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閔妃事件の真相

閔妃事件とは

1895年10月8日、李氏朝鮮の王宮である景福宮に日本側と朝鮮側が乱入した際に王妃が暗殺された事件。亡くなったのは王妃である閔妃の他、宮女(0~3名)、訓練隊連隊長の洪啓薫、宮内大臣の李耕植、侍衛隊の兵士などで[1][2][3]、誰が殺したのか暗殺の計画はあったのかなどは明確になっておらず様々な説があるが、韓国は「日本が仕組んだものだ」とプロパガンダに利用している。閔妃暗殺事件や乙未事変(いつびじへん)とも呼ばれるが、当時は10月8日王城事変、朝鮮事件、王妃殺害一件などと呼ばれた。




朝鮮側の主な関連人物

閔妃(びんひ、ミンピ)

第26代国王高宗の妃。高宗を巧みに操り一族を政権の要所に配置して強大な権力を得たため、1894年に東学党の乱が起こった。翌年の1895年に何者かに暗殺される。享年43歳。
※長らく閔妃とされてきたこの写真は本人ではないという説があります。


高宗(こうそう)

李氏朝鮮第26代国王、大韓帝国初代皇帝。閔妃事件発生時は現場である景福宮(乾清宮)にいた。


興宣大院君(こうせんたいいんくん)

高宗の実父。高宗は10代で即位しているので大院君が実権を握って様々な改革を行った。閔妃が王妃になると閔妃と大院君双方の権力欲から対立することになる。


日本の主な関連人物

三浦梧楼(みうらごろう)

奇兵隊、戊辰戦争、西南戦争などに参加。井上馨に代わって在朝鮮公使(今の大使)として着任する。三浦がどのように事件に関わったのかがこの事件の大きなポイントである。


杉村濬(すぎむらふかし)

剣術に優れ、1874年には台湾出兵に従軍。赴任期間約13年と日本公使館で一番長かったため、彼が事件の実質的な取りまとめ役となる。


岡本柳之介(おかもとりゅうのすけ)

彰義隊、西南戦争、竹橋事件に参加。閔妃事件前年の1894年日本による王宮占拠の際、大院君を擁立したことで朝鮮政府の軍事顧問に就任した。


内田定槌(うちださだつち)

東京帝国大学法科大学を卒業して外務省に入省。在京城一等領事官として事件の捜査を主に担当する。


西園寺公望(さいおんじきんもち)

戊辰戦争に参加。文部大臣として伊藤政権に入閣し、後に第12代、第14代内閣総理大臣になる。事件当時は陸奥宗光外相が肺結核で療養していたので、西園寺が外務大臣も兼務し事件の処理をおこなった。


事件までの情勢

1895年4月17日、日清戦争に勝利した日本は下関条約(日清講和条約)により遼東半島割譲の合意を得る(批准前)。日本の遼東半島の支配を脅威とみたロシアは23日、ドイツ、フランスとともに武力をちらつかせて外務省に抗議する。いわゆる三国干渉である。日本は三ヵ国の軍事力や、清が下関条約を破棄することを恐れて遼東半島を放棄した。それにより日本の朝鮮半島の影響力も低下することになる。

その頃の朝鮮は、興宣大院君が日本の庇護のもと閔一族を政権から追い出して近代内閣を樹立していたが、閔妃は虎視眈々と復権を狙っていた。三国干渉により日本の影響力が弱まりロシアの介入が強まると、閔妃はまず日本の井上馨公使を懐柔することに成功した(日本政府の対朝鮮政策の変更も関係する)[4]。井上は最後こそ閔妃のいう事を聞くようなったが、それまでは高宗、閔妃の政治への参加を止めさせて、強く内政改革をせまるなど宮中にとっては目の上のたんこぶであった。日本の公使が井上馨から三浦梧楼へ交代となったのをチャンスとみた閔妃はいよいよ動き出す[5]。

閔妃はまず財政、内閣人事権を掌握し、大臣を交代させて政府の力を削ぎ、日本人が指導していた朝鮮の最強部隊“訓練隊”のトップを閔妃派の洪啓薫に交代させた[6]。最終的にはトラブルを口述に訓練隊を解散させようと画策していた[7][8]。王妃の傍若無人な振る舞いは内政改革を主導していた日本のみならず、国王高宗、国王の父大院君、内閣の大臣達もいよいよどうにかして抑えなければ国が滅びてしまうという危機感を抱いていた。


事件前後の時系列

1895年
8月17日
・閔妃が流刑になっていた閔泳駿や閔丙奭など閔一族を赦免する。
9月1日
・三浦梧楼が在朝鮮日本公使に着任する。
9月下旬
・李周会が杉村のもとを計3回訪れ、日本に大院君擁立の援助を求める。
9月27日
・訓練隊第二大隊長の禹範善(うぼむそん)が訓練隊教官の宮本少尉(守備隊) に訓練隊が閔妃に解散させられてしまうと報告する。
9月末
・堀口九萬一、鮎貝房之進、与謝野寛が大院君邸を訪問。大院君は日本側の援助を懇願する。
10月1日
・三浦、杉村の話し合いにより、大院君を擁立することを決める。
10月3日
・三浦・杉村・岡本の三者会談。大院君の援助を決定する共に、岡本が大院君との交渉役になる。
10月5日
・大院君・岡本会談。四ヵ条の約束を交わす。
10月6日
・訓練隊解散命令。
10月7日
・杉村濬と金弘集総理の面会。続いて国分通訳を伴い金允植外部と面会する(ここで朝鮮政府の証明書をとったか)。
・三浦公使、杉村、安達謙蔵、国友重章と面会。朝鮮人だけでは戦力に不安があるため壮士の参加を要請する。
・大院君が入城する際の趣意書を起草。

