みちのく潮風トレイル冒険録12:雄勝で迎える3月11日(おがつ・たなこや→新北上大橋)
みちのく潮風トレイルのルート上で、3月11日の14時46分を迎えてみたい。そんなことをぼんやりと思っていた。それもせっかくなら、これまで私を悩ませてきた難所雄勝半島で3月11日を迎えてみようと思った。それが、前回雄勝半島攻略を一旦後回しにすると述べた理由である。そういうわけで、あの震災から11年という節目の日に、私は雄勝半島に降り立った。
Day16:おがつ・たなこや→大浜峠
2022年3月11日(金)
前にも述べたが、雄勝半島へアクセスする公共交通機関である石巻市の住民バスは平日のみの運行で、非常にアクセスが悪い。そこで、今回はやむを得ず自家用車でスタート地点であるおがつ・たなこやにアクセスした。長い雄勝半島、一日で周り切るのは現実的ではない。そこで本日は途中の大浜峠という地点まで歩いて徒歩で引き返し、続きはまた明日に回すという手段で雄勝半島を攻略することにした。
おがつ・たなこやに車を停めて歩き始める。歩き始めてすぐ、雄勝地区震災慰霊公園がある。白状しよう。私はこの日、この慰霊公園には立ち寄らず素通りした。この日は3月11日、雄勝に住む多くの人にとっては大切な人の命日である。この慰霊公園にも花を手向けに来ている人の姿が見えた。そんな中に、物見遊山でトレイルを歩いている無関係な人間が入って行くことは気が引けたのだ。後から調べたことによると、この慰霊公園の場所には雄勝病院という病院があり、多くの患者さんや医療従事者が命を落としたという。雄勝病院の詳細については、この記事を参照されたい。心の中で手を合わせて、先を急ぐ。
歩いていると、突然車が路傍に停まり、中から出てきた人に声を掛けられた。なんでもその方はおがつ・たなこやで働くスタッフさんだそうで、雄勝の魅力を紹介するパンフレットを制作しているという。そのパンフレットにみちのく潮風トレイルを紹介するために、トレイルを歩くハイカーの写真を撮らせて欲しいとのこと。何だか気恥ずかしいが、彼は私がトレッキングポールを突いて歩く姿を何枚か写真に納めていった。パンフレットが完成したら、私の姿が掲載されるのだろうか…。
高い防潮堤で海と隔てられた県道をトレイルはひたすら進んできたが、一旦県道を外れて細い路地を桑浜という漁村に降りて行く。
桑浜の漁港からトレイルは未舗装路に入っていく。この道は、白銀神社という神社の参道であるようだ。その白銀神社は参道をしばらく歩いた先、白銀崎という岬の突端にあり、赤い社殿が印象的だ。岬のはるか向こうに以前訪れた金華山が見える景色は絶景だ。神社の由緒を記した看板によると、この白銀神社も金華山信仰に関連があるらしい。八百万のものに神を見出す我々日本人が、岬の先に金華山の見えるこの絶景を見れば、ここに神を祀りたくなるのも当然というものだろう。旅の安全と目標の成就を祈願して、先へ進む。
トレイルは羽板という小さな漁村に降りる。ここで、またしても地元の方に声をかけられる。徒歩で旅をしている旨を説明すると、これでも食べなよ、と石巻名物のカマボコをいただいた。ありがたく昼食に食べさせていただいた。
羽板からまた県道を進む。熊沢という漁村を過ぎ、次に立ち寄るのは大須崎という岬だ。ここには灯台があり、灯台から大須漁港を見るとハートマークに見えるフォトスポットとして観光地になっているようで、観光客の姿もまばらに見える。
大須の次に訪れる漁村は荒浜といい、ここには海水浴場も整備されている。と、ここで東日本大震災が発生した時刻である14時46分を迎え、それを知らせるサイレンが石巻市の防災無線から鳴り響く。しばし足を止めて黙祷を捧げる。この荒浜という小さな漁村にも、荒浜の震災があったのだろう。喪われた命もあったのだろうか、私は想像することしかできない。荒浜という静かな漁村で迎えた3月11日の14時46分という瞬間を、私はこの先忘れることはないだろう。
荒浜から峠道を登っていくと、本日のセクションの区切りとなる大浜峠に辿り着く。ここからは南に分岐する道が伸びているので、ショートカットして本日のスタート地点まで戻ることが出来るというわけだ。とはいえ、大浜峠から車のあるおがつ・たなこやまでは歩いて1時間半ほどかかるのだが…。車を回収し、この旅で訪れるのは3度目の道の駅上品の郷の温泉で入浴し脚の疲れをゆっくりほぐした後、本日の宿である石巻市内のホテルに向かった。今日泊まるホテルは震災復興事業に携わる作業員の方を主な宿泊対象としていると思われる長期滞在も可能な宿で、多くの復興作業員の方が夜を過ごしたであろう宿のテレビで震災から11周年の特集番組を見るのは、特別な感慨がある。
Day17:大浜峠→新北上大橋
2022年3月12日(土)
早朝、再びおがつ・たなこやに車を停め、1時間半かけて本日のセクションのスタート地点である大浜峠まで歩く。大浜峠から降りていった漁村は船越といい、震災前までは小学校もある集落だったという。今は、子どもたちの声で賑わっていた時代の面影は全く感じられず、何も無い空き地に立つ石碑だけが歴史を伝えている。
船越の次は名振という漁港に降りる。舗装路はここで終わり、トレイルは尾ノ崎峠という徒歩道に入っていく。地図で見るとこの峠道も宮城県道238号に指定されている。いわゆる未供用道路と呼ばれる道だが、宮城県にはこの道を車道化する計画があるのだろうか…?
