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【映画鑑賞記録】「梅切らぬバカ」

◯ストーリー◯

山田珠子は、息子・忠男と二人暮らし。毎朝決まった時間に起床して、朝食をとり、決まった時間に家を出る。庭にある梅の木の枝は伸び放題で、隣の里村家からは苦情が届いていた。ある日、グループホームの案内を受けた珠子は、悩んだ末に忠男の入居を決める。しかし、初めて離れて暮らすことになった忠男は環境の変化に戸惑い、ホームを抜け出してしまう。そんな中、珠子は邪魔になる梅の木を切ることを決意するが・・・。
(オフィシャルサイトより)

◯感想◯

あの「伸びたままの梅」は忠男のような存在のメタファーなのだろうか。劇中では梅を父に見立てていたが、自分はなんとなくそう思った。

だとしたら、監督の伝えたいことはなんだろう。インタビューでは「共生への願い」という言葉をつかっていたけれど、その言葉は何を意味するんだろう。忠男のような存在を受け入れる「お互い様」社会への希望?

でもそれって、今の日本にはとても難しいことなんじゃないだろうか。

日本中に溢れかえる高齢者、ジリ貧生活の若者、新旧の立ち位置を同時に求められる女性たち、不況になっても求められるものは変わらない男性たち、急速に進む高齢化社会に産み落とされた子どもたち。

誰しも自分の生活を維持するのに手一杯だというのに、これ以上どこに他者を受け入れる余裕があるのだろうかと思う。

劇中、お隣に引っ越してきた里崎家は最初から割合話の分かる人たちで、珠子や忠男の良き理解者だった。でも、もし、お隣の里崎家のなかに視覚障害者がいた場合どうしたのだろう。

梅を切らねば、目の見えない人はぶつかってしまうし、仮に避けることができたとしても顔の位置に枝があるのはリスクでしかない。

そういう時はどうすればいい?
忠男を羽交締めにして梅を切る?
視覚障害者に梅を避けろと言う?

今はまさにそういう社会だと思う。

誰もが何かに困っていて、他者のことを本当の意味で受け入れたり、自分の生活の一部に取り入れることはできない。

ある意味「お互い様」の社会とは言えるけど、つまるところ誰にとっても冷たく険しい社会。余裕のある社会というのは、どこから生まれるのだろう。考えれば考えるほど難しい。

この作品では、忠男たちを受け入れない人たちが随分と愚かに、悪者であるかのように描かれていた。フィクションだからそれでいい、と言ってしまえばそれまでかも。けれど現実には、受け入れない側にも「愚か」なりな理由があるのだと思う。

タイトルは、日本の諺
「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」
から来ているものだろう。

桜も梅も似ているけど性質は異なるので、手入れはそれぞれにあったものにしなければならない。転じて、人の個性に合わせて手をかけることが大切、という意味。

私なりの解釈としては、忠男たちが梅切らぬ馬鹿なのだとしら、忠男たちを受け入れない人たちは桜切る馬鹿。

梅切らぬ馬鹿が、梅を切らない理由があるように、桜切る馬鹿にも桜を切る理由があることを想像することが、今の日本に求められる「共生」のファーストステップだと思う。

個人的にはそういうところをすっ飛ばして...というか、そういうところに一切のフォーカスが無かったことに違和感のようなものを感じてしまった。忠男たちは社会のお荷物ではないが、お客様でもない。社会を構成する一人。そういう視点がもうちょっと欲しかった。

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