10月8日
5時30分~6時10分 事件発生。
6時32分 新納海軍少佐(朝鮮国公使館付)より伊東海軍中将に事件の第一報。
7時00分 三浦公使参内。
13時00分 西園寺外相代理から三浦公使に電報。事件の概要を知らせるように要請。
13時30分 三浦公使から西園寺外相代理に電報(11時発)。
14時45分 井上馨が杉村濬に電報で事件の概要について問いただす。
15時30分 ロシア公使が日本公使館に来館。

10月10日
・三浦公使が西園寺外相代理に守備隊、日本人壮士の関与と朝鮮政府より証明書をとったことを告白する。
・閔妃を平民に落とす詔勅が出される。
10月11日
・西園寺外相代理 三浦公使を叱責する。
・ロシア兵(37名)、アメリカ兵(16名)が京城入り。
・詔勅により閔妃を侍妾にする。
10月13日
・渡韓禁止令。
10月14日
・小村寿太郎政務局長取調官が仁川に到着。
10月17日
・三浦公使の帰国命令、小村取調官を公使に。
・小村公使、ロシア公使と面会。
10月24日
・京城領事は外務省を経由することなく、直接広島地方裁判所と捜査のやり取りが出来るようになる。
10月25日
・明治天皇は高宗を見舞うため井上馨前公使に親書を託す(31日到着)。
・岡本柳之介の尋問(~26日)。
10月26日~28日
・三浦梧楼の尋問。
11月7日
・広島地方裁判所から捜査の依頼を受けた内田領事は、事件の報告書を西園寺外相に送付する。
11月12日
・内田領事は同じ内容の報告を広島地裁にも送付する。
・ロシア人の目撃者サバチンの証言が朝鮮法廷に提出される。
11月30日
・7日の報告書について西園寺外相代理から内田領事へ報告が不適切であると指摘される(捜査の方法、捜査の権限を超えて裁定を下すかのような表現があったため)。
12月10日
・鄭秉夏の尋問。
12月12日
・玄興澤の尋問。
12月16日
ゼネラルダイの尋問。
12月26日
・朝鮮政府より日本人が有罪になるのは気の毒であると伝えられる。
12月28日
・朝鮮側裁判の終了。李周会、尹錫禹、朴銑が有罪となる。

1896年
1月20日
・広島地裁予審終結決定書(判決)により証拠不十分で免訴。
1月23日
・軍法会議により無罪。


事件の詳細

事件の原因について一般的には閔妃が国の金を使いこむほどの悪女だった為と言われることが多いが、これは閔妃の評価全般に言えることなので直接の原因としては少し弱い。史料を元にまとめると以下のようになる。

・反閔妃派の影響下にあった訓練隊の解散
・訓練隊の士官らの処刑
・捕らえられていた閔一族を釈放し、国政に復帰させる
・現内閣の諸大臣の殺害

『機密36号』『在韓苦心録』より作成

この企みを阻止するために大院君待望論が政権中枢のみならず国民からも上がっていた。当時大院君は日本のサポートにより一時的に政権を握っていたが、事件前年の日清戦争で農民や清軍を動かして日本軍に攻撃するという暴挙を経て、現在のソウル市麻浦区の我笑堂に閔妃によって幽閉されていた(雲峴宮という史料もあるが[9]、経路や移動時間など考察すると我笑堂が正解だろう)。そのため反閔妃派から「大院君を擁立してほしい」という再三の要請に対し、日本公使館は「大院君はまた日本を裏切るのではないか」と疑心暗鬼になっていた。しかし三浦、杉村、岡本の三人が協議し「この情勢で何もしなければ朝鮮はロシアに奪われてしまう。大院君を助ける以外方法はない」という結論になる[10]。

乱入する訓練隊は総勢800名、王宮を護衛する兵士は700名で戦力は互角であると考えた三浦は[11]、漢城新報社の社長兼記者の安達謙蔵に壮士数人を集めてくるように依頼する。その際に三浦が「キツネ狩り」と表現したらしいが[12]、それが閔妃の殺害を表しているのかはっきり書かれていないし、ほかの史料で同様の記述がないためその真否は不明である。

