天の川星

心から好きな人と若いうちに結婚して、専業主婦になること。
専業主婦になった後もなお、夫から愛され、求められ続けること。
現代女性の多くが望む、理想の結婚生活。
こんな結婚生活なら幸せになれる。それは本当に、心の底からそうなのか。

確かめたくはありませんか?

ある一組の理想的な新婚夫婦の姿を通して、それを探ります。
この物語の主人公・綾は、愛らしさとしたたかさを兼ね備えた女の子です。
彼女は、夫である「彼」を結婚後もなお、一途に愛し続けています。
綾は猫のような子です。そして彼の愛を繋ぎ止めるためなら、手段を選びません。

彼女のことを、どう思いますか。
かわいそう?一途すぎる?
私はこの子のようにはならない?

果たして、本当にそうでしょうか。

※執筆中の長編小説のスピンオフ短編。脇役の一人の結婚後の生活を描いています。

1

私は芹沢綾。専業主婦をしている。夫は4歳歳の離れた人で、帆純(ほずみ)という。今は医薬系の会社の研究員をしている。

帆純とは就活の企業説明会で知り合った。彼と結婚出来てよかったと、心から思う。

私達はまだ新婚だから、彼は毎朝、出かける前にキスをしてくれる。唇が触れ合う程度の軽いキスで、これから内と外に分かれて働く私達にふさわしい朝のキスだ。

キスをする時に、唇を重ねた状態でほんの少しずらす癖が、彼にはある。こうすると普通にキスするよりも互いの唇が擦れるから、キスを終えた後も、相手の唇の余韻が強く残る。心に鍵を掛けられているみたいなキス。大事にされていると、肯定的に考えればいいだけなのに。もう何十回もしたはずなのに。私は彼のこの癖に、未だに慣れない。

今、キスをしてる。そう自覚した瞬間に、ぽっと、心に灯が灯る。私はこの灯が恥ずかしい。自分の隠していた一面がこの灯で照らされるからだと、自分では思っている。

照れ隠しのためなのか、いつからか照らされた心が一人でにうねり出すようになった。私は、自分の支配下にあったはずのものに、本当の私の心の動きを教えられるようになってしまっている。目の前でかつての自分だったものが一人でに動き出すのを見るのは裏切られたようで嫌で、何か分からないうちにそれに呑まれてしまうのは困る、と思った。だからそれがうねり出した時は、他人になったつもりで、なぜこのうねりが起きるかを分析して対等を保つことにした。恐らくは心の根底でこういうことに引け目を感じている私の、臆病な知覚が問題なのだろう。臆病だが彼が好きで、彼に構ってもらいたいというジレンマで私の心の表面は常にささくれ立っている。そのささくれのせいで、彼に何かされたら必要以上に過敏になってしまい、頭の中で彼のイメージが勝手に増幅されていくのだ。

それにしても。頭の中で彼のイメージのコピーが、彼が何もしていないのに無限に作られていく。それを止めることも出来ないなんて、恥ずかしくて溜らない。

だから毎朝キスをすると分かっているのに、毎回身構えてしまう。このキス一つ取っても私達の関係性が分かる。まるで見えない鎖に繋がれているみたい。じれったい。でも嫌じゃなくて、もっと欲しい。そう思うのは、私の心の別の部分がまた新しい動きで、うねり出しているからだ。

だからせめてこうなった時は、出来るだけやり慣れているように振舞おうと、私は半ばムキになって、背伸びをして、頑張ってしまうのだ。私は自分がなぜこうなってしまうのか、理解出来るし、人に説明出来る。でもそこまで出来たとしても、止めようがない。むしろ理解出来たからこそ、それに安心して呑まれたいと思うのだ。

彼は朝のキスをした後は顔が変わる。子どもみたいに無邪気に笑わなくなるのだ。営業スマイルが似合う仕事の顔になると言うのか。きりりと締まった顔になる。その顔で、たまにかわいい、と言って微笑んでくれる時もある。

その後でどちらの時も必ず、行ってきます、と言ってマンションの玄関を出ていく。

微笑んでくれない時の「行ってきます」は辛い。キスの余韻が残った唇が熱を持って、じんわりと痛む気がする。まるでおあずけを食らった動物のような気分になる。

そんな日は、たまに唇をなぞりながら、夢うつつの気分のまま、朝の余韻を引きずって、手だけを機械的に動かして家事をこなしていく。彼の残像ととも日が流れて、暮れていく。

でも、こんな一日だったとしても私は不幸せではない。だって結婚をした後も、私は彼に恋をし続けていられるということだから。

これは私達がまだ新婚だから出来ること?

違う。恋はろうそくの炎のようなものだと思っている。灯る時は自然に灯るけど、ずっと灯しておくためには、その炎を愛しんで守らなければならない。そうしなければ周りの雨風に晒されて自然と消えてしまう。その意味で、付き合っている二人の共同作業は結婚前からもう始まっていると言ってもいいんじゃないだろうか。そんなことを思う。これは何かと口論が多い私の両親と、学生時代に周りにいた、とても狭い範囲で付き合ったり、離れたりを繰り返しているカップルを見て考えたこと。私は人並みの恋愛経験しかないけれど、皆、自分だけが楽をしようという思いが強すぎる。自分だけが楽して、助かりたいっていう思いが心の底に常にあるように思うのだ。そういうのを見ていると、恋をした相手ですら信用できないなんて、寂しくないの、って思う。

灯った恋の炎がコントロール出来ないというのは、多分嘘。コントロール出来ないんじゃなくて、もうコントロールをする手間が惜しいと考えるほど、その炎に価値を感じていないんじゃないかな。

それでも出来ない、自然と他の人に惹かれてしまう、というのなら、それはもう、動物的な情愛を抑えられない、刹那的な生き方をする人の言い訳だと、私は思う。そういう人の心は、私にはもう、理解出来ない。

彼は帰ってくる時は、いつもただいま、と言って笑う。その笑顔を見ると、今日もつつがなく終わったんだな、ということが分かって、私もほっとする。彼の仕事は製薬会社のバイオ技術開発だ。バリバリの理系職だから、文系の事務職志望だった私には、彼の話の深い所は理解出来ない。だから彼が仕事の話をする時は、もっぱら聞き役に回っている。彼もそれを理解しているようで、私には仕事については雑談程度の話しかしない。

大学院でバイオ学を学んで、今は研究所で再生医療の研究をしているということ。大学の研究者と違って、企業の研究員は、研究室に閉じこもっているだけではなく、一日中試験官と睨めっこしている一日があるかと思えば、専門外のお偉方の前で一日中プレゼンをしたり、接待の席に出たりすること。意外とアクティブな一面があるんだと、聞いた時は驚いた。大手と言われる製薬会社のグループ企業だけれど、最近トップが変わって、遺伝子検査等の流行りの新規事業を始めることになったという。そのせいで彼の研究部門も本来の研究の合間にグループ経由で成分検査依頼が舞い込むようになって忙しくなり始めているそうだ。彼は週の半分は私服で、半分はスーツで出勤しているが、それでも当日に予定が変わることがあるようで、今は会社のロッカーにスーツを常備している。

企業だからいろんな人を説得しなきゃいけなかったり、ある瞬間に頭を切り替えなくちゃいけないことがあって大変だけど、毎日飽きないから、いいよ、とあの時の彼は笑った。半分はそうかもしれない。でも、もう半分は強がりだと思った。

朝、私服で行って、スーツで帰って来た初めての日、玄関で目を丸くした私の前で、彼は理由を説明すると、バツの悪そうな顔で長身の体を竦めて、笑った。困惑と自嘲と照れが巧みに混ざったような笑みだった。

時折唇を舐めながら話す彼の仕草が、いたずらがばれた子どものように見えてかわいかったから、何も答えずにただ見返してしまった。初めて彼のほずみ、という名前を聞いた時のことを思い出していた。女の子のような名前だと思いながら、教えてくれた名前をオウムのように繰り返した後で、彼の凛とした、あの中性的な顔を見つめた。彼は私の反応を心なしかうれしそうに確かめた後で、目を伏せて、こういう字を書くんだ、と言って新しいルーズリーフにシャーペンで名前を書いて渡してくれた。

まだ結婚したばかりだけれど、これから接待で午前様になったり、ゴルフで早出をすることもあるだろう。そんな時にもこの人はこんな風に笑うのだろうか。そう思うと、彼が堪らなく愛しくなった。玄関で立ち尽くしていた彼の手を握ると温かで、何も言わずにそのまま抱きしめてしまった。

「綾さ、時々、お姉ちゃんみたいになることがあるね」

「お姉ちゃん?」

「そう、年下なのに、年上っぽく振舞う所がある」

「そうかな?」

「そうだよ」

「じゃあ、……帆純が年上に戻ってよ」

「え?……いざ戻れって言われると、なあ」

夕食を食べた後で紅茶を飲みながら、そんな他愛もない話をしたこともあった。どうせベッドに入れば元通りにリセットされるのだから、本当に他愛もない話。

こんな風に時々彼の上に立って、彼に降ろされるのを待っている。私は彼と話す時、特に図星の時は、照れ隠しで生意気な口をきいてしまうことが多い。彼は私を怒らない。根が優しいからなのか。明るい所では血の繋がった妹か、猫みたいに私を扱いたいからなのか。

いずれにしても彼を軽く挑発しながら、彼を斜め上の場所で眺めるのは楽しかった。でもどんな所に行っても、彼に呼ばれればすぐに戻る。そして戻った後は、彼の傍からは離れない。そう決めていた。だって私は、彼を好きなんだもの。

散々言葉で挑発しながらも、私の心はもう彼の前にはない。言葉遊びをしている今よりももう少し先を飛んでいる。自分が口にした言葉を味合うように反芻したり、次に言う言葉を飴のように転がしたりしながら、少し先の未来を考えている。ベッドの上で愛し合う時に、彼に優しい言葉を掛けられながら、男の視線で脱がされることを今から想像している。私の女の身体が、彼のオスの本能で屈服させられるのを今から期待している。受容している。心の底から。

私達は特別なんかじゃないと思っていた。こういうの、たぶん形は違えど、どこの恋人もやっていること。こういう言葉の駆け引きのパワーゲームは、恋人同士でやるのが、一番楽しい。彼も全部分かっているはずだ。だって時々、楽しくって堪らないって顔をする。私達がプレイしているこの緩やかなパワーゲームは、遊び方を間違えれば劇薬になるもので、そのスリルが面白いということ。そして上手く使いさえすれば、死ぬまでずっと楽しめるものだということ。

私は特に帆純の妹を演じるのが好きだ。昼間は時々生意気になる妹になって、彼に守られながら彼を支えるのが好き。たまにいたずらして夜の時にも、お兄ちゃんを心から慕っている本当の妹がするようなそぶりをして、彼の心を背徳感でいっぱいにして恥ずかしがらせて楽しむのも大好き。そうして彼と一緒にずっと暮らしていきたい。身体も心もそう言っている。私は嘘がつけない。

