アントニオーニの『夜』が愛の不毛三部作に数えられる理由について

鏡像はアントニオーニ作品によく登場する手法らしいが、本作ではオープニングから、ビルの窓の鏡面を用いてミラノの街を映す。これを見ただけでは、どうしてこのような撮り方をしたか分からず、ただただ純粋に美しい映像としか見えない。しかし、これがどういう効果をもたらそうとしていたのかは、後になって知ることになる。

ジョヴァンニとリディアの関係は冷え切っている。基本的に二人の視線が交わることがない。黒人がレストランでパフォーマンスを行なっている時も、二人は全く違う方向を向いているか(ジョバンニは踊り子、リディアは斜め45度を向いている)、ジョバンニの踊り子への視線をリディアが見つめているかしかない。二人が視線を交わすのは、言葉を交わすときだけ。言葉がなければ、二人の上にはコミュニケーションが成り立たない。もっとも、ジョバンニには言葉しかない。終盤で、リディアがジョバンニを選んだのは、自分のことを話すからだ、というようなシーンがあった。対して、リディアは言葉すくなげだ。それはジョバンニ相手に限らず、どこへ行ってもリディアはどこか蚊帳の外のようで孤独だ。

そんなリディアに対し、ジョバンニは無関心だ。ジョヴァンニにリディアの心のうちを覗こうとする姿勢がなく、他者を慮るような態度が欠けている。逆に、リディアにはそれがまだあった。それが、まだ微かに残る愛ゆえなのか、それとも夫として理解できないがゆえの興味関心なのかは分からないが、まだジョヴァンニに対する熱は0度にはなっていなかったように見える。お風呂のシーンであえてジョバンニにスポンジをとってもらった後の、寂しげな表情。本当に受け渡してくれただけだなとでも言いたげにスポンジをみつめるリディア。身体を洗ってくれることを期待して、リディアはある種の勇気を振り絞って「スポンジを取って」を発声したように思えた。またその後、浴槽から立ち上がり裸身を露わにするリディアを前にしても、ジョバンニは少しも目をくれない。少し手を伸ばせば届く距離にあるバスローブを、ここでもあえてジョバンニに取ってもらうよう言葉をかけるが、その後のジョバンニの所作はいたって機械的だ。

そんなリディアの愛の残滓がいよいよ枯れてくるのが、夜になってからだ。それは一つにトマーゾの死がある。リディアは心配になり病院に電話をかけ、トマーゾの死を知る。その直後に、ジョバンニとバレンティナがキスするシーンがさし挟まる。そして、その後リディアはジョバンニと2階で偶然再会するが、ジョバンニは「すぐ戻る」とヴァレンティーナの尻を追いかける。欲望のままに駆動されるジョバンニ。資産家相手にそれっぽいことを言うが、そのセリフは上滑りをしており、ちっとも知性的ではない。言葉の仮面をかぶっているような。しかし仮面といっても、ジョバンニに本当の面(つら)があるとも思えない。中身が空虚なのだ。言葉をだらだらと垂れ流すことができるが、他者の内面には触れることができない。触れようともしない。

繰り返される「夜」と言うメタファーで描いた「愛の不毛」

この作品が愛の不毛三部作に数えられる理由は何なのか。それについて、分析するレビューが少ないので、自分なりに考えてみようとした。

この作品の白眉は、ラストシーンでリディアが昔ジョバンニがリディアに宛てて書いたラブレターをよみあげるシーンだ。誰の手紙?とうつつを抜かすジョバンニは何とも滑稽だ。しかし、愛の不毛と呼ばれるのは、このシーンだけが理由なのだろうか。

この作品で目をつけるべきは、リディアとヴァレンティーナの類似性だ。彼女らは共に、肩を露出したブラックドレスを身にまとい、ほぼ同じの髪の長さをしている。そして、最初はリディアはヴァレンティーナは敵対視するが、二人で過ごすうちに互いに似たようなところがあることに気づき心を溶かしてゆく。そして、この作品全体のテーマに関わる重要なセリフが2人の間で交わされる。

リディア「おいくつ」
ヴァレンティーナ「22歳と・・・数カ月よ」
・・・
リディア「年を重ねるって怖いわよ どうしようもなくね」

何気ないセリフに聞こえるが、これこそが愛の不毛たらしめている象徴的なセリフであり、そして「時間」こそがこの作品の全体のテーマであることを示してもいる。

どういうことか。相似形であるリディアとヴァレンティーナが暗示しているのは、ジョバンニは結局ヴァレンティーナと新しい恋をはじめようとも、どうせうまくいかないということだ。リディアを大事にできなかったように、結局ヴァレンティーナのことも幸せにではできない。同じ失敗を繰り返す(同じ人を好きになる)ことを表現するがために、リディアとヴァレンティーナを似せているのだ。そして、同じことを繰り返してしまうシンボルとして、この作品の表題である「夜」があるのだ。

リディアとヴァレンティーナの類似性の中で、唯一と言っていい差異は、若さだけである。だから、リディアは「年を重ねるって怖いわよ どうしようもなくね」と嘆いているのだ。新しい方に飛びつくジョバンニ。それは、資本主義が常にアップデートを要することと似ている。冒頭のビルの鏡像とともに写したミラノの街は、まさに新しい街になろうとしていた。トマーゾの待つ病院へ向かう道中も、工事中のクレーンが荒々しい音を立ててまさにスクラップアンドビルドの途中だった。

思えば、鏡像という手法が多用されていたのは、ジョバンニに対してではなかったか。実像のジョバンニと鏡像のジョバンニ。鏡の中の自分の像をジョバンニは見えていないだろう。自分のことが見えていないことについて、皮肉っているような効果をもたらすのが鏡像という手法だからだ。すなわち、鏡像とは自らを顧みないことを批判する装置だった。冒頭のミラノの鏡像のシーンは、常に新しさを追求する資本主義に対しての批判だ。ジョバンニも、口では資本主義の批判をしておきながら、一番それに近い存在とも言えた。自らの欲望(性欲)を制御できないことはおろか、過去を記憶せず歴史を上書きしていくように似た女性と浮気を重ねていく様子は、まさに失敗を忘れる資本主義的人物像。金銭欲についても資産家に社員として迎えられる好待遇の機会に心が揺れている。自分では資本主義を批判しておきながら、それにどっぷり浸かっている本当の自分を知らない。

出版パーティーの後、リディアが一人郊外の町へ繰り出していった謎に長いシーンはそういうことかもしれない。パーティーでは、多くの人が集まっているが、おしゃべりをするばかり。ジョバンニの著書は、机の上に無造作に散らばっている。パーティーに集まる出席者はみな、空虚な資本主義の子だった。持続的に新しくなっていくことが良しとされる世界観の中で、リディアは終わりがあることを死を目前としているトマーゾを目の前に知ってしまったのだ。だから、その空間がとても息苦しくなったリディアは、まだ変わらない風景を求めて郊外へ逃げた。そして、ジョバンニにすぐに迎えに来てほしいと電話をする。ジョバンニに取っても馴染みのある昔の町に戻れば、ジョバンニにも何らかの変化が生まれると思ったのかもしれない。でも、それもジョバンニには大した意味をなさなかった。

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