10月8日深夜0時、仁川から戻った岡本が我笑堂に到着すると60名ほどの壮士がすでに集まっていた[13]。内田の第一報告書である『機密36号』には岡本が我笑堂に乱入し、大院君を説得したとある。現在の通説もこれをもとに「大院君の説得に手間取り、王宮乱入が遅れたため目撃者を出した」と主張しているが私は誤りだとみている。なぜなら機密36号で大院君と日本公使館は事前に接触し大院君の了承を得たと書かれているからだ。岡本の自伝である『風雲回顧録』には大院君は冗談を言いながら意気揚々と輿に乗り込んだとある。大院君と閔妃は長らく対立していたことも考慮すれば岡本の記述の方が信憑性は高い。

景福宮(赤線が侵入経路、星印が乾清宮)
「分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090168700、韓国王妃殺害一件 第二巻(5-3-2-0-12_002)(外務省外交史料館)pp.42-43 より作成

西大門で李斗璜が率いる訓練隊第1大隊、禹範善が率いる第2大隊の総勢800名と公使館守備隊400名と合流したのち、王宮の正門である光化門に向かう。到着すると外務省警部の荻原秀次郎はハシゴを使って高壁を乗り越えて門内に侵入し、内側から斧で鎖錠を解くと乱入者達は雄叫びを上げて一斉に王宮に雪崩れ込んだ。すぐさま見張りの朝鮮巡査が立ちはだかったが、乱入者はこれに飛び掛かり片っ端から縛り上げて傍らの蔵に押し込んだ[14]。目指す乾清宮(画像星印)は景福宮の一番奥に位置し、書斎、寝所、客間などがあって国王、王妃が主に生活していた場所である。経路上にある多数の中門は、巡査等がハシゴを使って塀を乗り越え内部から鍵を解いた。「乱入者が壁を越えて侵入してきたぞ!」と見張りが叫ぶと王宮を警護する守備兵は職場を放棄して何処へ逃走してしまった。

一方、王宮内を警護していた侍衛隊の教官であるアメリカ人のゼネラル・ダイは乾清宮の西側に侍衛隊を配置していた。ロシア人建築家のサバチンもその場におり、事件を目撃した外国人はこの二名である。ダイが兵士達に弾丸の装填を命令した時、兵士の一名が誤って発砲。これを発砲の合図と勘違いした部隊は銃を乱射し2名が即死する同士討ちとなった。現場は大混乱となり、兵士達は制服を脱ぎ捨てて司令部から持ち込んだ平服に着替え、蜘蛛の子を散す様に逃亡してしまった[15]。

乾清宮(〇が殺害現場、△引き出されたとされる場所、×が遺体を焼却した場所)

乾清宮の西門前に取り残されたダイはそれから約5分後、蓮池の西岸に1名の日本士官が15、6名の日本兵を率いているのを目撃する。彼らは西門を占領し乾清宮に侵入した。その後まもなく乱入者達約30~40名も正門から侵入した。領事館補の堀口九万一はフランス語でダイに「ここから立ち去ってくれ」と言ったがダイは「自分はアメリカ人だから日本人の命令には従わない」と拒否した。山田烈盛が英語で説明するとダイは一時現場を立ち去ったが再び戻って傍観していた[16]。

乾清宮では日本人をリーダーとする訓練隊40名と20名ほどの日本人壮士が閔妃の捜索を始めた[17]。しばらくして数名の宮女が潜んでいるところを発見し、ここが王妃の居室だと判断して室内に侵入し、数人の宮女をひっ捕え、その中の王妃と思わる人物を殺害した。15~20分後に輿の乗った大院君も乾清宮に侵入した[18]。

しかし乱入者達の中に王妃を知る者は一人もいなかった(当時閔妃は御簾の中におり、顔を知る者は親族などのごく近いものか女性に限られていた。冒頭の写真が閔妃でない可能性が高いのはこのためである)。そのため乱入者達は国王、世子の居室も捜索を始めた。国王は慄然としていたため、荻原は国王に「御安心ください」と告げ、乱入者達に向い「ここは国王陛下の宸殿だから立ち入るな」と叫んだ。乱入者達はあらかじめ大院君から「国王と世子だけは必ず助命しくれ」と依頼されていたのでその場を去った[19]。

ある宮女の証言をもとに”こめかみ”に禿跡がある遺体を捜索したところ該当する遺体を発見する。これを閔妃の顔を知る宮女数名にを見せて閔妃に間違いないと判断した。閔妃死亡の知らせを受けた大院君は手を叩いて大変満足した[20]。


斬った犯人は誰か

1 宮本竹太郎少尉犯行説
その根拠として事件当日の10月8日に、内田が外務次官補の原敬に送った書簡に「これ(閔妃)を殺害したるものは我が守備隊のある陸軍少尉にして」と記述があるためである[21]。この時点ではもちろん内田には捜査の権限は与えられていないが、騒動にビックリして駆けつけた先で見聞きしたことである。その後事件に関わった他の軍人が広島憲兵隊本部で取り調べを受けた際「宮本少尉は壮士が閔妃を殺害した時に現場にいた」[22]、「壮士の平山によると、宮内大臣を最初に射撃したのは宮本で、その後自分が斬った」[23]という証言があるので、内田の書簡と合わせて斬った犯人は宮本であるというのである。しかし前者の証言は現場にいたというだけであり、宮本以外に数十名が現場にいたわけだからこれが根拠になるはずがない。後者は文章後半の ”斬られたのは誰か” というのがポイントで、原文には主語がないため文脈から察すると斬られたのは ”宮内大臣” であり閔妃ではない。結局宮本少尉は起訴すらされていないので、これらの証言には信憑性がなかったという事だろう。