2

帆純は料理が出来る人だから、私達は台所で並んでよく料理を作る。彼曰く、大学の時に一人暮らしをしてたから、自然とやるようになって、好きこそものの上手なれで上手くなったそうだ。私は大学の時は実家暮らしだったから、好きな時に起きて好きな時に好きなものを食べられる生活の話を聞いた時は単純に羨ましく思った。でもそれがずっと続くとなると、広い森の中にたった一人で放り込まれたようで逆に不安になるかもしれない、そんなことも思った。森と言うよりも、むしろ、素材と道具に該当するものなら何でも取り寄せられる牢獄のような部屋をあてがわれてこの中で自給自足しろ、と言われている気分の方が近かったように思う。大学の哲学の講義で年配の教授が授業にかこつけて私達に投げつけるように言った、我々は自由の罪に処されている、という言葉。あの生きる人間全てを傷つける言葉の刃のようなフレーズがあの時、脳裏をかすめた。

一緒に料理する時に作るのは、彼が一人暮らし時代によく作っていたというパスタやハンバーグが多い。女の子受けする男子ご飯みたいなメニューだけど、もう無理に気取る必要もないから、量を作る。あとは作る過程を楽しめる工作系の料理も良く作る。肉巻きおにぎり、餃子、ロールキャベツなど。どっちが作ったのか丸わかりだ、とか言いながら作る。私はひねくれているから、彼と笑い合って料理を作りながらも、料理って一見ほのぼのしてるけど、やってることは残酷だよなあ、と内心では思っていたりする。だって魚とか、鳥のお腹の中のものを全部掻き出して、彼らにとっては異物の米とか、いろんなものを煮詰めた得体の知れないスープや、生きている時は存在すら知らなかった同種の仲間の肉や、別種の見たこともない魚とか鳥の肉とかを代わりに詰め込んで、それを手間暇かけてるとか、って言って、おいしいおいしいって食べるわけだから。これが人間だったら、狂ってる、て思う。何でもおいしく食べる中華料理の楽天的なイメージと、嫌なら食べるな、という便利な戒めの言葉があるから、それらに甘えておいしく頂くけどね。

帆純は理系の人だから、この感覚を分かってくれると思う。実際に話したら、ブラック・ユーモアだと言って笑ってくれるかも。私達は食べる時には味の話はしない。ただおいしいね、とだけ言って笑い合う。その代わりに、お互いの食べる様子を互いにちらちらと見ている。おいしいと思うものを食べながら、好きな人と視線を絡め合うのは楽しい。彼の顔を起点に視線がいびつな円を描いていく。その円を行きつ戻りつなぞる形で彼と笑い合っていると、先のもの食う人間の浅ましさについての気づきも忘れる。一種のトランス状態になると言ってもいい。そんな時は自分がご飯を食べていることなど忘れて、既視感はあるけど絶対に行ったことがない学校の校舎の屋上の端で片足を目一杯空に投げ出して気が済むまで二人で踊っているような感じになる。私は彼と同じ学校ではないから現実逃避以外の何物でもない。でもそれは次元を飛び越えて、まだ何も知らなかった頃の二人が出会ったかのような贅沢な時間だ。

だから食事の時間は嫌いだが、食べるという行為は好きだ。だって食べることで子どもに戻れるから。だから私には嫌いな食べ物がない。彼も嫌いなものはないと言っているから、その意味では、私達は一番純度の高い子ども返りが出来ている。

でもこの子ども返りもまた私達の遊びなのだ。子どもに戻った後は必ず大人に戻りたくなる。私達は子どもが絶対に飲めないものを互いに飲ませ合うことで大人に戻る。辛い時もあるけれど大切な行為だ。自分達が夢の世界の住人ではなく、きちんと大人であることを確かめて、安心するための。

帆純はテレビをほとんど見ない。情報収集はスマホで済ませているようだ。職場にも新聞があるから、特に不自由はしていないよ、と言っている。彼は忙しい人だから、見たいものをさっと見たいと考えているのだろう。嫌いなものは見たくない、が本当に叶う、いい時代になった。

本は好きなようで、ベッドルームのダブルベッドの枕元には本が積んである。自然科学の本と、古典小説が少々。昔読んだものを読み返している、と言っていた。私はテレビは普通に見るけれど、本は進んでは読まない。人に勧められたらベストセラー小説を読む位だ。あまり本を読むのは好きではない。実用書は必要に駆られれば普通に読み進められるから、本というより物語を読むのが得意ではないのだと思う。小説の世界は甘美だけど、自分をあの世界に投影することは苦手だ。気恥ずかしいというのか、自分があの世界にいると想像出来ないのだ。もちろん小説の主人公がかわいそうな目にあっていたら、人並みに心は痛むけれども。

ある時彼に「本が嫌いなの?」と聞かれた時に、そうかもしれない、と答えたら、少し残念そうな顔をされた。知らぬうちに態度に出してしまっていたのか、と思い、焦った。「どうしてそんなことを聞くの?」と聞いたら、ベッドの周りの本に興味を示さないからだ、と言われた。彼の私を見る視線が、一瞬射るような鋭さになったことにただならぬ気配を感じた。条件反射的にごめんなさい、と謝ると、きょとんとした顔で「なんで謝るの?」と笑われた。僕が綾を好きになったのはもっと別の理由だよ、そんなことも言われた。彼は目を逸らさなかった。楽しいことが別にあるのは、いいことだ、とでも言うつもりだろうか。自分自身にそんな風に言い聞かせているみたいに。最愛の人が嘘をつくのを見たくなかった私は、彼の視線から逃げるようにして、目を逸らした。

あの日は当たり障りのないことを話した後に、早めに床に就いた。私も彼も眠れなかった。月が明るい夜で、カーテンから漏れ出た月の光が、ほの暗い天井に無秩序な光のグラデーションを作っていた。美しいけれども見続けているとゆっくりと不安を掻き立てられるような光だった。それは私が知らない光だった。この光以外にも私が知らないものは世の中にたくさんあるのだろう。

私は彼の両親を知っている。彼の両親は二人とも気が優しくて穏やかな人だ。公務員をしているお父さんと専業主婦をしているお母さん。お父さんは子どものユーモアを忘れていない人で、ドラえもんに出てくるのび太のお父さんみたいな、古き良き時代の父親という感じがする。生け花が趣味で定期的に自宅で教室を開いているというお母さんは、そんなお父さんを三歩下がって見つめる、物静かな人。嫁いびりとは無縁の人。本当に花が好きなようで、京都の実家に寄る度に新聞紙に包んだ花を持たせてくれる。二人の立ち居振る舞いを見てると、勝ち気なうちの両親の粗を露わにされるようで、時々恥ずかしくなる。両親を通して間接的に私が責められているようで、居たたまれなくなる。でも、彼らですら、息子の帆純のことを全て知っている訳ではないだろう。

それでも構わない。私は私が知らないという事実を受け入れる。無知であることを受け入れる。でもその前に言葉にしたいのだ。言葉になる前に彼の手を取りたくはない。言葉になる前に彼の手を取ったら、ただの泣き落としになってしまうから。

疑惑の象徴の本達が暗闇で見えないことが救いだった。

「前に付き合ってた彼女はね」

「……」

「本が好きな子で、僕のマンションのベッドの上で寝っ転がって、いつも枕元の本ばっかり読んでたんだ」

「……」

返事の代わりに寝返りで答えた。擦れるシーツの音が耳元で響いた後で、私の右手が彼の左手に当たった。暗闇の中で彼の目が光った。彼の声はよく通る。胸板の厚いがっしりとした体形と、皮肉屋の私の母が甘いマスクと評した容姿にふさわしい、柔らかさの中に、凛とした強さがある声。声音そのものが意志を持ってまっすぐ進んでいくような、耳にした者を安心させる声。彼の腕の中で、その心音を感じながら、いつまでも聞いていたい。

だが、そんな声も、暗闇の中では進む方向が見えなくなるからか、声自体が行き場を失っているようで、物寂しく聞こえる。

だから私はテーブルランプを付ける。テーブルランプの照らす光の力で、彼の声の進む先を照らしてあげたい。その心を彼が望むやり方で癒してあげたい。

「どうして、そんな目をするの?」と彼に聞かれた気がした。

自分の意志とは裏腹に、ん、と声が漏れた。結果的に相槌になった。

彼は私の手を取った。そのまま口元に持っていく。

リップクリームを塗るように上唇で私の指を滑らせた後で、人差し指をゆっくりと口に含んだ。

テーブルランプの暖色の光のせいだろうか、虚ろに開いた彼の目は潤んで見えた。視界の端で、オレンジ色の湖が揺れていた。彼は私の指を舐めながら、私の反応を観察しているようだった。彼の言葉を勝手に想像した私に罰を与えようとしているのだろうか。そう考えた途端に顔が火照るのが分かった。指の腹をじらすように舐める舌の感触が、右手の指先から電流のように伝わると、吐息を漏らして悶えてしまった。思わずシーツに顔を押し付けた。くすぐったいのに切ない。泣くことも笑うことも出来ない私が感じたのは、恥ずかしい、という感情のみだった。またいつものように袋小路に追い詰められていたのだった。彼は人差し指を口から離すと、「こんなこと、言わなきゃよかったかな」と自虐的に囁いて、苦笑いした。

口では弱音を吐きながら、彼は私を攻める手を緩めない。彼は私の顔を自分の方に向けさせると、私の頬に手を添えた。これから私を執拗に責める手を添えられた私の反応を観察している。彼をまともに見つめることすらもう出来ないのに、こんなことを聞くなんて、ずるい人だと思う。薄目を開けて彼を睨もうかと思ったが、出来ない。代わりに熱い眼差しを向けた。彼の問いに答えられない私の今の姿を見せることで抵抗する。自分の手の平で自由に転がされている私を見ることで、彼は自己所有の実感に震える形で、癒されているはずだから。そう思うと彼がかわいく思えて来る。でも身体は言うことを聞かない。結局、私は彼と同じなのだ。彼を出し抜けないという現実に安心している。

彼はベッドの中でも良く笑う。いつもの人懐っこい微笑みがテーブルランプのほの暗い光の下では、周囲の暗闇に輪郭が溶け合う形でセクシーな微笑みに変わる。現にあの時も、昼間の面影が残る微笑みの奥で、君はぼくのものだ、と妖しく囁かれているように感じて、あの後は全身の力が一気に抜けてしまった。

3

あれから暫くしても、彼の読書家だったという元カノのことは良く分からなかった。彼が自分から語らなかったし、私も愛している人の持ち物を漁るような真似はしたくなかった。代わりに自分の元彼の話をすれば語ってくれることもあるかもしれないと思い、私はあの夜のような時を狙って、何度か自分の話をした。

彼は私の二番目の恋人だ。初めて男性と付き合ったのは17歳の頃で、相手は高校の同級生だった。周りのお膳立てに流されて付き合って、手を繋いで、お互いの家に行って、キスをして、後はお互いに最後までやる勇気が無くて、世間で言う清い交際を続けた。受験が忙しくなって別れたが、別れ話が出た時には、情けないことに分かれる原因を作ってくれた受験に心の底では感謝をしていた。向こうもほっとしていたようだった。その意味で、私達はただ、周りの期待に応えただけで、お互いに愛しているはおろか、好きだったのかも怪しかった。

