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『人間っていいな。』 オドリバ┃focus01.浅川奏瑛

私が浅川さんと出会ったのはまだ半年前、だから私は浅川さんの知らない部分が沢山あります。今回は、その一部分がみつけられた、見せつけられた作品だったなと感じている。

今回舞台写真撮影を担当させて頂き、その後公演を観させて頂きました。
その感想、とその時の感情
今思えば、こうだったのかもしれない、の想像をなんとなくnoteに書いてみようかと思います。

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【生前葬】という言葉を初めて知った。造語だと思っていたが、実際に生前葬を行う著名人も多いようだ。生前葬は自分の終わりを看取る事ができるのが最大のメリットであると、インターネットには書かれている。

けれど、パンフレットに浅川さんは「現在の不安定で不確かな”生”に少しだけ輪郭を与えられるような気がする」と書いている。

もちろん終わりを見つめることは重要である。
けれど浅川さんの『人間っていいな。』に関しては、”おわり”を重点的に着目するというよりも、”はじまり”と”おわり”の2つの点を繋げる”今”をもう一度見つめる。
この先の”死”を理解することで今の自分の”生”を理解する、ということに着目しているように見えた。

また、浅川さんだけではなく、今回の照明・音響を担当しているおにぎり海斗さんも一緒に生前葬を行っているようである。おにぎりさんの生前葬は、どちらかというと”死”を知る、というよりも、いっぺん死んでみて、生まれ変わってみる。みたいな雰囲気があるんじゃないかと今日の様子を見て感じた。
桑田佳祐の「桑田佳祐追悼特別番組」のような感じ。

それぞれの生前葬をたちあげた2人は、作品にどのような感情が詰まっているのだろうと、とても気になることが多い。

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以下、ワタクシの勝手な作品の印象、妄想
そんなふうに感じた観客もいた、程度に読んでいただければと思います。

まず、舞台監督補佐の松本さんがモップでオドリバを掃除する。
もちろん、お客様が土足でステージを渡っているから掃除を行っているのだろうけれど、なんだかその掃除ですら演出になんじゃないか、と感じてきた。

場を清める、神聖なもの、儀式でもはじまるのかしら、というような雰囲気。

浅川さんが入ってくる。
入っては出て、を数回繰り返す。淡々と行うのには、なにか意味があったのだろうか。
人生に諦めがついているようにもみえるし、これからはじまる儀式のための挨拶のようなものにも見える。

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はじめのムーブメントにはどんな意図が込められているのだろう。
丁度フライヤーに描かれた女性の髪のように、舞台に三途の川が流れているよう。
身を委ねたり、逆らってみたり。
後ろ向きで周回するのは、船を漕いでいるのか、もしくは時間を遡っているのか。
どちらが“生”、どちらが“死”の隔てはなく、右も左も、生存者と死者でいっぱい。
死んだように生きる人間と、死んでもなお生き続ける(語り続けられる)人間の間をくぐり抜けるような時間。

何度も同じムーブメントが見られるのは、同じ日々や、同じミスを繰り返してしまう私のよう。けれども、位置は変わるので、同じ日々であるように見えて、本当は全部違う、昨日は戻ってこない、という意味なのかもしれない。「日々通り過ぎてゆく数々の出来事や自分の心の動きにはもう2度と繰り返すことがないの」
という言葉と重なったように思えた。

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丁寧に、キレ良く始まったムーブメントを全部放り投げて
「こんな時間終わってしまえ!バカヤロウ!」
とおさかなさんを一度ビンタ

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バケツのシーン
落ちた木は、【私の失敗・私の罪・私の煩悩・私から見える貴方達】のように見えていた。

何も見えないようにして、道化を演じていればみんな笑ってくださるでしょうし、悲しいことも苦しいことも、嫌なことも見ずに済みます。
無知を演じていれば、「おバカだなぁ」と言ってみんなが優しくしてくれる。
それなら、こうやって楽しそうに、バカをしていればいいじゃないか。

太宰治『人間失格』の葉蔵を思い出す。

兵隊のおもちゃのような動きは、道化と共に、意思なく、人や時代、流行りに委ねて生活することに慣れてしまった現代人のよう。
意思を持って動いているように見えるけど、実は私達は色々な場面で行動を促されているから。

道化が道化であると悟られてしまう
そうすると、自分のボロがどんどんと溢れてくる、見えてきてしまう。
私はふとした時に、自分の失敗を思い出してよくうわぁ、、、と頭を抱えたくなるタイプの人間です。他の失敗、嫌だったことを芋づる式にズルズルと思い出す人間なので、木を掻き集めて動揺する浅川さんが自分と重なったのかもしれない。

これまで隠していた僕の罪、僕の良くないところ、全部知らないふりをしていてごめんなさい。
もうぞんざいには扱いません。ここで懺悔致します。罪を認めます。だから、許してほしい。
というように並べる木

