なんやゆうきはなぜ牛を描き、目がたくさんある人を描くのか~なんやゆうきのドローイングについて~ by H.I
たくさんの目でこちらを覗き込む裸体の人。
耳標をつけて、こちらを見ている仔牛。
この2枚の絵は現在aaploitで開催されている、なんやゆうきの「流転の澱」のドローイング作品である。スケッチブックに描かれたそれらのドローイング作品はギャラリーの片隅に置かれたクリアファイルケースの中に複数枚収められ、販売されている。
のびやかだがどこか憂いをまとったような筆跡、決して派手でも大きくもない絵だが、ゆったりとそしてなんとも言い難い重さをまとっている。さらに言えば決してこれらの絵は爽やかなものではない。黄色と青で描かれた仔牛の絵は一見可愛らしいモチーフだが、耳標(個体識別番号の書かれたタグ)をつけられ、こちらを見つめている様子はどこか我々人間とも重なるし、社会の在り方、人の生き方など、多くのことが頭をもたげる。もう一枚は、たくさんの目がついた顔をこちらに向け、奇妙な形に折り曲げた手足を持つ人だ。顔面に描きこまれたのは、渦のようなドロっとした液状にも見え、軟体にも見えるもの。目玉だろう。顔面が目で覆われている。なんやにとってこれは自分を監視する他人の目なのか、それとも社会を見つめそこに適応しようと奇妙に身体を折り曲げてもがく自分なのか。ドローイングという未完成な雰囲気をもつ作品だからこそか、私の眼にはこの二枚の絵が張り付いてしまった。
ギャラリーによると、なんやは「生生流転と感情の明暗・浮き沈みをテーマに作品制作(aaploit HP)」を行うという。彼女は描くことによって、これまで抱えてきた生きづらさ、ネガティブな感情をそのまま作品の力とし、昇華させているとのことだ。たしかに彼女の作品は、最初の印象は明るい画材でありながらもどこか重さを感じさせる、どろりとした印象が強い絵が多かった。笑った子供の顔や、りんごの絵など、題材にある明るさと、それに反する独特の重み。形容しがたい心が引っ張られるこの感触をどう表現したらよいのか、今も戸惑いを隠せずにいる。彼女の制作の原点を知った時、人にとって描くという行為そのものの持つ力について考えるようになった。
ここで少し、なんやが取り上げたモチーフである牛について考えてみたい。牛は紀元前8,000年前から西アジアで家畜化されたとされ、唯一の野生牛とされる家畜牛の祖先種であるオーロックスは1,627年に絶滅が確認されている。家畜化されたことで、牛は自然界の淘汰のサイクルから切り離され、その生死は人為的管理下に置かれることとなった。移動手段、食物、農耕の道具として、人間社会の発展と共に、どの動物よりも人に使われる歴史を持つ生き物は牛であると言えるかもしれない。一方で、一部宗教における牛の存在は神と同じ崇拝の対象とされている。ギリシャ神話のゼウスの化身、ヒンドゥー教におけるシヴァ神の乗り物など、道具ではない崇拝としての牛の存在。一見両極端な牛の存在感は、いかに人間にとって牛が身近な存在であり、欠かせなかったかを物語っている。現在、牛の管理に使われる耳標には個体識別番号が記載されている。これを専用サイトで検索すれば、その牛が、いつ、どこで生まれ、どんな生育環境であったか、農場を移ればその記録、そしていつ屠殺されたかがすべてわかる。生まれて死ぬまでのすべての情報がそこにある。一方で、ここに生き物としての牛の豊かさや時間、個を見出すことはできない。個体識別番号を通して見えるのはPC上で記載されるテキスト化された情報でしかなく、そこにこちらを見つめる仔牛の姿はどこにもない。個を取り除かれた、物体としての情報には生の香りがしてこない。なんやは耳標のつけられた仔牛を描くことで、その絵の中に情報化され個を失った命と、確実にそこにある息吹く生命を一つの画面に表象させた。耳標と同じ、黄色でべたりと塗られた仔牛の体内の色は、情報ではない、体内に息づく命の重みだと私は感じる。彼女の作品に込められる2つの要素は決して対峙するのではなく、ひとつの事実として混在しながらも、決して同化はしない複雑性を見せてくれる。この複雑な生きることの表現が彼女の表現であり、作品に重みと生々しさを与えているのだ。
そして、我々人間もまた、個体識別番号と同様のナンバリングを受けている。これは先進国ほど整備されているわけだが、ここ日本では役所にいけば、我々の出生から現在に至るまでの情報が一枚の紙きれとして提示される。市区町村による多少の体裁の差はあれど、どこでどんな風に生きていても、紙に提示される情報は同じなのだ。我々人であってもここから生をかんじることは難しい。社会の発展と共に、情報の価値はあがり、我々の日々のほとんどもまた情報や事実として扱われている。あまりに画一され、個を取り除かれてしまう日々の中で、自身の血肉に立ち返り、息吹を感じることを、我々は知らず知らずに欲していることではないだろうか。
なんやのもう一枚の絵、目を複数持つ裸体の人物の絵からは、画一化された監視社会そのものと、それにもだえる人の姿が交差する。個を失うことを恐れ、息吹を求める一方で、社会に適合しようとする、生き抜こうとする力強さも垣間見えるのだ。ここでもまた、なんやは画の中で、鑑賞者にただただ事実を見せている。何かを受け入れ、留めることが絵をこんな形でエネルギーの塊にするのだということを改めて思い知らされる。なんやの作品の重要な点はこの「留める」という形の昇華であり、対峙するでもなく、事実として表象し、鑑賞者とその生きづらさを共有することで、なんやだけではない、鑑賞者もまた救いを感じられるのだと思うのだ。我々が心に抱える生きにくさの根幹を、なんやは複数の事実をひとつの画面に描き出すことで、あらわにしてくれている。
彼女の描くモチーフたちはおそらく、なんや自身であり、他人なのだ。物事を見逃さないとするたくさんの目。耳標を付けられ管理下にある仔牛。これらはなんやが対峙する社会そのものであり、また一方で自分であり、他人であり、個人の葛藤の形でもある。彼女の中で起きた摩擦を描いたその臨場感がドローイングという日常的な行為によって見せられることで、より生々しく伝わってくる。そしてそれによって、鑑賞者である我々自身もまた、これらをなんやの事実としてではなく、己の事実として作品に溶け込んでいけるのだ。この独特の没入感は共感よりももっと主観的にまるで自身が描いたかのような、誰しもがもつ生きづらさに気づかせてくれる。社会と個、情報と生命を仔牛や複数の目を描くことで表現することで、決して我々が画一的ではない存在であること、この窮屈な世界に対して生きづらさを感じることが決してネガティブではない、その事実をなんやは見せてくれている。
情報としての牛の一生は決して明るくは捉えられないだろう。子供のころ、家の目の前に立っていた牛市を思い出した。競りにかけられ、トラックからトラックへと移動する牛たち。たくさんの鮮やかなのぼりと賑やかな喧噪、顔をしかめたくなる牛糞のにおい、牛の鳴き声。私にとって日常だったあの光景を突然思い出した。耳標をつけ、モノとして扱われていただろう牛たちだったが、私が見た牛は確かに生きていた。私は生き物として牛を捉えていた。情報の世界から顔をあげ、目の前のものを見つめなおすだけで、私たちは息吹をかんじられる。彼女の作品にはそんな豊かさが含まれている。
■参考
https://www.city.oshu.iwate.jp/htm/ushi/index.html
https://www.id.nlbc.go.jp/top.html?pc
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