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作品を飛び越えること~「伊東潤の読書会」第17回『茶聖』~


昨日(10/19)「伊東潤の読書会」に参加してきた。

テーマは来年発売の『茶聖』。いわゆる課題本形式の読書会。

(ちなみに、会場はこれまでのコルクから、ピースオブケイクへ)

この読書会に参加してまもなく1年だけど、未だに気づきも学びもある場。

特に『茶聖』は500ページ前後になろうかという超ボリュームの大作。最初に読んだときはその情報量の多さにめまいがした(苦笑)

そして、千利休目線のみで物語が進行するため、ちょっと引いた目線で見渡した方が理解が深まる。

つまり、読者の読み方が問われる作品。目の前に出されたものをただ食べる、なんて姿勢じゃ、その魅力にたどり着けない。


そう思ったので、色々読んで調べて当日入り。

(その前のプレ読書会でもしゃべったことで、考えがまとまったという恩恵もあったなあ)

グループ別に席が決められているので、他の方々としゃべりながら開始を待つ。


そして、実はこの読書会には「運営チーム」サポートメンバーということで、色々お手伝いさせていただいた。

これまでと少し違った構成での3時間。自分はもちろん、参加した方に何か持ち帰っていただければ、というところの行方も、実は課題であり、お楽しみの一つ。

運営側であり、参加者。それが僕の立ち位置だ。

※始まってしまえば参加者。

 あくまでサポートなので、ホントの運営は"ホンモノの"運営・タケダさんにお任せです。


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この読書会、なにがすごいって、著者・伊東潤さんがその作品の制作秘話や魅力、改稿内容や悩んでいるところなどを、御本人がさらけ出すこと。

特に今回はこの先も発売前まで改稿したい、という思いがあるらしく、「わかってはいるのだけど、どう直そうか」という所までお話しいただけた。

ここまで言われると、こっちは何を言えばいいんだ、という思いに駆られるのだけど、そこはこの読書会に何回も来ている身としては腕が鳴るところ。

参加している他の方々と話す中で、突発・偶発的に生まれた気づきや言葉をどんどん発信していけばいい、と知っているから。


伊東さんのプレゼン(『茶聖』製作話し)が終わったところで、グループ別ディスカッション開始。

今回の試みとして、ディスカッションはテーマ別に区切った前後編形式。

・読んだ感想や疑問点などを話し合うフリーテーマ編。

・読む前と読んだ後の利休像の変化を発表するグループワーク編。


これまでの読書会ではディスカッション→伊東さんへの発表という流れでやっていたのだが、(言い方は良くないけど)雑多な質問と本筋に関する感想、改善点や要望などがない混ぜになった発表になることが多かった。

なので、今回は分けることで、参加者がその時間ごとの目的を明確化してもらい、頭を切り換えて話し合った方がいいアウトプットが出るんじゃないか、という話しでこの形式になった。


結果としては、結構うまくハマったような気がする。

前編と後編の間に、伊東さんへの質問コーナーがあったのだが(質問の内容はともかく)気になるところをはき出せたので、参加者がスムーズに次の議題に移れているように感じられた。

僕のところは、というと、(いつもの通り)僕がたくさんしゃべっておりました(笑)ま、それだけこの作品、気付いておいて、見ておいた方がいい要素がたくさんあるから、ってことでご勘弁を・・・


芸術家であり、商人であり、政治家であり、悩める父親。

これが『茶聖』における千利休がもつ顔。


一介の商人であった利休(当時は宗易)は、信長に才能を見出され、世の変革に携わることになる。

だが、信長の死により、その事業は秀吉との二人三脚へ。

秀吉に陰の(戦国武将の心を太平へ向かわせる)役割を任された利休だが、その根底にある「茶の湯」理解の自負が、秀吉に破られることで関係は大きく変わっていく。

権力と欲望が理性を越え、専制君主としての顔を強める秀吉を次第におさえられなくなり、利休は秀吉からの"無用"の烙印の時を待つ状況へ追い込まれる。

しかし、その利休は、命の危機が迫るなかで、己の内面が充実してきていることに気付く。切腹のとき、彼の脳裏に浮かんだものとは・・・


これまで神秘的・謎めいた存在として認知されることが多い利休の泥臭さ、人間らしさ、そして人としての未完成ぶり、成長の過程。色々な利休が、そこにあった。

だから、読者が自分の好きなところ(目が行ったところ)がどこなのか、が大事。なぞっていては、ただの長い物語でしかなくなる。


後半のグループワーク、僕の班は利休をけちょんけちょんに切り捨てていた(苦笑)

でも、それがいい。

全能感があった利休が、改めて自分を見つめ直し、(例え不可能でも)心から望む光景を目指していくその過程にこそ、この作品の魅力があると思ったから。

後で気付いたのだが、『茶聖』の話をしていながら、茶の湯の魅力や、利休後の茶の湯、そして利休死後の千家のことや、千家の(複雑な)家族構成など、色んな方向へ思いは飛んでいった。読書会でよくある、雑多な会話が飛び交う光景。でもこういう会話ができる読書会は、おもしろい。

『茶聖』はもちろん千利休の最期で終わる。でも一度思い描いた物語は、読者の中で拡がり、いつしか作品を飛び越えていく。

利休がいかに充実した生涯を終えても、生き残った者の日々は続くからだ。


秀吉は次第に破滅していき、家康が最終的に天下を制する。

利休が茶の湯を託した織部は利休と同じような最期を遂げる。

そして千家の遺族の苦しい日々は続き、千家の茶が晴れてパトロンを得て世に出て行くまで、三代をかけなければならなかった。


文章だと数行で表される事象に圧縮された、無数の物語。

それらも全て感じ取り、見たり出たりを繰り返していける面白さ。


読書の、より前のめりで主体的な楽しみ方を、この読書会で教えてもらった。

だから、というわけではないが、グループワークの発表では、他のどのグループとも違う独特な(好き勝手な)発表になった。

まあ、これはこれで、ということで。


終わった後は懇親会。

読書会はだいたい話し足りないもの。

お互いの近況報告とか、他の本の話しとか、他のグループの情報共有とか。こっちの方が本番、というくらいの盛り上がり。

やはり、読書会は面白い。

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