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「わたしは何か間違っている」と信じているときは、"正しい答え"が書かれていそうな文章しか読むことができない。

怒りを感じているのに、「私は怒っている」と言わずに、水を飲んだグラスをどーんと置く人がいたら、ただの迷惑な人である。

しかし、文章の世界では逆である。

「彼は怒っている」とストレートに書くと、あまりにも素朴すぎてつまらないし、書くことがなくなってくる。

「彼は怒っている」と書くよりも、「彼が水を飲み、グラスを置いた時の音が耳に響いた」と書く方が、それは彼が実際に怒っているのか、または主人公が敏感に反応したにすぎないのかわからない分、文章の世界に奥行きが出てくる。

詩や短歌の世界は、その傾向がより顕著になる。

ストレートに思考や感情を書いている詩や短歌はもはや崩壊している。何の面白みもない。
詩や短歌は、なんでもないシーンや作者独自の視点から見た心象風景を表現することで、読者の中に思考や感情が拡がるのを促すからこそ、奥行きを感じる。その奥行きは、普段文章を読まない人にはなかなかわからないだろう。

私自身も過去、詩や短歌を読むことには何度も挑戦したが、何が面白いのかさっぱりわからなかった。ただただ回りくどく、もったいぶった文章でしかないと思っていた。

なぜ、当時詩や短歌を楽しむことができなかったかと言えば、読み物に「答え」を求めていたからだ。

過去の自分は、心理学、哲学の本ばかり読んでいた。
なぜなら、自分は何かが間違っていて、正しい知識を学べば、正しい自分になれると思っていたからだ。詩や短歌には知識が書かれていない。だから読むことができなかった。

今はどうかと言えば、むしろもう知識をかき集めるような読書は全くしていない。飽きたのであろう。正しさに飽きた。間違っても良いというよりかは、正しい知識を得れば、正しい自分になれるという信念が壊れたからだ。


先日、東京を散歩していると、古本屋を見つけた。
東京にはいい感じの古本屋がたくさん在る。

中に入り、文庫を見ていると、「寺山修司全歌集」が目に止まった。

実はこの本、今までに2回購入し、その後2回とも売却している。バツ2である。
寺山修司は好きだ。昔、退屈で退屈で仕方がなかった時に、同じく退屈で仕方がなかったのであろう異常に破天荒な女が、寺山の映画や本を勧めてくれたのだった。

パラパラとページをめくり、短歌を読むと、ありありと情景が浮かぶ。
一つ一つの短歌にいつか見た夢のような、記憶のようなものが張り付いていて、そのイメージに入っていくような体験だ。

2回別れた女と3回目の結婚をすることはほぼないであろうが、本は別である。この本を読む機会をようやく来たようだと感じ、購入した。

読むほど、イメージがありありと蘇ってくるために、なかなか読み進めることができないが、そのイメージの中をゆったりと味わえ、愉しい。ある種の瞑想体験である。

なぜ短歌を読めるようになったかと言えば、散歩をよくするようになったからだろう。散歩をしていると、はっとする光景に出くわす。ゆっくりと歩く老婆、疲れた表情で、硬く歩くスーツの男、爆笑しながらゾロゾロ歩く大学生。庭の木に実るみかん。川面に浮かぶ鴨。東京は、人も動物も植物も建物も店も多種多様だ。総理大臣もいる、有名人もいる、鳥もいる、猿もいる。だからこそハッとする機会も多い。

私のヘアカットをしてくれている人も「昔はクラブに通っていたが、今は散歩ばかりしている」と言っていた。同じように感じている人もたくさんいるのだろう。

ハッとするたびに、光景と、光景を見たことで思い出す感情が心に蓄積していく。その蓄積が、短歌を読むことで引き出されるのだろう。

寺山も、コートのポケットに手を突っ込みながら東京の街をひたすらに歩いていたのかもしれない。


2024/01/27


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