2 堀口九万一領事官補犯行説
2021年に朝日新聞が「外交官『王妃殺した』と手紙に 126年前の閔妃暗殺事件で新資料」と報じて以来、今一番ホットな説である。

事件翌日の同年10月9日付で、現場で自分がとった行動を詳細に記していた。王宮に押し入った者のうち「進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸(ようや)く奥御殿に達し、王妃を弑(しい)し申候(もうしそうろう)」(原文はひらがなとカタカナ交じりの旧字体。以下同)と、王宮の奥まで押し入り、閔妃を殺したことを打ち明けた。「存外容易にして、却(かえっ)てあっけに取られ申候」

朝日新聞デジタル 外交官「王妃殺した」と手紙に 126年前の閔妃暗殺事件で新資料

これまた「王妃を弑し申候(閔妃を殺害いたしました)」の主語がないため、明治期の記録を全く読まない者や事件の背後関係などを全く知らない者が「真犯人は堀口で決まり」と飛びついた。しかし「進入は予の担任たり(私は侵入担当)」と書いていることからも、むしろ殺害したのは堀口ではないことが裏付けられる(閔妃の殺害は手柄だったのにわざわざ過小評価するのはおかしい。堀口が殺害したなら「殺害は予の担任たり」となるはず)。朝日も後日「犯人はまだ分かっていない」とわざわざ補足をしている。


3 寺崎泰吉犯行説
売薬商であった寺崎泰吉も壮士として事件に参加していた。寺崎の回顧録によると乱入壮士は安達謙蔵、平山岩彦をはじめとする国権党が大多数であり、自由党は寺崎泰吉、田中賢道、中村盾雄、藤勝顕のわずか4名であった。そのため国権党には負けられないという闘争心に燃えていたという。

四人の中でも田中は年を取っているから、中村と藤と私の三人で目的を実行する事にした。そこでまっしぐらに閔妃のありかを目指して進んだ。国王陛下の部屋まで行くと、国王は手を合わせてしきりにこれから奥へ行くなというようなご様子をなされた。しかし三人はそれに拘わらず奥へ進んだ。閔妃の部屋に入ると、宮女二、三十名が、何者かをふとんのような物で覆って、その上に折り重なるようにして恐れおののいている。我々はこれは怪しいと思ったから、宮女を一人一人投げ飛ばしてふとんの下を見ると、服装はそれらの宮女と同じであるが、従容として迫らず貴人の風が備わっているから、これが閔妃であると察した。髪を捉えて引き出したが、その態度はさすがに少しも乱れるところがない。私がすぐに斬ろうというのに対し、藤は「早まって殺すのは不可である。よく確かめずにやってもし閔妃でなかったらどうするのか」と言うから、「イヤ、そうではない。本当に閔妃だと知ったら返って斬れなくなる」と言って私は一刀を振り下ろした。中村が髪を捉えていたので、その手を少し切った。頭部をやったから一撃で倒れてしまった。ほかの者は「寺崎は乱暴だ。閔妃と判明せぬに斬ってしまった」と言って批判したが、のちになってあれがやはり閔妃であったということが分かったから、我も我もと閔妃を斬ったことことを名乗るようになった。国権党の者なぞ一人もその室には入らなかったにも拘らず、それでさえ我も我もと下手人たる事を主張する騒ぎであった。とにかくこれで自由党の側が殊功を収めた訳である。

伊藤痴遊全集 続 第12巻 寺崎氏昔日談(句読点は筆者が編集)

複数の朝鮮人が「宮女は誰も死亡していない」と証言しているが、もしこれが本当なら寺崎が斬った犯人である可能性が高い。中村は右手を負傷して病院で治療したという内田の調査報告にも矛盾はない[24]。しかし宮女は3名殺害されたという説もあるため、この場合は寺崎が斬った犯人だとは言い切れない。


4 禹範善犯行説
訓練隊第2大隊の隊長であり、閔妃が訓練隊を解散しようとしていたことに誰よりも危機感を持っていた。熱心に日本側に協力を要請していた一人であることからも彼には強い動機があった。現場にいた国王の高宗や、閔妃の実子である純宗は禹が斬った犯人であると証言している[25][26]。1896年2月11日に起こった露館播遷で高宗は事件の再調査と有罪となった朝鮮人の首を持ってくるように勅令を出していることからも、国王自身は朝鮮人が斬った犯人だと確信していたことは間違いなさそうである。禹は事件後殺害を告白し日本へ逃亡することになるが[27]、皇帝の純宗と長谷川好道統監代理の間にこのようなやり取りがあった。