子どもだった。でも結婚する前に、こんな交際を経験出来て良かった、と思う。こんな風に結婚して、それが不幸であることにも気づかずに一生を終える人も少なくないと思うから。

「だから、事実上は帆純が最初の恋人なんだよ」

彼にそう伝えたら、仰向けになったままでそう、と言った。私は彼の上に跨っていた。彼の上半身を舐めていた時の肌の感触が、まだ舌の上に残っていた。彼が遅く帰って来て疲れている時は、ダイニングテーブルを飛ばしてこんな形で話を振ることもある。すごく恥ずかしい。けど、オレンジ色の甘い味を飲み込みながら話すと、気負わずに話せる気もしていた。言葉に詰まる度に、彼の体を舐めて、キスをして、時には彼の手に身を任せながら、慎重に話す。私にとってはこういう話は明るい所で向き合って話す方が難しいのだ。気づまりで話せない。

言葉に詰まる度に彼の心臓の辺りを見つめた。彼が息をする度に引き締まったお腹の皮膚が規則的に上下しているのを見て、ちゃんと聞いてくれているんだから、と自分に言い聞かせた。私の中の彼の一部が、私と共鳴するようにゆっくりと動いているのを歯を食いしばりながら確認する。彼が気まぐれに動く度に彼の身体を太ももで締め付けて、時間差で波のように襲ってくる快感に唇を噛んで耐える。彼のお腹に手を添えて、両手を口で押えて、時間稼ぎをする。私をおもちゃにする彼に、どんな風に試されたとしても、何でもないふりをして話したい。

彼は時折身体を突き上げて、私をいじめる。私が我慢しているのを知っていて、その顔好き、とか、もっと声出していいよ、と甘い声であからさまに囁く。汗で湿った前髪の下の目は潤んでいるのに、口元は加虐の笑みを浮かべているのが、壊れそうなガラスを見ているようで、不安定で、切なくて、愛しい。こんなのは愚かだと思うけれども、自分の体がずたずたになっても、抱きしめたくなる。

私はあなたのものだよ。でも。あなたも私のもの、だよね?私に密着している彼が不意に漏らす吐息や、身体の疼きを感じながら、そう問いかけてみる。

じゃれ合いながらお互いの身体を味わうこの時間が、私は本当は、大好き。澄ました顔をしている昼間のあなたにも、今の声、聞かせてみたい。共犯だよ、私達って。

二人とも汗だくになって来て、そろそろ限界だと思ったタイミングでこの駆け引きの愛撫を終える。いつもは、終えるのは彼の方からだ。

でもあの時は彼の過去を聞き出したかったから、私の方から体を離した。

「帆純の付き合ってた人のことも、もっと聞きたい。…ずるいよ。私ばっかり」

年下の特権を行使して甘えた声を出すと、彼は昼間の顔に戻って微笑んだ。

「素直な子だったよ、今の綾みたいに」

「茶化さないでよ」

「茶化してないよ」

「じゃあ、どんな子だったか教えて」

「……そうだなあ」

彼は話してくれた。同じ大学で、1年ほど付き合って、就職で別れたということ。意外と短かった。彼の口ぶりではもっと長いと思っていたから、拍子抜けだった。予想していた通り、今まで付き合った中で一番好きな子で、彼の就職で別れて、別れてからは交流もなく、今はどこで何をしているか分からないということだった。

別れる時に東京に行くって言ってたかな。

そう彼は言った。


背筋が寒くなった。


ここは目黒だ。


「別れる時に東京に行くって言ってたってことは、近所にいるかもしれないってこと?」

「……そうかもしれない。でも分かんないよ。昔のことだから」

「……そりゃそうだけど」

さっきまで汗だく寸前だったのが嘘のように身体の火照りが一気に冷めていく。数分前まで身体の中にあった彼の余熱が、まだ私の中で輪郭を作っておもちゃみたいに動いている。私は俯いて、彼の身体の上で腰を浮かせて座り直した。冷気に変わった汗のせいで風邪を引きそうで、惨めな気分になる。彼の左腕が私のお尻に伸びた。肉の柔らかな感触を確かめるように、ゆっくりと。彼の手の熱がお尻から私の身体にもう一度移ってくる。建前の慰めの言葉をもう一度掛けられているようで、情けなくなった。

大丈夫だよ、と彼が言う。言いながら右手で私の手を握って、手遊びをするように指を絡める。一体何が大丈夫なんだろうか。そりゃ自分にとっては大丈夫だろう。でもそれをそのまま私に言うの?私の方は全然大丈夫じゃないし、そんな言葉を掛けられても嬉しくも何ともない。気休めにもならないよ。そこまで全部分かってるはずなのに、そんな言葉を掛ける。大人の優しさかもしれないけど、そんなのは一種の嘘つきだよ。現にその幸せってどこにも本当が無い。

「もっとその人のこと教えて」

「…なんで?」

「なんでも」

「…そんな怒んないでよ」

「怒ってない」

「僕には今の綾、すっごく怒ってるように見えるよ」

彼は私を宥めるように笑った。困った子だな、と苦笑するような、余裕に満ちた保護者の笑い。笑い終わると、私から両手を離して、軽く伸びをすると、そのまま頭の後ろに回した。彼の下半身の筋肉が動いた時に、未練がましく目をやったのを、見られただろうか。それが気がかりだった。

彼はサイドテーブルの上の時計にちらっと目をやった後に、もやもやした気持ちでお互い続けても気持ちよくないだろうから、もう止めよっか今日、とあっけらかんと言った。

抜け目がない。やっぱり見られていた。手の平でいいように踊らされている気がして、いじわる、と呟いた。こういう時に、普通の男の人なら黙っていれば済むのかもしれないが、優しいけれど合理的に物事を考えるこの人にだんまりは通用しない。私が答えなかったら、枕元のスマホを持って、ごめんね、という言葉とともにベッドルームから出て行くまでだ。

「……最後までしたい」

「じゃあ、協力して」

「やだ、それとこれとは別」

「…そんなに知りたいの?綾は?………頑張るなあ」

無理やりにでもさっきの体勢に戻ろうかな、と考えていた矢先、彼は頭の後ろに回していた手をおもむろに解くと、私の腰を両手で掴んで、後ろに押しやった。自分から入れてごらん、と言うように彼は微かに頷いた。ついさっきまで全身で味わっていた熱い感触が、脳内を駆け巡る。彼とこういうことをする時はいつもそうなのだが、私の瞼の裏側には常に、直前に見たものの残像が残っている。それは目を閉じている時は、瞼一杯の大画面で、ちょうど大画面のテレビで動画を見るような感じで再生されている。目を開けた時は、視界の隅に追いやられてはいるものの、半透明の幻覚のような感じで残っている。常に遅れて再生されるそれを目にした時に、私は記憶で興奮する。私にとってのこれは、彼に愛された幸せな記憶であり、一種の予知夢でもある。これから彼にされることを予知した予知夢。だからそれを目にした時、私は上手く身体が制御出来なくなる。

そのまままっすぐにゆっくり腰を下ろしたはずなのに、予想以上にスピードがついてしまって、私ははうっ、と声を漏らした。自分で出した喘ぎ声の大きさと甘さに驚いて、私は両手で口を押えた。

身体が勝手に媚びている。彼に対して駆け引きはおろか、取り繕うことなど、もう出来ない。現に「どうしたの、綾?」と彼は涼しい声で聞いてきた。何でもない、と声を絞り出すのが精一杯だった。

何でもなくないだろ、と言って、彼は私のお尻をぐっと引き寄せた。さっきよりも深い所まで入っていく。語尾が悲鳴に近い喘ぎ声が、部屋中に響き渡った。

さっきまで冷え切っていた身体が、もう沸騰しそうな位に熱い。 身体の中で全身の血が沸騰して、好き放題暴れているみたいだ。私が吐く息は、白い湯気になっていた。動きたくないのに、腰が一人でに運動を始めていく。熱さのせいで頭が痺れて、思考がぼんやりしていく。もう難しいことは考えられない。熱いのは自分だけじゃなくて、この部屋も暑いかもしれない、と思い始めた。現に腰から太ももにかけて汗が水のように流れているし、太ももは汗でぬるついて滑ってしまいそうで、シーツには汗じみが出来始めていた。暑い、この部屋、もうやだ、暑い。暑くてたまらない。「綾さ、また、一人で気持ちよくなっちゃったんだろ」という彼の問いかけには、もう荒い息を漏らすばかりで、答えることが出来なかった。彼は答えなくていい、と言わんばかりに、彼の胸板に両手を置いて前傾姿勢になった私の胸を掬い上げるように揉んだ。自分の下半身に擦り付けるようにくねる動きを補助するかのように、私の腰を強く抱き寄せた。

4

「行ってきます」

前夜に何をしたとしても、翌日には何食わぬ顔で過ごさないといけないのは、言わば、一番身近な苦行だ。自分の徳を一番嫌らしい形で問われている。

業だ。因果だ。こんなもの。そう考えると、ほらお寺に行かなくても、修行なんてすぐ出来る。

彼がキスをしようとした時に、私は初めて拒んだ。結婚して初めてのことだった。付き合っていた頃は、二人だけのゲーム感覚で困らせるために拒んだこともあったけれど、結婚してからは生活のためにも昼間の足を引っ張ることはしてはいけないと思い、拒むことはなかった。結婚したら一人じゃなくて二人の生活が始まるから素直に生きられる。一旦エンディングを迎えた後の始まりだから、昼間の間は駆け引きや遊びをする必要もなくなる。その代わり夜は、結婚という枠に守られている二人なら何でも出来るとも言えるが。

彼は私を見て苦笑すると、「今日はご機嫌斜めなの?」と言った。私は彼の目を見ることが出来なかった。「今日は遅いの?」と玄関の、まだ何も飾っていない飾り棚を眺めながら聞くと、彼は分からない、と答えた。こんなことを言いたいんじゃないのに、と思っていると、彼は私の右手を引き寄せた。反射的に視線を移した途端に彼の大きな二重の目が視界に入る。耳元でふっと囁く声がした。

「昨日は楽しかったね」

頬を起点にして、体温が一気に上がるのが分かった。「何でそんなこと言うの!」とむくれて大声を出すのが精一杯だった。彼は外見は優しそうに見えるけど、性格は負けず嫌い。勝ち逃げが嫌いだ。

彼は私の反応を勝ち気な男の子のように観察すると、勝利の味を味わうかのような表情になった。結婚した彼が、私にしかしない表情。今の所、という懸念は残るのが悔しくて、二重に辱められた気分になる。何も答えられない私を、彼はからかいすぎたと思ったのか、一瞬目を見開いた後に詫びるような目つきになった。…今日、会社を休んでくれるなら、許してもいいよ。口に出せないわがままが、喉元まで出かかって、自分で考えたはずの甘い言葉に内側から溺れそうになる。

