最初に他者へ記事を紹介してくれた人の企画に参加して、先日、拙い短編小説を書いた。

 それは読み手を選ぶジャンルだったけれど、しっかり最初から最後まで読んでくれる人がいて、読者としての感想まで頂いた。

 または、noteを始めた頃から書いている奥さんへのラブレターをいつも読んでくれる人がいて、やはり勿体ない言葉を膨大に頂いている。

 全く信用していなかったSNSの世界で書いた物を、読んで貰って感想を貰っただけなのに、時々泣きたくなるほど心が動く。

 新人編集者として書いた一番最初の編集後記を、あの力一杯書いた編集後記を誰かが見つけてくれて、読んでくれて、感想を言ってくれた。

 僕にとってnoteは誇張なしにそれと同等の嬉しさが湧き上がってくる、そんな場所である。

 

 

 

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