≪原文≫
趙羲淵以下六名ノ特赦ニ關シ統監代理懇切ナル勸告ニ依リ特赦スル事ニ決定シタルモ李斗璜・李範來ヲモ特ニ其ノ罪ヲ許スニ於テハ朕ハ國母ノ仇何ニ依テ報スルヲ得ン乍去統監代理證據ヲ擧ケ無罪ヲ主張スルニ拘ハラス疑問中ノ兩人强ヒテ罪ニ問フハ公ノ許サゝル所ナレハ乙未年事件ニ際シ現ニ朕カ目擊セシ國母ノ仇禹範善一人ニ當時ノ罪ヲ負ハシムルトキハ一切ヲ解決スルニ至ルヘシ然レトモ禹範善旣ニ高永根ノ爲メ殺害セラレ今更ラ犯人ヲ罪スルヲ得ストイヘトモ朕ニ代リ逆賊禹範善ヲ殺シ仇ヲ報セタル高永根ハ朕カ爲メニハ忠臣ナリ此ノ忠臣今マ日本ニ在リ罪科服役中ナリトイヘハ之レニ特赦ヲ與ヘ其ノ罪ヲ許サルゝニ於テハ賞罰明白トナリ乙未事件ノ始末玆ニ始メテ解決シ兩國間數年ノ疑團モ氷解シ益々交誼深厚ノ實ヲ見ルヲ得ヘシ故ニ特ニ高永根ヲ許サレナハ趙羲淵等一切形式上一應ノ審問ヲ爲シ必ス特赦スヘシト御沙汰ナリ

≪現代語訳≫
趙羲淵以下六名の特赦に関して、統監代理の懇切なアドバイスによって特赦を決定するが、李斗璜と李範来も許してしまっては、朕は国母の仇を何で報いることができるであろうか。統監代理が証拠を挙げて無罪を主張するのにも拘らず、容疑者の2人を無理に罪を問うことはできないから、乙未年事件に際して実際に朕が目撃した国母の仇である禹範善1人に罪を負わせれば、一切を解決することになる。しかし禹範善は既に高永根によって殺害されてしまったので、今更罪を与えることは出来ない。朕に代り逆賊禹範善を殺して仇に報いた高永根は、朕にとっては忠臣である。この忠臣は今日本で服役中であり、高に特赦を与えその罪を許した場合は、賞罰は明白となり乙未事件はここで初めて解決し、両国における数年の疑団も氷解し、益々交誼深厚の実を見ることができる。故に特に高永根が許されれば、趙羲淵たちを形式上一応審問した上で、必ず特赦するという御意向です。

※高永根は1909年に刑期を終え韓国に帰国している

長谷川好道統監代理 伊藤博文統監宛 往電第31号 1907年8月31日

純宗は本来罪にしたい容疑者は証拠がないので、その時現場にいた一人に罪を着せれば私の気持ちもおさまると言ってるようにも見えます。つまりはっきりした証拠はないが「皇帝の私が見ました。なにか文句あります?」というようなニュアンスだと思うので、「乙未年事件ニ際シ現ニ朕カ目擊セシ國母ノ仇禹範善」は証拠として採用できないかと個人的には思います。


5 その他の犯行説
寺崎ではなく中村盾雄が一太刀加えて、藤勝顕がとどめを刺したという説もある(使用されたとされる肥前刀が福岡県にある櫛田神社に奉納されている)。朝鮮で行われた裁判では朴銑・李周會・尹錫禹が有罪になっている。日本の捜査では横尾勇太郎外務省巡査も当時有力視された人物だった[28]。その他、壮士らの中に洋服を着て仕込み杖を持った朝鮮人が数名紛れており、彼らがこれを行ったという情報や[29]、国友重章、家入嘉吉の孫が閔妃の墓に謝罪に訪れたからこれが証拠だというものまでいるが、さすがにこれは言いがかりのレベルである。


斬った犯人のまとめ

寺崎の回顧録にもあるように閔妃殺害は大変な手柄であったことから、俺がやったと自白するものが多数いたので書簡や日記で犯人は特定できない。これは今の殺人事件でも同じである。断言はできないことを前提にして、合理的に推測をするのであれば、女性が何名殺害されたのかがポイントになる。閔妃一人だけなら寺崎の可能性が非常に高いが、現場にいた国王自身の証言や露館播遷を考慮すれば、寺崎の記述「国王陛下の部屋まで行くと、国王は手を合わせてしきりにこれから奥へ行くなというようなご様子をなされた。」と矛盾が生じる。高宗は寺崎らを日本人だと認識していた思うが、もしかすると国籍を認識していなかった可能性や、そもそも寺崎の証言が武勇伝や国権党への対抗心から捏造した可能性も考えられる。にしても寺崎証言は具体性、迫真性に富んでいるので簡単には却下できない…


首謀者は誰か

1 日本政府首謀者説
この説について趙景達の『近代朝鮮と日本』を引用する。

一国の公使が赴任国の王妃をほぼ公然と虐殺するというのは、世界史に類例をみない驚天動地の事件である。しかしこの事件は、三浦の独断によるものでは決してなかった。この事件背後には大本営が控えていた。参謀次長の川上操六は、朝鮮に融和策を仕掛ける井上馨に代って、軍事しかわからないような武人の三浦梧楼を新公使に就任させることに成功した。三浦の任務は、電信線の返還と日本軍の撤兵を望む国王と王妃を翻意させることであったが、その究極の作戦が閔妃虐殺であった。事件直前の一〇月五日、三浦は在朝鮮兵站守備隊の指揮権川上より与えられており、それには首相の伊藤博文も同意していた。三浦が近いうちに何か重大な武力行動を起こすだろうことを、彼らはうすうす知っていた。少なくとも三浦は、川上の意を受ける形で閔妃虐殺を実行したことは間違いない。

