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アフターサン

コモリタくん(よく会い、よく喋る人)と冨樫義博展に行った。コモリタくんは普段はしっかりしていて、西尾一男ばりに段取りをやってくれる。(曰く他に誰もやらなそうな場面でその役を引き受けているだけらしい。)その回は、珍しく俺が段取りをした回で、コモリタくんはなんか全然ダメだった。会場がどこかすら知らずに雑に地下鉄に乗って当てずっぽで降り(不正解)た後も、出口を探して地下から出られなくなっていた。どの部分で能力の底上げをしているんでしょうか。冨樫はすごいや。尾田栄一郎とか芥見下々とか、今作を完結させたら、『レベルE』みたいなことをしてほしい。ていうかみんなやってほしい。バビマイナとかベレレインテとか、ふと頭に浮かんでなんだっけコレ…となる言葉は大体王位継承編の登場人物だという話をした。帰りに西新でお酒を飲んだ。知っているけど知らない町。もっと知りたい、また行きたいと思った。「セックス」という言葉をつかうのを憚って「チュピチュピ系」と言っていたら、何事もなく通じていたしそれにツッコまれることもなくて別れてから帰りの電車でキモかったなと思った。

鬱のビッグウェーブが訪れていて立ち行かない。月金で潜水をして、土日に息継ぎをしているみたい。少しのことで涙が出て、動けなくなってしまう。内的な要素ではなく、外的なもの。ダイアンの2人が屁をかけあってるのを見たり、散歩している犬が尻を振りながら歩いているのを後ろから見て、泣いてしまう。コナン映画の人気っぷりを見て、感情の堰が壊れる。感度5000倍。本当のところ、まだどこかで鬱と共生していく覚悟がなくて、外的な要素に原因を押し付けているだけなんだろうと思う。午前中は重力が強くて、15時頃からやっと飛べる。星野源の『エピソード』を聴きながら帰る。暗い人間の精一杯のポジティブ。明るく生きたい。今はまだ、営みの街が暮れても色めけない。スキー場のレストランでメシを食いたい。死にたいと思っても死ねないし死にたくない。頭は騒がしいが心は凪いでいて腹が立つ。この感情にも「希死念慮」という名前があって安心する。死にたがりの先人たちが俺を生かそうとしてくれてると思える。どうにかー、がんばりましょう。

記憶の中の空白に気づく。学生時代のこと、友達とのこと、自分はよく覚えているのだと思っていたのに、その人や物との関係を過去へと辿っていくと抜け落ちた部分があまりにも多い。きっと自分の由来だってほとんど覚えてないんだろうな。そう思うと今の自分が確かに在ると感じるのは不思議に思う。俺の覚えてないことすらも俺を構成していて、テキトーだ。久しぶりに会った友達と話した。とにかくお金がなかった高校の頃、彼がよくご飯を奢ってくれていて、どうしようもない俺は「将来犬を買ってあげるね」と出任せを言っていたらしい。彼の家におじゃましたら、コイツがいた。

チャクラ宙返り

「アレじゃん!」と興奮していたら、高校の頃一緒にセカンドストリートに行ったときに見つけて買ったものだったらしい。記憶にないことも俺を構成していると言ったけれど、コイツは俺を構成していない。犬を買えるほどのご馳走を返せるよう、仲睦まじくあろうと思う。

死にゆっくり近づいていく自分を生へと引っ張ることに精一杯で、人生のプラス値を叩くことができずにいる。それなのに腹が減ってメシを食わざるをえないことが情けない。メシを食うと生きていくのもまあ悪くないと思うのが情けない。つくづく生きるための肉体なんだなと思う。今はひとつひとつ何かのライセンスを失っていく一方だけど、それでも歩くことはできる。歩き切って死ぬように。


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