私は笑顔を作ると、彼は安心したように笑った。

じゃあ行ってくるね、と言う声とともに、彼は玄関から消えた。

あの週の土曜日に、彼はデートと称してテーマパークに連れて行ってくれた。彼は忙しかったから二人で出かけるのは数週間ぶりだった。土日の日差しは平日よりもより穏やかに降り注ぐような気がしていた。普段ずっと家にいるからそう感じるようになったんだと思っていた。つい数か月前までは普通に学校に行ったり、就活をしたりして平日・休日問わず外で歩き回っていたのに、もうあの頃の感覚が薄れてしまっている。結婚して専業主婦になると、外界から隔絶されると聞いていたが、それはこのことだったのか。これから歳を取っていったら、この感覚はもっと強くなっていくのだろうか。そう思うと、巨大な竜巻のような激しくうねる時の流れに、なすすべもなく飲まれていくような漠然とした不安を感じた。折を見てパートでもいいから働きに出たいと言おうか、と思った。

一通り、アトラクションを楽しんで、園内のフードコートでランチを食べた。園内のフードコートのパラソルの下は、家族連れと、若いカップルばかりだった。そうなる前とそうなった後というくくりの中で、両者は同種のものに思えた。フードコートのパラソルの下をやんちゃな子どもが二人、はしゃいで駆け回っていた。小学校に入った位の歳の近い兄と妹。奇声を発していないから、嫌な感じはなく、周りの大人達もテーマパーク内だからなのか、気が優しくなっているようで、微笑ましそうに走り回る彼らを見るともなく見ていた。お兄ちゃんの方の男の子は、黒いTシャツと薄いブラウンの短パン姿で、テーマパーク内の出店で売っているサングラスを麦藁帽子の上に掛けていた。先に席を離れてかけっこを始めたのはこちらの方のようで、話している内容によると、テーマパークのキャラクターをもじった、彼にしか分からない特殊なルールの鬼ごっこをしているようだった。妹の方の女の子は、髪型はポニーテールだが物静かそうな女の子で、よく見たら本当は静かに座っていたいんだけど、お兄ちゃんに付き合って走ってる、という感じの子だった。運動が得意ではないようで、薄いピンクのTシャツとお兄ちゃんと同じ薄ブラウンの短パンで、お兄ちゃんを追いかける体で、息を切らせて走っていた。ただそんな風に走ってはいてもお兄ちゃんのことは好きなようで、時折止まっては探るような目で男の子の姿を探してはその方向を目指して走っていた。

あんたたち、もう行くわよ。母親らしき女の人の声がした。男の子が女の子に近づいて来た。女の子はちょうど私達のテーブルの3メートル位先で俯いて苦しそうに息を整えていた。ほら、行くぞ、と男の子が言った。女の子は自分のことで精一杯で、何も反応出来ないようだった。喘息でも患っているのだろうか。正常な呼吸になかなか戻らないようで、肩で息をしていた。男の子はまたか、というように顔を顰めた後で、女の子の手を取った。こいつのせいでまた自分が怒られると思っているのだろう。妹に当てつけるような大げさな足取りで、母親の方に女の子を運んで行った。

私たちは一部始終をソフトクリームを食べながら見ていた。あの兄弟が今、幸せな状況でないのは明らかだが、安易に解決出来るものではないし、第一他人が上から目線で口を挟むのは偽善でしかない。でもこんな状況で別の話をするのもわざとらし過ぎるから、ソフトクリームを食べるのに集中している風を装って、見て見ないふりをしていた。彼も感想を言わないのが彼らのためになることを分かっていたようで、私達は時折アイコンタクトをしながら、無言でソフトクリームを食べていた。

「芹沢くん?」と言う声を聞いたのは、その時だった。

声の方向を見ると、高そうなスーツを着た、キャリアウーマン風の女性が立っていた。逆光だったせいか、最初は姿がよく見えなかったが、ダークスーツに身を包んだ長身の身体は、ピシりと背筋が伸びていた。肩位の髪で、上品な顔立ちをしている。顔立ちの端正さと肌艶の良さのせいで、年齢が分からない。休日のテーマパークにそぐわないのは向こうの方なのに、遊びの恰好をしたこちらの方が気後れさせられるような、威圧的なオーラがあった。このテーマパークの社員の人だろうか。彼と知り合い?じゃあ、もしかしてこの人が……。そう思った瞬間に、常に心の奥底でくすぶっていた形の見えない不安が胃の下辺りに凝固するのが分かった。実体化した不安が、内側から突き上げるように胃を圧迫する。吐き気を感じ始めた。自分の座っている椅子の下にぽっかりと穴が開いたような奇妙な感覚もそれを助長した。落ちも吸い込まれもせず、穴の上でただ椅子に座ったままで浮いている状態。ただ不気味だった。この幻覚を作り出している私の心の中のものを刺激しないようにしなければ、さもなければ跡形も無く呑み込まれてしまう。そう考えた私は全身の神経を張り詰める形でじっと座っていることに努めようとした。スタンドに乗った食べかけのソフトクリームをうっかり視界に入れてしまい、吐き気は更にひどくなった。昼間の彼を困らせるような粗相をしてはならない。澄ました顔をしていなければならない。この目の前にある、自分の唾液が付いた溶けかけの乳製品。ひどく気持ちの悪いものに思えた。こんなもの、もうテーブルから叩き落してしまいたい、自分ひとりだったらそれが出来るのに。そんなことを思ったら、心の底からフラストレーションが沸き上がって来た。マグマのようなフラストレーションは同時に怒りを連れてきた。日常の些細な怒りが合わさって、煮詰まり始めた怒りだった。得体の知れないどろどろした生物のような不潔なそれに抵抗することもなく呑まれることが悔しくて仕方がなかった。私は正体不明の怒りを宥めるために視線をテーブルの隅に逸らした。清潔に清掃された石畳が見えた。無機質なものを見ると一瞬、落ち着いた。でもそれは長く続かなかった。もしこの人がここの社員だとしたら、これはこの人が作ったものに他ならない。私はそんなものに心を癒されようとしている。…こんなことにもすぐに気づけないなんて、自分はなんて最低でバカなんだと思った。最低、バカ、という言葉が、私の脳内で点滅し、一人でに脳内を巡った後で悪酔いの後のように消えた。小休止の慈悲を与えられたようだった。

幸いなことに、昼間の私は、困った時には反射的に笑うことが出来た。どんなに追い詰められていても、笑うことが出来る。こういう時はとりあえず笑顔を浮かべれば丸く収まることを経験から知っているのだ。

だからこの時も笑った。顔の筋肉が張っているから無意識のうちに笑みを浮かべていたはずだ。作り笑顔を浮かべて彼の方を見ると、彼はその女性と和やかに談笑していた。私の動揺には全く気付いていないようだった。

妻です、と私を右手で示して言う彼の声で我に返った。

「あ、芹沢くん結婚してるって言ってたね」とあっけらかんと女性が言う。勝ち気な声が鼻についた。気が強い人のようだ。結婚という単語に全くひるんでいない。この人は独身なんだろうか、と思いながら立ち上がって機械的に頭を下げると、向こうもアナウンサーのように整った微笑みを打ち返すように返して来た。私が座る瞬間に、かわいらしいわねえ、とわざとらしいお世辞を言った。私は平均よりも身長が低いのがコンプレックスだ。彼と並ぶとアンバランスに感じるのが一番嫌だった。あと5センチ身長が高ければと常々思っていたものだ。

「結婚してどの位?」

「まだ一年経ってないです」

「へー、まだ若いよね?君」

「そんなでもないです。僕もう25ですよ」

「えー?何それ?私に対する当てつけ?」

「もう、先輩何でも悪く取るんだから。誤解ですよ誤解。全然そんなつもりないですよ」

テンション高めの大げさなリアクション。初めて目にする彼の姿だった。彼は、帆純は、職場ではこんな風に話すのか。部外者の私が入る隙もない会話を焦れる思いで聞いていると、「こちら取引先の部長さん。僕の大学院の先輩」とようやく彼が紹介してくれた。あの人じゃなかった、と思うと、気が抜けるほど安心したが、まだ平常心を取り戻すことは出来なかった。当たり前だ。この人が密かに帆純を狙っていないと言う保証はまだ、どこにもないのだから。

「お若いのに部長さんですか?すごいですね」

「そんなことないわ。社内ベンチャーだから」

「今日はどうしてこちらに?」

「ああ、仕事。接待よ接待。休日出勤でほんとやんなっちゃう」

「……じゃあ僕らがいつも先輩にしてることを先輩は今やってるわけだ?」

「ちょっと、嫌な言い方しないでよ。性格悪いわよあんた」

女性は帆純の顔ばかりを見て会話した後で、ねえ、と同意を求めるように私に対して笑いかけた。困ったような笑みを浮かべると、女性は最低限の礼儀を果たしたとばかりの笑みを返した。帆純は返答とは裏腹の上品な笑みを女性に対して浮かべた後で、私を労わるような眼差しを向けた。少なくとも私にはそう思えた。帆純は上手く交わしているのかもしれないけど、この人は確実に帆純に気がある。笑った後に一瞬真顔になったのが、女の執念の現れのようで、ただ恐ろしかった。私には気を許していないのがあからさまだ。この人は、初対面の人に対してはいつもこうなのだろうか。違う。仕事で間接的に迷惑を掛けるかもしれない私に不愛想にする理由が無いし、現に帆純に対しては普通以上に愛想よく笑っている。この人の中ではもう私に対する宣戦布告は済んでいるのかもしれない。

女性は彼の方に向き直ると、じゃあ、新婚さんのデートの邪魔して悪かったわね、と爽やかに言って元来た方向に走り去っていった。7センチはあろうかと言う高いヒールのパンプスを優雅に履きこなしていた。私があの位のヒールを最後に履いたのは就職活動の時だ。今もしこの場で履いたらよろけてまともに歩けそうもない。そう思うと社会で働く女の余裕を見せつけられているようで恨めしかった。あっちはホテルがある方向だ、と意地の悪いことを思った。

ちょっとアクが強いけど、面倒見が良くておもしろい人だよ、と彼は言った。どの辺がおもしろい?私鈍いから、もっと具体的に教えてくれなきゃ分かんないよ。生暖かい風が私の焦りで火照った頬をわずかに冷ました。あの嫌な浮遊感はいつの間にか消えていた。俯いて、自分の間合いを取り戻すために唇を舐めた。

きれいな人だね、と褒めようとして、止めた。相手がいなくなった後でまで追いかけるようにお世辞を言う自分が惨めに思えたからだ。ソフトクリームは目の前で白い筋を流して溶けかかっていた。もはや食べ物とは思えない。ひどい有様だった。彼は自分のソフトクリームを片付けながら、早く食べないと溶けちゃうよ、という視線を向けて来る。私はそれに気づかないふりをして言った。

「あの人と、いつも仕事をしてるの?」

「たまに」

「接待って料理とか?」

「そうだよ。料亭とか。綾とも今度行こうか」

「……いい」

彼がソフトクリームを食べ終わると、スマホのバイブの音がした。彼はバッグからスマホを取り出すと、テーブルの上で両肘を付いていじり始めた。画面は見えないけど開いているのはLINEで、あの人がメッセージを送って来た。直感でそう思った。