趙景達.近代朝鮮と日本.岩波新書,2012年

趙は「川上の意を受ける形で閔妃虐殺を実行したことは間違いない」言い切っているが、川上の真意を裏付けるような記録はないので、推測にしてもかなり無理やりな印象を受ける。三浦が守備隊の指揮権を要求した本心はわからないが、事件に駆り出されたことは事実である。しかし伊藤や川上が三浦が閔妃を殺害することを「うすうす知っていた」と推測出来るような文献はどこにもない。また三国干渉の後、日本は朝鮮に対して条約上の権利だけを有しており、日本単独の責務はないので関係各国と協力して問題に対処するという方針を出していたことからも、日本政府が閔妃殺害の意図を持っていたと言うことは見いだせない[4]。また普通に考えれば目的を達成した三浦を労うはずだが、拘束されたうえに犯人扱いをするなどその対応に不満を抱いたということからも矛盾を感じる[30]。


2 三浦梧楼首謀者説(日本公使館首謀者説)
「乱入」も「殺害」も三浦梧楼の単独犯行というのがこの説の特徴である。三浦は嫌がる大院君を無理やりに引き出して(または説得して)閔妃を殺害したというもので、角田房子やいわゆる定説がこれに該当する(概説の多くは「乱入=殺害」と短絡的に結び付けている)。しかし杉村濬によれば、最初から殺害が目的なら大院君を担ぎ出す必要もなかったし、三浦、杉村、岡本の会合は2回しか無かったので殺害の計画を立てる余裕は無かったと反論している[31]。確かに三浦が着任して僅か1か月だから殺害計画を立てるのは難しいと筆者も思う。また日本公使館は大院君に協力するにあたって、大院君が裏切らないように四ヵ条の約束をしていた。

四、李埈鎔氏[大院君の孫]を三年間日本に留学せしめ、其材器を養成すべき事。但し毎年夏期に帰省するは差支なし。

杉村濬 著『明治廿七八年在韓苦心録』,杉村陽太郎,昭和7 pp.173-174

この条項は李埈鎔を閔妃から遠ざける目的があった。李埈鎔は、日清戦争の時に祖父の大院君と共謀して王妃と世子を廃しようとしていたため、一旦は死刑判決を受けた人物である。もし大院君を擁立して、そのそばに李埈鎔がいたら閔妃始め周りは強い警戒心を抱くのでその為の措置であると。つまり最初から閔妃を殺害する意図があったなら必要のない条項である。

次に、この説が成立しない重要なポイント。当日の守備隊の動きをしっかり確認しておく。

【守備隊の動きまとめ】
 ・訓練隊の監視
 ・訓練隊と巡検の戦闘の鎮撫
 ・大院君の護衛
 ・景福宮各門の護衛
 ・ハシゴの準備
 ・三浦公使(乱入はしていない)の護衛
 ・第一中隊第一小隊は王宮内に侵入しているが銃器の収集にあたった
 ・殺傷に関しては無関係

『官報』1896年1月23日 より作成

以上のように守備隊は閔妃の殺害には関与しておらず、その動きは「大院君の入城」を助けているようにしか見えない。日本政府首謀者説でも触れたが三浦は守備隊の指揮権を事前に得ていた。三浦にもし閔妃殺害の強い意思があったのなら、果たして壮士という不確定要素に頼るだろうか。ネプチューンスピア作戦を実行したアメリカ軍よろしく軍事力や統率力に優れた軍隊により確実にターゲットを仕留めようとしたはずである。つまりこのことからも三浦が殺害の意思を持っていた、その指示をしたという可能性は低いと言わざるを得ない。

そもそも日本公使館に閔妃を殺害するまでの動機を見いだすことは出来ない。三国干渉で低下した日本の影響力を取り戻すのであれば、1882年に清が、1894年に日本がそれぞれ王宮占拠したことと同様のことをすればいいだけで、殺害までしてしてしまうと、閔妃のバックについていたロシアが武力行使をしてくる可能性が高いことは、実際現場で接していた公使館の人間が一番よくわかっていたはずである。


3 朝鮮政府首謀者説
メインにはなりえない説だけど筆者は可能性はあると思っている。まず事件前日に日本公使館は朝鮮政府と面会し、入城の同意を得ていたことから日本や大院君一派が入城することは分かっていた。閔妃は政府の大臣たちを処刑しようとしていたので、閔妃を殺害するための動機も認められる。動機があり、入城を事前に知っていたなら、これに乗じて殺害計画を立てていたかもしれない。そして事件の二日後に閔妃を平民に落とすというスピーディーな対応も怪しいし[32]、日本政府に「日本人がこの事件で有罪となるのは心苦しい」と言ってることからも朝鮮政府首謀者説は十分成り立つと考える[33]。


