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農 について考える。生業で農業にするために

先日、宇城市の広報誌に少し取り上げていただきました。
しかしながら、綺麗なところばかり抜き取って下さり、少し着飾ったような記事が恥ずかしいのですが、
今日も山で祖父母と剪定の内容について、密に話し合いをしたところでありました。笑
下の写真中央部、半端切りをやめない祖父に指摘したところから始まりました。

「今までやって来たことをそんな簡単には、変えられないんじゃあーー」と、祖父。
私が粗剪定をしたのち、ざっと中剪定をする際の共通認識として
一、立ち枝はきらない
一、内向枝はきらない
一、わからなければそのまま放置しててよい
一、半端切りはしない、切るなら根本から

と、単純な内容にしたつもりでした。
しかしながら、現実は「邪魔だから」といい、混み合うといって内向枝を切る、半端切りをやめません。
(半端切りに関しては有機慣行問わず良しとしてはいない)
以上の問題について指摘したところ、50年やってきたのに若造に指摘されるのは鬱陶しいと言った内容の返答が返って来ました。
言い方もだんだん悪くなった私も悪いのですが、
しまいには、立ち枝などを少しくらい切ったのなんのでいちいち言うくらいなら体動かせ!と。

確かに、就農してこれから2年目というところ、未熟も未熟な私ですが、有機農業を営んでいる以上は植物にストレスを与える、管理する
というよりは、最大限に植物本来の働きを生かしつつ、果実を生産していかなければ、慣行農法に比べ減農薬、減肥を実現することは出来ません。

内向枝を切ると、様々な問題が生じます。
主には、癒合が鈍いことが挙げられます。
更に、頂芽優勢が解除され、切断部から基部にかけての発芽が促進され、芽数が増えて短梢芽が多数出現します  
さらに、緑化後根に供給されるオーキシン供給が鈍くなり、後の生育に影響を及ぼします。

立ち枝は、後には、追い出し剪定で更新していきますが、立ち枝や内向枝をきると、芽数が増えて短梢になるだけでなく、枝自体が硬くなってしまいます。これは、ジベレリンの作用によるものと言われています。
従来立ち枝には高品質果がならないとされてきたのは、立ち枝や混み枝を切り、受光体制重視の剪定であったことが考えられます。
それにより、立ち枝はジベレリン活性の高い状態にあったため、高品質果がなりません。

ざっとみても、これだけの影響を持つ枝という事であります。

結局、生産性に影響するから、という話をしてもなかなか話し合いになりません。

ここで本題になるのですが、現在の我が家の営農では農、の後に業を容易くつけて
農業と名乗って良いのか、という葛藤があります。
しかしながら、農と生活は昔から非常に密接に関わり合って来ており、
生産性のみを求めると今までの生活を大きく変える事になり、大きな反発を招きます。

さらに、人間の特徴ではありますが、年齢を重ねるごとに人は、経験則から物事や問題を処理する事が多くなります。
これは本能であり、エネルギーの消費を最小限に抑えるという進化の過程での工夫です。

だからこそ、生活と仕事は区別しなければならないのです。
所謂子息、孫就農の際のハレーション言うんは、ジュネレーションギャップによる世代間の価値観の格差や、経営観の違いから起こるものと考えます。
しかし世代間の考え方の相違は当然であり、若いから、経験があるから、という事ではなく、共通のテーマを定めて根気強く議論する必要があります。

さらに、仕事で稼いだ元手がなければ明日の生活を営むことは出来ません。

だから、おかねを基準にして、仕事に関しては厳しく指摘します。
逆に、指摘された事については、原因を考え、解決するまでを徹底しています。

どの産業においても、停滞は緩やかな衰退を意味しておるというのは経営学上での常識であり、イノベーションの重要性は経営に携わる人ならば誰しもいつも考えられている事やと思います。

しかし、生活と密接に関わり合っている農に関してはイノベーションの際は特に、
気をつけ無ければ、生活の軸を揺るがしかねない事になることを理解しておく必要があります。

よって、1番の理想は
それそれが、「このままではいけない」
と自覚し、家族が組織として機能していく事ですが、なかなかそのきっかけを掴むことができません。

色々書くととてもとても長くなってしまいますのでこの辺にします笑

余談ですが、恋人感覚と同じと私は思いますが、
沢山の好きや良いこと、が共通しているのも良いですが、
嫌いなこと、リスクと向き合い、
共有できる方がさらに前を向いて、頑張れるような気がするのです。

ここまで見てくださり、ありがとうございました


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