「どうした?具合でも悪いの?」

私は彼のその言葉を心の底から、ずっと待っていたのかもしれなかった。

俯いて頷くと、彼は「どこかで休む?」と聞いてきた。あそこがいい。私はあの人が消えた先のホテルを指さした。いいよ、と彼は即答した。

自分から手を繋いでホテルに行くまでの道すがら、色々なことを聞き出した。

社内ベンチャーというのは、民間のDNA検査のこと。彼女はその営業企画を統括している部長。大学院で学んだ専門知識を駆使して働くバリバリのキャリアウーマンで、独身だけど、事実婚状態のパートナーがいる。押しが強い人だから、僕はちょっと苦手だ、という彼の言葉が、白々しく響いた。仲睦まじいカップルとして周囲に溶け込んでいるであろう私達の繋いだ手の中を、白い水のような嘘が伝う感覚が耐えられず、繋いだ手をわざとらしく解いて、握り直した。

はっきりと分かったのは、あの人に逆らうと、彼が職を失うことになる、ということだった。それは私達の生活の崩壊も意味する。思えば全部可能性があったことだし、いつ起こっても不思議はないことだった。取引先に女の上司が現れて、彼とやり取りをするようになること。女の先輩と仕事で再開すること。そのいずれか、そしてその両方。予測しようと思えば出来たことかもしれない。足りなかったのは、私の覚悟。それだけだ。結婚したから安泰と言う訳ではない。絶対にない。私も彼も、そして半分鎖に繋がれている、あの人も。でもあの人はそういうことを気にしない人のように思えた。法律は妻である私に味方する?実体の無いものに守られたとしても、それは透明なバリアで自分を守っていることに過ぎない。私が生きているのは人の世界。いくら法律でも、人の視線と噂話は避けられない。もし仮に法律を盾にやり込められたとしても、彼はいい見世物になるだろう。今の会社には絶対にいられない。もしそんな状況になったら、私は喜べるか。彼を見下して笑えるか。

……出来ない。愛する相手が苦しんで喜ぶのは鬼だけだ。浅ましい。私はそんなものにはなりたくない。

LINE交換をしていたとしても、別にいい。仕事でLINEを使う会社も多いって聞くし。女の先輩と仲良くしてても別にいい。何なら元カノだったとしても別にいい。付き合ってから一度も彼はあなたの話をしなかったよ。それは元カノだったとしても彼の中ではもう過去の人になっている証拠じゃないの。私が意識するあの人、あの人ほどじゃない、そうでしょう。

土日にも拘わらず、テーマパークのホテルのチェックインはあっさりと完了した。彼の会社の福利厚生で、優待枠があるらしかった。

今すぐに、記憶を上塗りしなければいけない、と思った。外界のメルヘンの延長のような内装のホテルの中で、私は彼に奉仕することだけを考えていた。

部屋に入るなり、私は彼のパンツに飛びついて、脱がしに掛かった。彼はわっと、慌てた声を出した後で、笑った。え?ちょっと、綾……何?どうしたの?急に?ああ、また笑い話にしようとしている。全部分かってるくせに。…本当にこの人は、どうしていつもこうなの?頭は妙に冴えているのに、はらわたは煮えくり返っていた。今頭の中で言った言葉が、自分の感性が言わせたものか、理性が言わせたものか、分からない。部屋の真ん中にはダブルベッドがあった。彼を半ば追いやる形でベッド脇まで追い詰め、動揺した彼の隙を突く形でありったけの力を込めてベッドに押し倒した。私は彼の腰の上に馬乗りになると、引っかかっていたパンツとその下のボクサーパンツをはぎ取って、彼の下半身を露出させた。とうとうやってしまったと、興奮していたのは私だけで、彼はこんなことをされても、心の底から冷静なように思えた。残酷な現実を目の当たりにしたことで、私は何かに追い詰められるような苦しさを感じた。逃れるために、ただ焦った。ここで初めて、自分が服を全然脱いでいなかったことに気付いた。家のベッドルームよりも明るい蛍光灯の白い光の下で、彼は観念したように自分の白いシャツを脱ぎ出していた。私はブラウスのボタンを急いで外しにかかった。手が震えてなかなか外せない。がちゃがちゃやっているうちにボタンが一つ取れて飛んでしまった。構うもんか、と思って脱いだスカートと一緒にすると、ベッド脇の壁目掛けて叩きつけた。自分の怒りを彼に示したかったからこうした。投げつけた服が当たった壁の近くにはテーマパークのメインキャラクターが水彩画タッチで描かれた絵画が掛かっていた。惜しい、あの絵にもろにぶつかれば良かったのに、と心の中で毒づいた。彼もベッド下の床に自分の着ていたセーターを放っていた。

私は彼の下半身に顔を埋めると、彼のものを口に含んだ。ひどく痺れるような苦味を舌の上で宥めながら、舌で彼のものをそっと撫でたり、包んだり、つついたりしていると、彼のものが膨らんで、口の中が圧迫されて苦しくなって来た。予想よりも早かった。怒っているから雑にすると思ったのに、予想が外れたから戸惑っているのだろうか、と思った。息が詰まらないように、鼻呼吸を意識した。ぴちゃぴちゃという、自分が舐める音を聞きながら、行為に集中した。彼は初めは大げさにくすぐったがっていたが、そのうち静かになって、ため息のような吐息を漏らし始めた。初めてこうした時、彼はほとんど声を出してくれなかった。それが寂しくて、自分だけすぐに声を出してしまうのが悔しくて、現状維持のままでいることがただ不安で、どんな風にすれば感じてくれるのか、一人でいる時に不安になって、及第点なんだから別にいいと開き直ることも出来なくて、情けなさを感じながら、毎日、調べたりもしたのだった。今では時折声を出してくれるようになった。不意に漏らす声が増える度に、彼が少しずつ心を開いてくれていると思った。作り物の声じゃ無いと感じるたびに、不安で押しつぶされそうだった過去の時が、白く上書きされて昇華されていく思いがした。彼の心を繋ぎ止められることほどうれしいことはない。繋ぎ止められたと感じた日には、彼への愛しさが心の底から自然と湧き溢れ、身体の中から溺れそうになっていた。

今日は彼を徹底的に気持ちよくさせてやる。もう嫌だって言う言葉を聞くまで、止めない。彼は全裸だったが、私は白レースのパンティ一枚だった。五十歩百歩でも同じ全裸じゃないだけ有利だと思った。小柄な清楚系と褒められるのは嫌ではない。でも外見そのままの性格だと、勝手に舐められて、好きなものを簡単に奪われてしまうことを私は学生時代の経験から学んだ。一度母に相談したこともあるが、抵抗しない方が悪い、と笑われた。やられたらやり返せばいいじゃない。情けない、と高笑いをする母を見て、この人のこういう所は一生嫌いだ、と思ったものだった。やり返したらただの女の罵り合いになってしまう。プライドの高い母は自分を客観的に見たことが恐らく一度もないのだ。こちらは人間だと思っていても傍から見れば二匹の猿の罵り合いにしか見えない。現に私がこれまでに目にした女同士の話し合いで、人間同士の話し合いだと感じたものは一つも無かった。

だから自分の武器で自衛する。自分の身体に自信がある女は痛いだろうか。でも私は、そんなの気にしてられない。私はこの白レースのパンティ一枚の格好が自分の性的魅力を一番自然に惹き立てることを、自覚している。男慣れしていない澄ました少女のような顔には、まな板のようなぺったんこの胸が似合うはずなのに、私には平均よりもワンサイズ大きな胸が付いている。食に興味が無い性格はダイエット向きだった。退屈な反復運動を日課にするのはずいぶんと苦労したけどね。ウエストはくびれていてお尻は胸と釣り合いが取れる程度の大きさがある。太ももから下は顔の印象と同じやせ型で、子どもの頃に少しだけバレエをやっていて、先生に足の骨格のラインを褒められたこともあるから、足の長さは高身長の子に負けても、形は悪くないと思う。肩までのストレートの黒髪と色白の肌も、学生の頃にきれいだから欲しいと思って努力で手に入れたもの。白レースはそれらを引き立てるから、自分で選ぶ時は、良く着ている。

初めて付き合った相手に下着姿でこの身体を見せた時、顔から胸、ウエストのラインを舐めるように何度も見られた。他の男の子なら構わない。同い年でものすごく気が合う、親友に近い友達だったはずの男の子が、欲望剥き出しの糸を引くような視線を至近距離で浴びせ掛けて来たことがショックだった。今思えばひどい話だが、裏切られたという思いもあった。

帆純と付き合った頃に、彼も同じような視線を向けて来るに違いないと考えた私は、先手を打って積極的に振舞った。ベッドに座るなり彼の首に自分から手を回して、自分からキスをした。出来るだけキスを長引かせたかったから自分から舌を絡めた。こんなキスをすること自体初めてだったが、ぼろが出る所まで自分がリードするつもりで行けばいいと思っていた。あの時、キスを繰り返しながら自分で服を脱いで、彼に跨った時に、彼が私の両ふくらはぎを撫でた。撫でられた所に電流が走るような快感が走って、私は思わず喘いでしまった。それがきっかけで理性がぐらつきだして、動きに隙が出来て、彼がその隙を突く形で私の胸を鷲掴みにして揉み始めたのが最後、理性が粉々にはじけ飛んで、あの後はされるがまま、最後まで彼の言いなりになってしまった。

思い出したくない初体験の記憶。後になって聞いたことだが、彼は最初は私を遊んでいる子だと思って警戒したけど、服を半分脱いだ辺りから無理をしていることが分かった。指摘するのもかわいそうだから、騙された振りをしていたそうだ。それを聞いた時にひどいと思った。そしてからかい上手の彼に対しても自分がこれ以上惨めにならないために、自衛が必要なことを悟った。

そして今は、ようやく対等になれていると思う。私達が一緒に過ごした時間を切り取って縦に並べてみる。彼が攻めた時と私が攻めた時の割合はほぼ同じになっているはずだ。

彼が歯の隙間から声を漏らした。苦しそう。男の人が昼間、こんな風に声を出すことなんて、めったにない。でも当たり前。だって彼が一番弱い裏側から先端にかけてを、さっきからずっと攻めてるんだから。

でもすっごくかわいい。ずっと聞いていたいから、もうちょっといじめてみよう。彼の下半身から身を起こすと、彼のものが重力に逆らうみたいに、シーツに垂直に屹立した。見てるこっちが恥ずかしくなるほどいやらしい、と思いながら、私はそれを右手で掴んで、人差し指でじらすように根元の周りを撫でた。手のひらで包み込んでひと擦りすると、二人分の分泌物が混ざった粘液がぐちゅっ、と音を立てた。思わず吐息を漏らしそうになったのを唇を噛んで堪えた。いつも私が彼に言われている気がする言葉、今日はどこまで楽しませてくれるの、その言葉を頭の中で唱えた。私の頬は自然に火照っていくだろう。そして彼はそんな私を恨めしそうに見て、また興奮する。しばらくぶりの奉仕させる側の快感に全身が包まれた。快感を確かめようと、速度や、指の絡め方でじらしながら繰り返した。繰り返す度に彼はベッドの上で苦しげな声を漏らして悶えた。