4 大院君首謀者説
残された史料を丁寧に読み、素直に理解すればこれ以外は考えらない。ここまでの経緯を簡単におさらいしておこう。

実子である高宗が閔妃と結婚すると、閔妃と大院君の間に権力争いが起こった。嫁舅の争いである。大院君は閔升鎬爆殺事件壬午軍乱などを引き起こしなんとか挽回を図ろうとしたが、結局は閔妃に権力を奪われる形になった。ここで日本が本格的に介入してくる。日本の大鳥公使は、清を攻撃する大義名分を得るために大院君を擁立したが(日清戦争直前)、井上馨に公使が変わると改革の為に王宮は政治に関与出来なくなった。そして大院君が別荘に入ったところ、閔妃は警官を派遣し大院君を監視してしまった。そのまま監禁状態になった大院君の動向は宮中に逐一報告され、閔妃は出入りした人物に言いがかりをつけてこれを処罰した。まぁ閔妃にとっても大院君は「強敵」であるから、用心する気持ちも分からなくはないが、閔妃に対する恨みがピークに達していたことは容易に想像できる。

ここで大院君を押さえつけていた井上公使から三浦公使へと交代したことによって事態が動き出す。堀口九万一(領事館補)、鮎貝房之進(乙未義塾塾長)、与謝野寛(鉄幹。乙未義塾の教師で、与謝野晶子の夫)がたまたま大院君を訪問した時のこと、零落した大院君がこのチャンスを見逃すはずがなく、閔妃への不満を彼らにぶちまけて閔妃とロシアの密約、事態は緊迫し普通の手段では対処できないことを説き、三浦公使の援助を切に要望した。一言一言に涙が混じり痛切だったという[34]。

堀口が三浦にこのことを報告すると、日本の置かれている状況を変えるためには大院君に協力するしかないという結論になる。杉村が大院君をそのまま信じるのは危険だろうとアドバイスしたことから、4か条からなる条件を提示することになる[35]。この交渉役には若い堀口ではなく、経験のある岡本が選ばれて大院君と事前に合意することになる。これが事件の3日前の出来事である。

確かに三浦公使は閔妃を降ろさないと根本的に解決しないと考えていたし(暗殺を意味するかは分かっていない)、壮士達はそれに同調していたことは事実である[36]。しかし事件の経緯や、大院君が日本側に1万9千円もの謝礼金を支払っていること[37]、日本公使との「格」の違いからもやはり大院君が首謀者であると言わざるを得ないだろう。


首謀者のまとめ

首謀者を絞るため必要な視点は、動機の有無とその強さである。日本は政府も公使館もそこまでしなければならない動機を見いだすことはできないし、首謀者としての証拠も一切残っていない。一方で大院君には閔妃を殺害するという動機を長年持っているし、朝鮮政府には閔妃に殺されてしまうかもしれないから殺害するという動機がそれぞれあった。朝鮮政府が言うように日本は大院君にまたしてもいいように使われてしまったというのが真相ではなかろうか。ただ大院君、朝鮮政府側にも殺害の計画があったかは不明である。壮士という不確定要素が入っている以上はがっちりした計画があったとは言い難いが、どんなに拡大解釈をしても「死亡しても構わない」という未必の故意までである。


まとめ

≪筆者の考え≫
・首謀者として一番可能性が高いのは大院君。その次に朝鮮政府。
・斬った犯人は日本人なら寺崎泰吉、朝鮮人なら禹範善の可能性が高い。
・殺害は現場の暴走。
・日本公使館は乱入の補助役として関わった。
・日本政府は事件に一切関与していない。
・反日プロパガンダのネタではなく、朝鮮が自らの力で近代化を狙ったクーデターと再評価すべき。

ここまで読んでいただいた方にはわかると思うが、この事件でもっとも重要なことは「乱入」と「殺害」をキッチリ分けて見なければならないことである。当時の捜査、裁判、裁判に対する反論もそれぞれ分けて認識しているが、現在の韓国やそれに同調する者はすべて一緒くたにしてプロパガンダ的に使用しているので注意が必要である。勿論、国際法的に見れば武力を使って王宮に侵入したことには一切正当化できないので、その点についての批判があってもやむを得ないが、殺害も実行したと言うのだから手に負えない。「閔妃は殺害されてもしょうがない人物だった」という論調も当然ダメだけどね…