けれども、一度思い出してしまえばずっと頭にはそれがこびりついてしまって。
罪悪感と自分への嫌悪感で道化なんて演じられなくなってしまった。
自傷行為で忘れられるなら、快楽が得られるなら、とそちらに手を出してしまう。
ボコボコと頭を打って、考える余地を無くす。
思考を停止させる。

やめられない。

まさに負の連鎖だな、と感じるシーンだった。

引き攣った笑顔と笑わない目
映画「JOKER」の冒頭シーンを思い出す。
バケツに何かを描くシーンも、ここから来たのだろうか?
自ら笑っているのか、それとも否応なく笑ってしまうのか、笑いたくないのか、それすらも分からないといった雰囲気

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急にドロンとした瞳を見せて、シーンは電車の中
映像が流れる

電車に揺られる俺、もしくはお盆にひゅう、どろんと現れる幽霊だろうか

頭を隠して背中、尻をこちらに向ける
脳内では「おしりを出した子1等賞」の文字が浮かぶ

同じ動作が同じ場所で繰り返される。感情のない、無機質な動きが繰り返される。
こんな日々があと何年続くのだろうか、と飽き飽きして、動きを、電車を、時間軸を加速させていく。

誰だよ人間っていいな、なんて言葉を口にしたのは、飯もまずいし眠りも浅い、毎日同じことの繰り返し、そんな日々は散々だ!
もうどうにでもなってしまえ!

と言わんばかりの自暴自棄

このときの浅川さんが、肉体的にも、精神的にも破綻してしまうのではないか、と本当に心配になった。

不意に赤くなる舞台が、肉体・精神に異常をきたしている警告に見えた。


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一度破綻した状態から始まるモノローグ

ぽつりぽつりと、幼少期の浅川さんと今を生きる浅川さんが話を進める
まるで、『新世紀エヴァンゲリオン』第25話 終わる世界 の碇シンジのモノローグのよう

人間は、嫌だと思ったことだったり、欲するものが手に入らなかった時の記憶は、どうしてこんなにも鮮明に覚えていられるのだろう。
楽しかったことよりもしっかりと記憶に残る。

小学校から、みんなと一緒であることが正解であると言われて育ちました。
それに応えられない自分がいて、悶々とする日々を送りました。

全部を受け止められる日がくるとは到底思えない
けれども、そういうのがあるから私達は人間なのではないだろうか

それは人間でした。か、

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電話を取る
嬉しいけれど、少し不安な、少し悲しい表情

実家からの電話だろうか?
「元気にしてる?ちゃんと食べてる?」と聞こえてきそうな雰囲気

今ここで全てを曝け出してしまったら、止まらなくなってしまいそうな

だから
「大丈夫だよ」と一声残す。
理想的な自分なんて、どこで見つかるのだろうか


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祭事の準備が始まる。
祈りのための支度をゆっくりと、丁寧に進める

今までの後悔、罪を丁寧に並べる

儀式が始まるようだ

生贄は誰だろう

目の前には今までの表情とは全く異なった浅川さん

ああ、この祭で祀られるのは、生贄になるのは彼女自身なのだと悟った瞬間でした。


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ついに始まってしまった(私としては「しまった」なのです)儀式。
終わりを迎える瞬間を見届けなくてはいけない。
私はまだそんな心の準備ができていなくて

一人残されてしまう気分になる
夏祭りで迷子になってしまった子供になった気分

祭会場の騒がしい音と、土着的な音楽

まず供養されるのは、道化を演じた浅川さんだったのかもしれない、次に彼女の罪、欲望が供養される。

儀式の中心地にはぽっかり穴が空く

次に供養されるのは

私か




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浅川奏瑛という少女を生贄として、さまざまなヒトが浄化されていく

扉が開き、彼女がそちらに導く

現実世界に帰ることを促してくれる

でも、そちらに行ったら、彼女にもう会えない気がしてしまう
『千と千尋の神隠し』のハクが、千尋を元の世界に帰すように。


だから涙が出た

みんな、彼女が大好きなんだ
彼女とこれからも一緒にいたいんだ

だから彼女が犠牲になる必要なんてないのに

浅川奏瑛をどうか返してほしい

と願うことしかできない


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浅川さんの作品を見ていると
浅川さんの感情と私の感情が混じり合う

同じ感覚を味わっている人も多いんじゃないだろうか

だから感想は自分語りのような口調になるし
一人称もコロコロと変化する

誰よりも人を想って作品を組み立てる浅川さんに

ワタクシは救われ、そして、ゾッコンです。


作品を観るときはノート片手に
その時の殴り書きメモ

この時間を大事にしたかったのでしょう
だから1ページに詰め込まなかったのでしょう

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