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寂しさ

人は孤独だと、ひしと感じることが増えた。
どれだけ盛り上がっても、どれだけ仲が良くても、完全に「わかりあう」ことなんかできない寂しさ。というか、この世界に「わかりあう」が存在しないことへの寂しさ。
それは同時に「私」という明確な個が存在しないというあやふやさでもある。人間という存在。実体のないもの。虚無なもの。多面体、ですらないのかもしれない。
そんなことずっと前から分かりきってる。頭では分かってるけど、それを感じるたびに寂しくなる。
どれだけの人と一緒にいたって、私はひとりだし、私が誰かにとっての「わかりあえる他者」になることもない。


使っている言語が違うこと。
いつだか久々に集まった友人たちと話していた時に、なんとも言えない噛み合わなさを感じた。
それぞれ見てる世界が違って、使う言語も違っていて。
それぞれの時間がちゃんと進んでいるんだ、それぞれの道を進んでいるんだ、と嬉しかったけれど、やっぱり少しだけ寂しいと感じてしまった。
それは友人が離れて行ってしまうことへの寂しさではなくて、人は本来一人だったことを思い出したことへの寂しさ。
それでも、彼らは会話の中でほぼ口論になりながら言語の定義や前提をすり合わせる過程を挟んでいて、私はそれがとっても嬉しかった。
話はなんにも進まないし結局噛み合わないままだったけど、それぞれが違う言語を使っているということを分かっていて、それでも相手のことを「わかろう」としている。
疲れるし正直めんどくさいけれど、そこをすり合わせないと先に進めないという姿勢。
それは、他者を「わかろう」とすることを諦めない姿勢だと思った。


言葉には力があると思っている。
言葉は私自身で、言葉は世界。
言葉にすることは、生きていることの表現だと思う。

言葉は積み重なる  人間を形作る
私が私自身を説き伏せてきたように
『独白(検閲解除)』amazarashi

もちろん言語が全てとは思ってないし、非言語が下等だとかいうつもりもない。非言語表現の方に重きを置く人がいるのも知っているし、私だって全てを言語に頼っているわけではない。最近は感情や身体性を言葉より先に感じる訓練をしている。


ただ、私の中に人とわかりあいたい根源的な欲求があって、それができるのは言語を通してだと思っているというだけの話。
寂しさや絶望を引き受けながら、どうにか言葉にし、ぶつかることによって、少しだけ手を取れる、少しだけわかりあえると思っている。
実体のない自分という存在を、人間という虚無な存在を、言葉によってかたちにできると思っている。

だからこそ、わかりあいたい相手が言語に重きを置かないとき、どうしようもなく孤独になる。
違う言語を使っているとこちらだけが感じている時、一人取り残された気持ちになる。
何が良いとか悪いとか、そういう話をしているわけじゃなくて。
相手は何も悪くなくて、勝手にこちらが寂しさや傷つきを感じてしまっているだけで。
そして、そういう伝わらなさを積み重ねることで、私は少しずつ言語にすることを諦めていってしまう。
分からなさやもどかしさ、伝わらなさを引き受けながら、それでも言葉にすることを諦めたくないと思っていたはずなのに、少しずつその感覚を手放していっている自分がいる。
情けないし、自分の語彙力や言語感覚が錆び付いていくのも虚しい。


「大人になる」ということによって、この寂しさを受け入れることになるのだろうか。「わかりたい」という欲求を手放していくことになるのだろうか。
そこに頑なに執着し固持したいとまでは思わないし、少し先の自分がどんな気持ちで世界と向き合っているのか分からないけれど、
今の私にとっては、他者や世界との関わりに対する純朴な期待や無垢な希望を持つこの幼い自分が消えていってしまうのが、少しだけ怖いなと思う。
人とわかりあいたいという気持ちを忘れないであげてほしい。諦めないであげてほしい。
そして、言葉にすることを諦めないでほしい。
少し前にある詩人の方に言われたこと、「言葉を突き詰めていくことでできることはまだある」。
やっぱり私もそう思う。


言葉が伝わらないことの動揺から、つい共通了解のようになっているテンプレート言語に頼ったり、近代理性の知識のような言葉に頼ったりすることがある。あるいはそれすらも放棄して「分からない!言葉にできない!」と投げ出すこともある。
それ自体が悪な訳では無いけれど、今の私はそれを乗り越えたいと思う。
自分の言語秩序を壊すような他者が居なくなることが怖いと思っていたけど、それよりも一番怖いのは、新しい「関係」に対峙して新しい何かが引き出されているのに自分がそれに気づけなくなることかもしれない。


であるならば、やっぱり、丁寧に言葉にしていくことを妥協したくない。
感覚や身体性に一番しっくりくる言葉を見つけたいと思うし、納得する言語で相手に伝えたいと思う。
借り物の言葉じゃなくて、感情や感覚や信念をどうにかこうにかその人が言葉に生まれ変わらせたものを、愛おしく思う。
そういうものを積み重ねて、人と接していきたいと思っている。

数年前からずっと言っている気がするけれど、改めて来年も大事に抱いて過ごしてみる。

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