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馬鹿が見る夢

人の気持ちがわからないことがわかってきた。
気づくまでに時間かかったなー。

相手の気持ちを理解しようとするとき、まずは相手のことを考える。
この人はどんな人なんだっけ。
一番わかりやすい(はずの)人間の尺度は自分なので、自分と相手の違いを比べてみたりする。
この人は、自分に比べるとかなりネガティブだな。行動原理の中でプライドの優先順位がめっちゃ低いな。とか
自分とその人の性格の比較、の世界をどんどん広げていくと、相対的な自分の性格も見えてくる。
相手のことを考えると自分のことも考えられるのでお得。

でもその相対評価では掬い漏らしてしまう部分がある。
例えば、家族から否定されて育ったからネガティブになった人と完璧主義者が故にネガティブになった人は違う。
人間は完全に相対的な存在ではなく、人と比べて語りえない絶対的な部分がある。

ここで便利なのが差別です。

人間をあらかじめ用意しておいた型に当てはめると、その人のパーソナリティまで固定化してもいいみたい。
バイアスをかけてみよう。
女だから、片親だから、背低いから、韓国人だから、ゲイだから。
こういったバイアスは、相手のことを理解した気になれるだけではなく、相手の行動を強制したり抑圧したりもしてすげー便利だ。

こういった易きには流されてしまうので、気を付けないとすぐに偏見は持ってしまう。
人間の相対化できない絶対的な部分を雑に咀嚼しようとして、本質的な理解から遠ざかっていく。
最近はなんかそういうのに潔癖になってしまって、「こういう人いるよね」的なあるあるなんかを受け付けなくなってしまった。
気づける範囲で差別の芽を抜いておきたい。

俺は自分と相手の比較の中で人間を理解しようとしているので、本当のところで相手の気持ちを理解できてない。
自分がされてうれしかったことを手札のように溜めておいて、ここだというタイミングで他人に返している、データの優しさをしているだけ。
お茶を濁している。

はなから人の気持ちを理解することから逃げてるんじゃないか?
そもそもお前だって自分を理解してもらおうなんて思ってねえよな。

そしてはじめにループする。ここまでがワンセンテンスだ。よろしいか。

何かこう、実体験を混ぜながら書こうと思ってたのだけれど、自分にとって日常的な思考過ぎて書けなかった。
悔しい。

でもなんだか今日みたいな日は、バイアスをかけてまでも他人のことを理解した気になりたいと思う人間の身勝手さがなんとなく愛おしいとも思えた。

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