峠のピークを越えると長面浦という湖が見えてくる。海と繋がった汽水湖だが、震災の際は湖と海の境目がどこだかわからなくなるほどだったと聞く。その長面浦のほとりを回り込むと新北上川の河口付近となる。実は、私がこの辺りを訪れるのは初めてではない。高校生の頃生物部で活動していた私は、長面浦周辺の汽水域に生息する珍しいトンボの調査に訪れたことがあるのだ。その頃は、その数年後にこの辺り一帯が津波で襲われることなど想像もつかなかったが、当時調査したトンボは今もこの辺りに生息しているのだろうか…。
長面浦から何もない荒野の中をしばらく歩いていくと、有名な震災遺構「石巻市立大川小学校」が見えてくる。この場所で多くの尊い命が喪われたことやその後の裁判の経過などについては大きなニュースになっていたから、多くの人がご存知と思う。だから敢えて余計なことは書かず、私の目で見たことだけを綴っておこうと思う。
大川小学校に近づいていって初めに感じることは、なぜこんな何も無いところに立派な学校が建っているのか?ということだ。その疑問は、大川小学校に併設されている資料館の展示を見ることで解決する。何も無いところに学校のあろうはずがない。学校の周辺には、釜谷という名の集落があった。長面浦の周辺にも、長面という集落があった。かつて集落があったあたりは災害危険区域に指定され、家を建てることができなくなった。だから、今は何もない荒野の中に学校の遺構だけがぽつんと残されている光景になっている。震災以前と遺構の大川小学校付近の航空写真を示しておこう(出典:地理院地図)。
この日は3月12日ということで、学校の前の献花台には昨日手向けられた多くの花が残っていた。NHKの取材班もやってきており、多くの見物客が集まっている。なぎ倒された渡り廊下の柱が、津波の威力の大きさを物語っている。資料館で配布されている小冊子には、震災の際に起こった悲劇とその後の裁判の経過が、遺族の悲痛な声とともに綴られていて、心に来る。
震災遺構は数多くあるが、ここは多くの命が喪われた教訓を今に伝える場所として、特にたくさんの人に訪れてほしい場所だと感じた。
大川小学校から少し進むと、前回のスタート地点とした新北上大橋のたもとに着く。ここからはトレイルの本線を離れ、車を置いたおがつ・たなこやまで歩いて戻るわけだが、この区間は車通りの多い国道にも関わらず歩道が無く、とても歩きづらい。2日間にわたる旅の疲労も脚に出てしばし歩みが止まるが、1時間半ほどをなんとか歩いておがつ・たなこやまでたどりつき、車を回収して帰途についた。セクションの区切りまでのアプローチも含めると、2日間の合計で50kmを歩いた。今までの行程では一番キツい区間だったかもしれない。ともあれ、これで難所雄勝半島の攻略をなんとか終えることができた。
帰路、名取で一旦高速道路を降り、名取トレイルセンターに立ち寄って気仙沼から先のMapBook数冊を購入し、この先の冒険に備えた。
次回は、志津川から田束山に登る。
南側のセクションは↓
北側のセクションは↓
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