彼が寝返りを打つ度に、頑丈なはずの木製のダブルベッドがギシギシとしなる。今では室内の音の一つ一つに、彼の本心の動揺が伺えるようになった。本当なら、自分の力で起き上がって、すぐに私を攻められるのに、しない。こうやって責められるのが好きだから。攻めることしか知らなかった彼にその快感を引き出して教えたのは私だ。毎晩少しずつ、押したり引いたり。身体と精神がひりつくような長期戦だった。だからうれしくて仕方ない。私の眼前に映る今の彼は、まるで、女の小人にいたずらされている裸のガリバーみたい。そう考えると心の底から愉快になった。

右手を彼のものから離すと、川を遡るように彼の傍らにすり寄って、彼の耳元に口を付けた。

「今、一番やらしい音した」

「……」

「手べちゃべちゃになっちゃったよ、ほら」

「……」

私は彼の目の前にべたべたになった右手を広げると、人差し指の先を見せつけるように口に含んだ。わざとらしくならない程度に吐息を漏らしながら、爪の先を舐めてきれいにする。中指、薬指も同じように舐めながら、次の展開を考えていた。いやらしいのは彼だけじゃない。私だってパンティの下は彼と同じ位ぐちょぐちょになっている。我慢出来なくて、シーツの上で媚びるように腰が動いてしまっていたのを自覚していた。本当はパンティなんかはぎ取られてしまって、彼のもので後ろから、あそこが壊れるほど激しく突かれたいのに。でも今は、そんな願望を見透かされていなければいいと思っていた。

私は残りの指に残った粘液を、薄桃色に火照った乳首に擦り付けるように付けた。こうすれば自分が興奮するし、これを見た彼ももっと欲情するからだ。

「……綾、お前が怒ってるのは分かったよ……」

「……」

「……あの人はただの先輩だよ……俺とは付き合ってたとかないから……だから、…もういいだろ、もう我慢するの無理だよ……」

「…………だ、め」

言葉を切るようにして懇願する彼の要求を、私はじらして撥ね付ける。私は再び彼のものに手を伸ばした。自分のことを俺と言い始めたから、本当に限界なんだ、と分かった。今度は先端を頭を撫でるようにいじる。いじりながら、「そんなに我慢できないなら、一人ですればいいじゃん。目の前で見ててあげるよ」と諭すように言った。

相変わらず私の腰は擦り付けるようにシーツの上で動いていた。さっき移動する時に彼の腕に擦り付けておねだりしたかった。でも我慢したから、私はまだ大丈夫そう。だったら、させてあげない。一回目は中でなんか、させてあげない。

私は再び彼のものを右手で包み込むと、彼の苦悶の表情を鑑賞しながら、ゆっくりと右手を上下させる。徐々に加速を速めるが、彼がイキそうになったらわざと速度を緩めてお預けを食らわせる。悪魔みたいな生殺し。悶える彼の姿をかわいい、と思う度に欲求不満が募るのが切なく、こちらも右手を動かすたびに吐息を漏らした。気づけば右手を動かしながら、左手の人差し指を物欲しげに口に咥えていた。

5

10分程度経った頃に、私の方の我慢も限界に達した。体の輪郭の形にシーツを濡らして、おでこに脂汗を掻くようになった彼は、時折正気に戻るものの、じらしている時は真性のMの男性のような、気弱で虚ろな灰色の眼をするようになっていた。もう私を意識的に見ることもなくなり、視線は天井に向くことが多くなった。今の私しか見られない光景だと思うと優越感でぞくぞくはするけれども、いつもの帆純から魂が抜けたようで、物足りなくて不安な感じ。身体も、身体中の筋肉が弛緩して、虚脱しているように見えた。明らかな止め時だった。

私は足を大きく広げる形でシーツの上に座り直した。この形で座ったのは、彼をイカせるのに集中するためと、自分のパンティが今どうなっているかを晒して誘惑するためだ。

私は右手を加速を付けて動かしながら、彼を愛し気に見つめた。勢いが強まる度に、彼の目が生気を取り戻す。やがて彼の目はSを連想させる野性味を帯びて来た。恨めしそうに私を見た彼と視線が絡んだ時に、被虐の欲望で身体の芯からとろけそうになった。この時に彼と一番長く視線を交わした。責めている時、徐々に灰色の眼になっていく彼とは、いつも点でしか目を合わせられない。こちらから視線を逸らしてしまうのだ。小悪魔を演じ切れない負い目と、彼のことを、女の本能の部分では怖がっている、という弱みの両方が、そうさせるのだろう。でもここで手を止めたら、どうなるだろう。きっと彼は私に懇願する。イカせてくれって。お願いだからイカせてくれって。それだけは本当でしょう。あの時みたいに。そうでしょう。私は固唾を飲むと、ベッドを激しく揺らす勢いで彼のものを激しく擦り始めた。バカみたい。どこも触られてる訳でもないのに、いつの間にか勝手にいやらしく喘いでる。腰まで振ってる。激しい動きにかこつけて。耳元で自分が自分を責める声がした。私の理性が私の感性を責める声。はっきり聞こえた。聞きたくない。聞きたくない。帆純、助けて。この声が聞こえなくなるほど早く私のことぐちゃぐちゃにして。気持ちいこと以外何も考えられない位、私のことぐちゃぐちゃにしてよ。

束縛された快感の狭間で、彼のものを左手も使って、粘液を泡だらけにする勢いで擦り上げていた。やがて私の両手の隙間から、白濁した精液が勢い良く噴き出した。飛び散った精液が、私のお腹とパンティを汚した。パンティを履いたまま、徹夜明けの彼にされた時のことを思い出した。

私は枕元のティッシュを無造作に取ると、彼のものを拭き、自分の汚れた身体も拭いた後で、小さな子に自分のやったいたずらを示すように彼に汚れたティッシュを広げて見せた。

「こんなに出して、やらしいな」

「……」

声、震えなくて、良かった。彼は力が抜けた様子で、ぐったりとしていた。胸元では程良く締まった大胸筋が規則的に上下している。身体を休めながら、頭では射精の余韻を記憶を反芻しながら楽しんでいるようだ。今はもう、話しかけない方がいいみたい。彼の体力が回復したら、私が攻められる番。だから、機嫌を損ねられたら、困る。

私はベッドを離れると、冷蔵庫を開けた。インテリアに調和した、海外製らしき木製扉の中型冷蔵庫の中にはミネラルウォーターのペットボトルが5本入っていた。私はミネラルウォーターを2本出した。1本を彼に渡した後、もう1本の封を切って飲む。身体が汗を掻きすぎていたのだろうか、飲んだ水が即座に身体中に染み渡っていく感じがして、飲むのを止められず、一息で半分まで開けてしまった。ミネラルウォーターをサイドテーブルに置いて、バスルームの扉を開けた。ホテル特有の大きな三面鏡の脇にあったバスタオルを2枚取って戻ってくると、彼はシーツを引き上げて下半身を隠した状態で、ミネラルウォーターをビールを呷るようにして飲んでいた。緩くウエーブがかった黒髪の毛先が汗で濡れていた。まだ虚脱感が抜けていないようで、右腕を後ろに回して、肩で息をしながら、けだるそうな顔で天井を睨んでいた。

バスタオルを彼に渡すと、私はタオルで体を拭いて軽く身体に巻いた。窓際に行き、リゾート風の木製ブラインドを指でずらし、時間潰しのために外の景色を眺めた。パンティの中はとうに冷たくなっていて、生地が肌に張り付いて不快だった。でも、その冷たさが私の頭を冷静にもしていた。10階の部屋だったから色々なものが見えた。絵の具の空色を水で更に薄く伸ばしたような空には、細く長い雲がたなびいていた。その下にはテーマパークの目玉のアトラクションの一部が見えた。観覧車、ジェットコースター、ウオーターライドなど。狭い一角にひしめき合っているそれらの入場口を、ジグザグに点で繋ぐように移動機関車の線路が走っていた。その下にあるのはテーマパークのキャラクター達が描かれた原色の建物の街だ。室内アトラクションやレストラン、お土産屋等。甘いお菓子のような外観のそれらの間をアリの群れよろしく、家族連れやカップル達が忙しく行き交っている。ここから飛び降りたら、即死だろうか。飛び降りる勇気もないのにそんな残酷なことを思った。

この部屋はある意味、空の上で隔離されているようなものだから、下界の喧騒はここまでは届かない。だから窓から見下ろす景色は、音を消した映像を見せられているようで、ここがお金を払ってパッケージングされた幸せを楽しむ場所であるということが、よく分かる。私達もさっきまで、あの中に紛れていた。でも今はここで、違う時を過ごしている。私達は、いや私は、あそこに紛れることは出来ても同化することは絶対に出来ないだろうと思う。なぜなら、私は本当はもうずっと前から、パッケージングされた幸せの嘘に気づいてしまっている。嘘に気づきながらその幸せを甘んじて受け入れるなんて、真綿で首を絞められながら生きていくみたい。現にあそこにいた時に、ずっと息苦しかった。……私の現実は正常に上書きされたみたい。良かった。だって現にもう外の光景を見ても、良く出来てるとは思えても、きれいだとは全然思えないから。

「綾、おいで」

ベッドの上で私を呼ぶ彼の声は、いつも通りの優しい声だった。振り返ると、彼はベッドの上で半身を起こしていた。伏し目がちに、しなを作って彼の傍らに座ると、巻いていたタオルをはぎ取られて、右手で腰を抱き寄せられた。私は不意に腰を抱かれたり、くびれに手を回されたりすると弱い。男の人に触られている、いけないことをされている、と必要以上に意識してしまうのか、服の上からでも感じてしまうこともある。好きな人ならなおさらだ。座り直すふりをして身をよじって意識を逸らそうとしたが、彼の右手も私が動く度に追いかけてきて、逆効果だった。

彼は私のくびれを下から上に撫でた。思わず彼の真正面に手を付いて吐息を漏らしてしまう。飼い主にお腹を撫でられてる猫みたい。綾はこれ、弱いんだ?彼が確認するように言う。私は俯いて頷くと、弱点晒しのリカバリーのために、彼の首筋に手を回してキスをした。

舌を絡め合う最初のキス。時折彼のタイミングで、息継ぎをするように唇を離す。視線を絡めた後で、もう一度相手の唇の味を確かめるように、また唇を合わせる。そんなことを数回繰り返した後で、私は彼に馬乗りになった。ふくらはぎを渡した時に彼の回復したものに触れた。パンティがまた、ぐしょぐしょに濡れ始めていることに気づいた。お辞儀をするように顔を下げて彼のものを軽く口に含んで舌でもきれいにした。右手をあてがった状態で、おねだりをするように彼を見つめる。

「綾は俺のこと好き?」

「うん……帆純は?」

「俺も好きだよ」

「……前の彼女より?」

「どの彼女?」

「前話してくれた彼女、本が好きな」

「ああ、あの子」

「あの子より好き?」

「……うん、好きだよ。好きじゃなきゃ結婚しない」

「……」

「少なくとも、あの子は綾みたいにセックス上手くないよ……綾より2つ年上だったけど、どっちかって言うと、セックスがあんまり好きじゃないみたいだった」

彼は私を宥めるようにキスをした。上手くごまかされたと思ったが、彼の方はもう焦れているようで、「セックス以外では、私のどこが好きなの?」と問い詰めることは出来なかった。私は彼から目を逸らした。極論、私の奉仕が彼の中であの人に変換されて楽しまれていたかもしれないってことか。彼は、俺と言っていたのに。私の名前だっていっぱい呼んでいたのに。