出典
[1]証人鄭秉夏訊問調書.「分割4」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090169700、韓国王妃殺害一件 第三巻(5-3-2-0-12_003)(外務省外交史料館)p.60
[2]証人玄興澤訊問調書.「分割4」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090169700、韓国王妃殺害一件 第三巻(5-3-2-0-12_003)(外務省外交史料館)p.67
[3]機密第三十六號 明治廿八年十月八日朝鮮王城事変之報告.「分割4」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090168300、韓国王妃殺害一件 第一巻(5-3-2-0-12_001)(外務省外交史料館)p.18
[4]「2 明治28年5月24日から明治28年8月1日」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03030220600、日清戦役後ニ於ケル帝国政府ノ対韓政策関係雑纂(1-1-2-13_001)(外務省外交史料館)pp.2-3
[5]三浦梧楼 [述] ほか『観樹将軍囘顧録』,政教社,大正14 p.325
[6]『山県有朋』,民友社,明29.9 p.150
[7]三浦梧楼訊問調書.伊藤博文 編 ほか『秘書類纂』朝鮮交渉資料 中巻,秘書類纂刊行会,昭11 p.417
[8]三浦梧楼 [述] ほか『観樹将軍囘顧録』,政教社,大正14 pp.325-327
[9]岡本柳之助 述 ほか『風雲回顧録』,武侠世界社,大正1 p.275
[10]杉村濬 著『明治廿七八年在韓苦心録』,杉村陽太郎,昭和7 pp.172-173
[11]同上 p.200
[12]『安達謙蔵自叙伝』,新樹社,1960 p.57
[13]菊池謙譲 著『朝鮮王国』,民友社,明29.10 p.511
[14]岡本柳之助 述 ほか『風雲回顧録』,武侠世界社,大正1 p.276
[15]明治廿八年十一月廿日王宮内に於て米国人「ゼネラル・ダイ」より聞取の要領.「分割4」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090169700、韓国王妃殺害一件 第三巻(5-3-2-0-12_003)(外務省外交史料館) p.92
[16]明治廿八年十月八日朝鮮王城事変之報告.機密第三十六號.「分割4」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090168300、韓国王妃殺害一件 第一巻(5-3-2-0-12_001)(外務省外交史料館)p.19
[17]“Assassinated Korean Empress documentary airs”.Royal Insight.2009-08.https://www.royalinsight.net/forum/index.php?topic=41833.0,(参照2023-05-6)
[18]明治廿八年十一月廿日王宮内に於て米国人「ゼネラル・ダイ」より聞取の要領.「分割4」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090169700、韓国王妃殺害一件 第三巻(5-3-2-0-12_003)(外務省外交史料館) pp.92-93
[19]明治廿八年十月八日朝鮮王城事変之報告.機密第三十六號.「分割4」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090168300、韓国王妃殺害一件 第一巻(5-3-2-0-12_001)(外務省外交史料館)pp.19-20
[20]同上 p.20
[21]原敬文書研究会 編『原敬関係文書』第1巻 (書翰篇 1),日本放送出版協会,1984.6 p.243
[22]「本文(5)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06031065200、明治28年10月起 明治29年1月結了 朝鮮内乱事件 秘 陸軍省(防衛省防衛研究所) p.45
[23]「本文(6)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06031065300、明治28年10月起 明治29年1月結了 朝鮮内乱事件 秘 陸軍省(防衛省防衛研究所) p.27
[24]「分割3」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090169600、韓国王妃殺害一件 第三巻(5-3-2-0-12_003)(外務省外交史料館) p.11
[25] (3) [一九○六年 統監代理 長谷川好道의 韓皇謁見 始末報告] (國分書記官通譯幷筆記).국사편찬위원회.https://db.history.go.kr/item/compareViewer.do?levelId=jh_093_0010_0030,(参照2023-05-6)
[26](94) [乙未事件 亡命者 중 李斗璜·李範來에 대한 皇帝 특별사면 거절에 대한 請訓 件] .국사편찬위원회.https://db.history.go.kr/item/level.do?sort=levelId&dir=ASC&start=1&limit=20&page=1&pre_page=1&setId=21&totalCount=21&prevPage=0&prevLimit=&itemId=jh&types=r&synonym=off&chinessChar=on&brokerPagingInfo=&levelId=jh_093r_0110_0940&position=4,(参照2023-05-6)
[27]「1 明治36年9月16日から明治36年12月2日」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03030222700、在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件(1-1-2-29_001)(外務省外交史料館) p.40
[28]「分割3」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090169600、韓国王妃殺害一件 第三巻(5-3-2-0-12_003)(外務省外交史料館) p.10
[29]中野好夫, 吉川幸次郎, 桑原武夫 共編『世界ノンフィクション全集』第37,筑摩書房,1962 p.346
[30]三浦梧楼 [述] ほか『観樹将軍囘顧録』,政教社,大正14 pp.341-342
[31]杉村濬 著『明治廿七八年在韓苦心録』,杉村陽太郎,昭和7 p.201
[32]舊韓國 官報.亞細亞文化社,1895
[33]機密第五十三号 十月八日王城事変に関する犯罪人処分方に付朝鮮政府部内の意向.「分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090168700、韓国王妃殺害一件 第二巻(5-3-2-0-12_002)(外務省外交史料館) pp.64-65
[34]中野好夫, 吉川幸次郎, 桑原武夫 共編『世界ノンフィクション全集』第37,筑摩書房,1962 pp.315-316
[35]杉村濬 著『明治廿七八年在韓苦心録』,杉村陽太郎,昭和7 p.194
[36]中野好夫, 吉川幸次郎, 桑原武夫 共編『世界ノンフィクション全集』第37,筑摩書房,1962 pp.316-317
[37]「分割3」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090169600、韓国王妃殺害一件 第三巻(5-3-2-0-12_003)(外務省外交史料館) p.13


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