考えれば考えるほど、泥沼にはまりそうだった。自分の中で捏ね上げた仮説のようなものはあった。その仮説の結論では、彼はあの人をけして忘れられない。覚悟は出来ていた。でも。彼に少しずつ教えてもらった事実が、今、矢印と疑問符で繋がれて、円になり、脳内で無限ループのように一人でに回り出してしまったのだ。円状の刃物になったそれが、私の心を切り裂いていく。自分で自分の墓穴を掘ったかもしれないことが悔しくて悔しくて堪らなかった。言葉で胸がえぐられるとはこのことだ。そう思ったら、実際に胸が張り裂けそうに痛み出した。自分が気づいてないだけで、私はもう、魂だけ抜け出て、窓際から落ちていたのかもしれない。

「綾はこれからどうして欲しいの?」

「……」

「何もして欲しくないわけないだろ?」

「……後ろから、して欲しい」

「……本当バック好きなんだな、お前」

私は、私は平静を取り戻すために彼にキスをせがんだ。彼の右手が私の顎を掴む。そのまま顎の下を宥めるように撫でられていく。今度は犬になった気分だった。私の舌が、さっきよりも震えていたことに彼は気づいているだろうか。絶対に気づいていない。そう思うと、やり切れなさがこみ上げ、彼があからさまに焦れるまでわざとキスを長引かせた。

彼は半ば強引に唇を離すと、私に後ろを向いて腰を上げるように言った。

言う通りにすると、彼にパンティを見せつけるような姿勢になった。自分の恥ずかしいものが彼の手に届く位置にある。恥ずかしさで俯いてしまう。さっきまでは散々見せつけて、誘惑していたのに、いざ向こうに責められると思うと、小さな恐怖が芽生えた。こんな時、私は策士にはなり切れないと心底思う。根が臆病。心の底では人を怖がっている。

「綾、自分でパンツ降ろして」

「……はい」

「綾だってぐしょぐしょになってるじゃん、何でこんな風になってるの?」

掠れ声で、ごめんなさい、と謝った時に、声が上ずってしまった。自分の言ったことに自分で興奮しているかのように、ぴくん、と腰が動いた。彼はそれを見逃さなかった。ぱしん、と勢い良く肉を打つ音が部屋中に響き、お尻の右側から焼けるような痛みが逆流するように襲って来た。目に涙が浮かんで、悲鳴を上げまいと食いしばった歯の隙間から、荒い息が過呼吸のように激しく漏れる。

痛みは脳内を散々暴れまわった後に、皮膚の隙間から抜けていくように引いていった。叩かれたお尻の右側には痺れが残った。

彼は私の耳元に顔を寄せると、優しい声で囁いた。

「叩いたりしてごめんね。でもさっき綾が俺を散々いじめたから、俺もこうしないと、いけないと思ったんだ」

愛し気に私の頭を撫でながら言う彼に、涙目で頷く。彼は私の涙を人差し指で拭うと、子どもに微笑み掛けるような笑みを向けた。

満足したように自分も頷くと、彼は再び右手を振り上げた。

もうどうにでもなれ、と思ったら、痛みがふっと消えた。私は被虐の海に沈んだ。海の水は甘いことを私はしばらくして知った。私はその水を、溺死寸前まで飲み込んだ。

6

けしかけたのは私の方だけど、あの日以来、彼は私のお尻を叩くのも癖になったようだった。私もお尻を叩かれたことなんて幼稚園の時に一回きりだったから、あの時は透明な手で頬を同時にぶたれたのと同じ位の衝撃が走ったのだけど、心の底では嫌ではなかったのだろう。時間が経つにつれて慣れが出てきて、皮肉なことに彼と遊ぶための新しいおもちゃが増えたような感覚に陥っていった。

ホテルでは、お尻の痺れの余韻が残った状態で服を着た。部屋を出る間際に、洗面所の鏡でお尻を見ると、真っ赤に腫れ上がっていた。

帰りの電車の中で座る度に、お尻の痺れが、記憶が蘇るように微かにぶり返して来た。彼と話をしていた途中にそれが来て、目を逸らしてしまったら感づかれた。開き直って、彼をそれとなく見つめたりしていると、彼は最初は澄ましていたけれど、そのうちバツの悪そうな顔になり、他愛ない話の合間に埋め合わせをするように繋いでいた指を絡めたり、私の腰をいたわるように引き寄せたりした。昼間、外で彼に抱かれた後は、彼に触られた所がずっと赤くなって熱を持っているような感じになる。そんな時は、熱が落ち着くまで、自分で自分の身体を抱きしめていたくなる。でもその熱を抱いたまま、私は何事も無かったような顔で昼間の私に戻らなければならない。

「綾といると、たまに、自分の知らない自分がいつの間にか出てくる感じになるんだよ」

「そうなんだ」

「綾は、そんなことないの?」

「私も、たまにある」

嘘。大嘘。自分の知らない自分なんかいないよ。あなたのために私はいつも狂ってる。あなたのために自分がおかしなことしてるって、いつも私、自覚してるよ。

私はあなたのことが大好きだけど、外で働いているあなたには、他に考えることがたくさんある。私のことをずっと考えてるわけにはいかないよね。だからあなたの愛を繋ぎ止めるために、私なりに考えて動いてるんだよ。本当はこうしないと、不安で仕方ないんだけど、そんなのあなたは知らないし、関係ないことだよね。

……でもね、最近なぜか昔を思い出すの。私、学生時代の最後にあなたと出会って、一度も社会で働くことのないまま、結婚したでしょう。あなたと出会った日、私は寝不足で、体調が悪かった。前日に選考中の企業の結果が一気に出て、就活の持ち駒が一つだけになって、全然寝付けなかったから。ダメ元だったとしてもこの会社の説明会には絶対参加しないとまた落とされるって思って、会議室の一番後ろの目立たない席に座ってスライドを見てた。遅れて入って来たあなたが、私の隣に座った。地域ごとの合同説明会だから文系も理系も一緒だったんだよね。途中ペアになって話し合いみたいなこともやらされたから、説明会が終わる頃には顔見知りみたいになった。京都から高速バスで来たんですって聞いた時は、びっくりしちゃった。なんでって。京都の説明会に大学院の都合で参加出来なかったって聞いたから、大変だなって思ったけど。あなた気さくで優しかった。周りの目を気にしてたのかなって思うけど、あの時は、ああいうのが、年上の余裕なのかな、ってちょっと思った。でもどんなに仲良くなっても、説明会だから大抵その場限りでさよなら、って感じになっちゃうよね。あなたの場合もそうなんだろうって思ってたけど、筆記用具や渡されたパンフレットの束をバッグに閉まっても、席を離れないから、変だなって思ってた。あなたが行かないと私は楽になれない。移動でバタバタして疲れてるだろうから早く帰ればいいのに、さっさと行けばいいのに、って思ったら、あなたがいつまでも動かないことにイライラしちゃって、席に座ったまま「じゃあ、さよなら」って目も合わせずに言った。声に怒りが滲み出ていたのが自分でも分かった。今までの演技が全部パーだよ。普段だったらあんな態度、誰に対しても絶対に言わない。でもあの時は言った。思い通りにしない態度を取るあなたに対して、変な意地が出て、嫌なやつだと思われてももう会わないだろうから別に構わないって思って言った。そしたらあなた一瞬目を伏せた後で、私の目を見据えて「大丈夫ですか?」って聞いた。バカにしてるのと思った私が「どういう意味ですか?」ってけんか腰に聞き返したら、ためらいがちに、顔色が悪いから、もしかしたら説明会の時からしんどかったのかなって思って、て。あっけに取られちゃった。全然知らない、ただ隣にいただけの他人なのにどうしてそんなこと気にするの、って。あなたにそんなこと関係ないじゃん、って言葉が後から湧いたけど、あの瞬間はそんなことを考える前に、何も言えなかった。本当は、あの言葉を聞いた瞬間に、負けたって思ったのかも。

こんなこと言うの悔しいけど、あなたってすごいね。遅刻してきたのに、あの後の選考も全然だめだったってLINEで言ってたのに、蓋を開けたらあの企業の内定すんなり取っちゃうんだもん。

でもたまに性格悪いよ。

あの時のデートでも、あなたは内定取ったことすぐに私に伝えなかったよね。私の就活の結果の話を先に振って、愚痴を聞き出すみたいにして。あれ、今でもひどいと思ってる。でも、全部いっぺんに解決する方法あるよ、って、ふと思いついたみたいに笑った時のあなたの顔、無邪気な子どもみたいで本当にかわいかった。今でも覚えている。一番好きなあなたの表情だよ。これからもずっとそう。

だからあなたが私に結婚しようと言ったのは、子どもみたいに一緒にいたいって純粋な気持ちからなんだって、信じてる。私に対する哀れみなんかじゃないって、信じてる。

でも、夢を見てしまうの。あなたの隣で寝ているのに、あなたの夢じゃなくて、外で一人で自由に駆け回ってる夢を見てしまうの。

ねえ、一つだけわがままを言ってもいい?あなたに守られている生活は好き。あなたの愛を繋ぎ止めるために、利口なペットを演じることが必要なら、それでも構わない。でも時々あなたの残像なしで、一人になってみたい。一人で外の空気が吸ってみたいの。あなたと出会う前みたいに。私が一人だった頃みたいに。

「最近忙しい?」

「うん、まあまあ」

「家帰ると、ぐったりしてるから」

「……そんなに疲れてる?俺」

「うん」

「……」

「……花とか好き?」

「……うん」

「どんな花が好き?」

「……好きな花は特にないけど、花なら大体好きだよ。嫌いな花が無いって感じ」

「……そう……あのね、駅前の花屋さんでね、アルバイト募集してた。余った花とかもらえるかもしれない」

「……花なら今は定額で届けてくれるサービスがあるらしいよ。それ使う?」

「……」

この話をした日、彼はソファーで定期購読している科学雑誌を読んでいた。この雑誌を読む時に話しかけるといつもこうだ。視線を雑誌に落としたまま、読みながら答えてる。

彼はここにはいつもおもしろいことが書いてあると言うけど、私は書いてあることが辛うじて理解出来ても、そのおもしろさを人に説明出来ない。

彼は私に向き直ると、こう言った。

「毎日家にいるの、しんどい?でも出来れば、俺は綾に家にいて欲しい。俺のわがままかもしれないけど、帰って来た時にいつもただいまって奥さんに言われたい。それに……綾みたいな子を一人で外に働きに出したら、こっちは色々心配になっちゃうよ」

「何それ……そんなことないよ。考えすぎ」

「でも俺は家にいて欲しいの。今は何でも家で出来ると思うよ。綾は家のことだけちゃんとやってくれればいいよ。空いた時間は自分のことに使えばいい」

「でも、共働きでもいいよ。家事も今までよりもっときちんとするから」

彼は面白い冗談を思いついたかのように、本当は綾が策士だから心配なの、と言って笑った。そんなごまかし方ってない。雑誌をソファーテーブルに置くと、そのまま私をソファーに呼んでキスをする。宥めるように私の顎下を撫でるのが、ごまかされているようで嫌だった。私が俯くと、「寂しいなら動物飼う?熱帯魚とか、花みたいできれいだよ」と笑う。熱帯魚なんかいらない、と呟くと、彼は苦笑した。子どもが駄々をこねていると思っているのだ。「私は、策がほとんど成功しない策士、でしょ?」と畳み掛けると、彼は、綾は自分の罠に自分で嵌って捕まって、縄でぐるぐる巻きにされてる所が一番かわいい、と言う。本当にそうなのかもしれない。でも一番は、早く続きが、したい。

彼の顎下をさっと撫でた後で、トイレ、と冷たく言うと、私は彼を押しのけた。その足で廊下に出て、突き当りの物置部屋に行く。そのまま入ると、内側から鍵を掛けた。

結婚してすぐの頃、同じような喧嘩をして外に出た時に、はっきりとは言わなかったが、彼は私を探さなかったようだ。喧嘩をした時に、私が実家や友達に頼るようなタイプではないことを彼はよく知っている。お金が無くなったら帰って来ると思っていたようだ。その通り。それが一番合理的な方法。それを知ってからは中で籠城することにした。結局、この方法が今は一番彼に効くのだ。ある意味、私がそう調教した。彼だって四六時中見張れるわけじゃない。ここだと、彼がトイレに行った隙に何でも取ってこれるし、捕まったとしても隙を付いて逃げられる。彼の心の弱り具合が、リアルタイムで分かるのもいい。前は6時間籠城した。今日は何時間になるだろうか。

部屋の隅に重ねてあるお客さん用の布団に寝転がって息をつく。心臓がバクバクしているのが恨めしかった。綾?綾ちゃん?私を探し始めたようだった。私を呼ぶ声が近づいて来てドアの前で止まる。「またここにいるの?」と勝ち気に呼びかける声がした。しばらくしたら猫なで声になって、後は一時間おき位に声を掛けるようになるのがいつものパターンだ。辛いのは彼だけじゃない。私だって辛いのだ。だって現に私は彼の声が恋しくなっている。でも、前にお互い一人でするのは辛いはずだよ、とドア越しに言われた時は、彼のしたり顔が勝手に頭の中に浮かんで、軽い殺意を抱いた。

……こんなことをしても、井の中の蛙だってこと、分かってる。本当は、心の底ではもう自覚している。私の居場所はもう外には無いということ。

心の底からバカみたいって、思う。でも分かってるからこそ、何もせずにはいられない。じっとしていたら、気が狂う。

7

横浜みたいな所。それが私が感じた神戸の第一印象だった。彼が大学時代を過ごしたという関西の街に今、初めて来ていた。私は東京生まれだから、関西は大阪と京都にしか行ったことがない。行ったことのある友達から、横浜に似た所だよ、とは聞いていたけど、実際に行ってみると、横浜よりも全体的にこじんまりとした街のように思えた。彼がお世話になった教授の主催する学会発表の手伝いのために、私達はここに来た。旅行も兼ねて私も付いて来ればいい、と彼に言われたからそうした。

品川から新幹線に乗って、新神戸で降りて、電車に乗り換えてここまでやって来た。ここは彼の大学の最寄りで、三宮という所なのだという。駅から南に中華街、北に行けば坂を上った所に外国人居留地がある。中華街には午前中立ち寄った。横浜のミニチュアのような街だが、細部には独自性があって、小さいけれど油断ならない、したたかな街という印象を抱いた。

教授に仕事用の資料を渡しそびれたからここでちょっと待ってて、と彼は言った。大学までもう一度戻ったのだろうか。私が残されたのは神戸ハーバーランドという観光地だ。神戸では人気の観光地なのだという。近代的な港を模した一角にショッピングモール、映画館、海産物専門のレストランや輸入雑貨のショップが集められている。地元のデートスポットでもあるのか、建物の周りのウッドデッキには、ベンチがやたらと多かった。

私はそのベンチの一つに座っていた。正面には、白い鋼鉄の手すりが広がっていた。この一角をぐるりと囲むように設置された手すり。手すりの向こう側には、群青色の海が広がっている。

初春の快晴の空の下で、海風が私の頬を撫でる。磯の香りが風に乗って香って来る。遠くでカモメみたいな鳥の鳴き声がする。どの辺で飛んでるんだろう、もっと近くで見たい。そう思った。彼が脱いでいったコートとお土産の紙袋をそのままにして、ベンチから立ち上がり、手すりの方に走った。

手すりを掴んで空を見上げると、白い鳥の一群が白い半円形の形をしたホテルのような建物の上を飛んでいた。キュウ、キュウと切なげな声で鳴く。人の心を持っているみたいだ、と思うと、鳥に自分を重ねてしまって胸が痛み出した。心の中で声がする。ここが横浜だったら良かったのに。これが夢であればいいのに。海風は私の頬を撫で続ける。知らない土地の知らない風に慰められていた。思わず空に向かって手を伸ばした。

「お待たせ」

振り向くと、彼が笑顔で立っていた。ここ気持ちいいでしょう、とリラックスした声で言い、私の左隣にやって来て手すりを掴む。恥ずかしくなった私は空に伸ばしていた手を慌てて引っ込めて、再び手すりを掴んだ。彼は大きく伸びをした。この、彼にとっては思い出の場所らしい、平和な観光地の空気を心から味わうかのような大きな伸びだった。本当に気持ちよさそう。一仕事終わってほっとしているのだろう。ここの所忙しかったからか、彼は新幹線でもずっと眠っていた。私は窓から外の景色を眺めて過ごしていた。機内販売で早めの昼食を買い、ペットボトルの冷たいお茶を彼の頬に押し付けて起こした時以外は、一言も口を利かなかった。

「懐かしいな、ほんと懐かしい」

彼は目を細めると、心の底から幸せそうに、言った。恐らく、彼にとってこの光景は神戸という街の象徴なのだ。学生時代の思い出の場所でもあるから、この光景の全てが愛しいのだろう。あの人とも何度もここに来たのかもしれない。午前中に新しい場所を訪れる度にそう思った。新しい場所を見るたびに胸を締め付けられる感じを覚えたこともあった。が、不思議とこの場所だけはそうならなかった。鳥のせいだろうか。でも私が感じられるものだけが全てじゃない、彼の心の中には、今までに見た場所の全てに彼女の姿があるのだろう。「そんなに懐かしい?」と聞くと、彼は目を閉じたまま深く頷いた。私が入る隙間も無い感傷の中に彼はいるようだった。やっぱり聞かなきゃよかった、と思った。

「海がきれいな所ね」

「うん、もう少し西の方に須磨っていう所があって、そこでは夏になると泳げるよ。また夏に来ようか」

「いい、泳げないから」

「嘘、子どもの頃水泳得意だったって言ってたじゃん」

「もう泳げないよ。子どもの頃の話だもん」

私は自分が水着を着て、海に行った所を想像してみた。照りつける太陽の下に水着姿でいる私。小麦色の肌。白いままの肌。ビキニの水着の所だけ白く残った肌。それを海から帰った後で毎晩、彼に見せる。彼は私の身体を通して、海の思い出を何度も味わう。何だこれ、と心の中で毒づいた。いやらしい。おかしい。ただそれだけだ。

あなたがどう思っていたとしても、今の私はこう思うの。私がこう思うってだけで十分だよ。それだけでもう、十分すぎる。

堪らず彼の右手に腕を絡めた。彼は目を閉じたままの姿勢で、動かない。空しいと思っていても、彼に腕を押し付けた。

私はもう諦めているのかもしれない。自分が22歳で人生を諦めるなんて、まさかそんなことになるなんて思わなかった。でも私は今、深い井戸の中でずっと暮らす気分になっている。

…井戸なんて言ったらひどいね。水槽だよね。きちんと管理された水槽。天井から明るい蛍光灯の光が降り注ぐ、清潔な水が規則的に循環する水槽。水槽は今、目の前に広がっている海みたいに広い。あなたは水槽越しに私を見てくれる。仕事が終わったらいつも私の傍にいてくれる。それは分かるけど、私の水槽で一緒に泳いではくれないよね。だって、そんなこと出来ないもの。そもそもの立場が違うし、あなたがそんなことをしたら、私達の生活なんて簡単に崩壊してしまうよね。

私はあなた以外の人になんか全然興味ない。あなただけの愛が欲しいの。でもそれが叶っても、息苦しくなるのはなぜ?それは私が魚じゃないからよ。本当は魚じゃないから、この水槽では息がしづらいの。息継ぎをする時に、空を見上げると、泳ぎすぎた疲れが一気に出てきたみたいに軽い眩暈がして、その後で今にも倒れそうな、糸が切れたような気分になるの。

ねえ、帆純。それでもあなたが好きなの。あなたのためにこうしたこと、後悔してない。だから、こっち向いて。

お願い。

彼は、とっくに目を開けていた。いつの間に現れたのか、私達の目の前を遊覧船が静かに横切っていた。歓声も何もしなかったから、私はそれが現れたことすら気づかなかった。遊園地のアトラクションさながらの装飾が施された遊覧船。デッキには、私達の掴む柵を模したような白い柵があった。その柵に足を掛けて、景色を眺めている女の子がいた。背丈からして小学校高学年位だろうか。遊覧船は数秒差で私の眼前を通り過ぎた所らしく、今は私の視界の左脇にあった。白っぽい服装のようだったが、女の子の顔や服装は私の角度からは良く見えなかった。

女の子は彼の正面に来ていた。彼は視線を逸らさなかった。女の子をじっと観察しているようだった。

不意に、私の視界に若い男の子が飛び込んで来た。紺のセットアップを着た、モデルみたいな男の子だった。メンズ雑誌の表紙のような恰好をした、目立つ子。センター分けの黒髪で、大きなレンズの細フレームの眼鏡を掛けている。左手に持ったスマホの画面をちらちらと見ながら、デッキを小走りに駆け抜けて行った。さっきの女の子の隣に陣取る。年の離れた兄妹だろうか、親戚だろうか。男の子は見た目に反して面倒見の良い子のようで、女の子の頭を時折撫でていた。

彼は女の子から目を逸らし、再び空を見ていた。もう興味を失ってしまったようだった。

「子ども好きなの?」

「うん、好きだよ……なんで?」

「さっきの子、じっと見てたから」

彼はばれたか、と言って、いたずらっぽい笑みを浮かべた。私はずっと心の中で温めていた言葉を口に出すことにした。今なら息を吐くように言える。この選択は正しいのだろうか。でも、私はもう言えない。今じゃなきゃもう言えない。

「帆純、子供、作ろっか。子供欲しい」

ごおっ、と海風が吹いた。

彼は通り過ぎる風に微笑み掛けていた。

あの時、はっきりと分かった。

帆純、その風は、あなたにとっては、風じゃないのね。

私は風に呼びかけた。

あんたが何者だとしても、もう、いい。

帆純以外のものは全部あげる。

私の心の中のもの、私が手に入れられるはずのもの、何もかもさらっていって。

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